第2話

 

 

ヨーロッパの孫に聞かせる

 

日本と世界の歴史

 

第2話 不思議の国ニッポン

 

 

岡市敏治

 

 前回は宇宙の始まりについての話だったね。今回はいきなり138億年たった地球上のお話だ。

地球は水の惑星といわれるように、表面の70%は海で覆われている。その北半球に浮かぶ最大の大陸がユーラシア大陸だ。

この大陸の西の端のヨーロッパに君は住んでおり、君のママの母国ニッポンはその東のはずれの小さな島国だ。君のいるオーストリアやドイツ、フランス、イギリスといった西ヨーロッパ諸国とニッポンは世界でもトップクラスの文明社会を実現していて、高度の産業国家でもある。

アジア、アフリカのほとんどの国が19世紀にヨーロッパの植民地になったが、非白人国でただ一国独立を守った国がニッポンだった。

 

ユーラシア中央の乾燥地帯は悪魔の巣窟

ニッポンは今から150年前に明治維新という革命を起こした。富国強兵を合言葉に産業革命を経て、維新からわずか38年後にはナポレオンを破った大国ロシアを日露戦争で打ち負かしてしまうのだ。そしてニッポンはアジア、アフリカで唯一、ヨーロッパ列強の仲間入りを果たす。どうして極東の小国ニッポンにそんなことが可能だったのだろう。

世界地図(図1)を見てみよう。ユーラシア大陸を北東から南西に横切る巨大な乾燥地帯(ユーラシア中央部)があるだろう。これはオアシスの点在する砂漠かステップで、その縁に森林ステップとサバンナがある。ここは実は悪魔の巣窟なのだ。3000年前の昔から、スキタイ、匈奴、フン、モンゴル、イスラム(アラビア、トルコ系民族)といった遊牧民がこの地域から現れ、暴風雨のように文明社会に襲いかかり、文明はしばしば、立ち直ることの困難な打撃をこうむってきた。

 

ウィーン包囲

君の住んでいるウィーンには、中心市街地を取り囲むようにして円形の巨大な大通りリンクがある。これはハプスブルグ帝国時代の城壁の跡だということは君もパパから聞いて知っているだろう。城壁内には王宮やシュテファン寺院があった。今もあるね。

1683年、35万のオスマントルコ軍(イスラム)がウィーンを包囲し、ヨーロッパ世界()を震撼させた。2ヶ月間にわたり、18回に及ぶ大攻撃を仕かけるが、なんとかこの城壁のお蔭で持ちこたえた。

その150年前にも、ウィーンはオスマン軍に包囲された。(第一次ウィーン包囲)

その経験が生きたのだが、ウィーンがイスラムの根拠地の乾燥地帯から遠すぎて、補給線が伸び切ったことがオスマン軍の敗因となった。

元寇(蒙古襲来)

実はニッポン()でも今から700年前、モンゴル軍に攻め込まれた。元寇(蒙古襲来)である。1281年、モンゴル元軍は元船4400隻に14万の大軍を乗せて、ニッポンに攻めてきた。(弘安の役)

ニッポンの鎌倉幕府のサムライたちは勇敢に立ち向かったが、なにしろ相手は大軍だ。ニッポン危うし!

ところが元軍が総攻撃をかけようとした直前に大型の台風がやってきて、元船はことごとく海の藻屑となった。(その元船が九州沿岸の海の中で700年振りに見つかり、いまニッポンで話題になっている。)

この7年前にも元軍がニッポンに攻めてきた(文永の役)が、この時も台風に壊滅させられている。元軍を撃退してくれた2つの台風を、ニッポンではカミカゼ(神風God Wind)と呼んでいる。

モンゴルの敗因はウィーンと同様、ニッポンが遊牧民の根拠地である乾燥地帯からあまりに遠すぎたこと、朝鮮海峡200キロを馬でなくて未経験の船で渡らねばならなかったことだ。

 

『文明の生態史観』

ここで図1の世界地図を図2の「ユーラシア模式図」に書き直してみよう。何ごとも単純化したほうがわかりやすい。この模式図は実はニッポンの高名な文化人類学者ウメサオタダオが作ったもので、以下ウメサオの『文明の生態史観』によって説明を試みてみる。

ユーラシア大陸を横長の楕円形で表すと、西ヨーロッパ(X)とニッポン(Y)は東西の両端、そのはしっこに位置し、それぞれが遠く隔たっているだろう。にもかかわらず、この2つの地域は高度に発達した資本主義体制で、その歴史モデルは驚くほど類似している。この体制はいずれも、革命(フランス革命他、明治維新)を経てブルジョアジーが実権を握った。革命前はどの国も絶対君主制(ブルボン王朝他、徳川幕府)でこれ自体は封建制に根付いたもので、封建制度(*)がブルジョアジーを生み育てた。(ニッポンでは元寇をやっつけた鎌倉時代から封建制が始まる。)

封建制度feudalism

古代奴隷制と近代資本主義との中間にあり、西ヨーロッパと日本の中世で典型的に成立した。封土(農地)の授受を中心に形成された領主と家臣の主従関係。農業生産力の増大により、余剰生産物の発生→定期市の誕生→中世都市の成立→市民(ブルジョアジー)の誕生へとつながっていく。

めぐまれた地域・西ヨーロッパとニッポン

ニッポンの歴史進化は封建制から絶対君主制、革命、資本主義、そして高度文明社会へと順次進んできたが、そのような歴史進化を見せた国は、アジア、中東、アフリカのどこにもない。

遠く離れた西ヨーロッパにのみ同じような歴史の平行現象がみられるのだ。なぜだろう。ウメサオはいう。「それは、西ヨーロッパ(X)とニッポン(Y)が乾燥地帯(Z)の暴力の源泉から遠く離れた地域だったから」。つまり、二つの地域は蚕がさなぎ(封建制)、繭(絶対君主制)やがて蝶(資本主義体制)となるような、内部からの力による歴史進化が可能な、めぐまれた温室のような地域だったというわけだ。

 

乾燥地帯の縁辺部は破壊と征服の歴史

それにひきかえ、乾燥地帯の縁辺部にあたるⅠ中国世界、Ⅱインド世界、Ⅲロシア世界、Ⅳ地中海世界はどうだろう。ここは黄河文明、インダス文明、メソポタミア、エジプトの4大古代文明の発祥地だが、古代もそれ以降もおおむね独裁者体制で、封建制度は成立せず、したがってブルジョアジーも存在せず、専制君主制がずっと続いた。

なぜか、この2つの地域はいずれも乾燥地帯に隣接し、そこからくり出す遊牧民の破壊と征服支配の歴史なのだ。一時は立派な社会を作ることが出来ても、その内部矛盾がたまって新しい革命的展開に至るまで成熟することができない。建設と破壊のくり返しで、西ヨーロッパやニッポンのように、さなぎから蝶になるような自成的な歴史進化が不可能な不幸な地域だったというわけだ。

  

ニッポンは世界8大文明の一つ

ヨーロッパ人から見れば、ニッポンは不思議の国に見えるかもしれないね。なにしろ、ほんの150年前までは、世界に国を閉ざした「鎖国」をやっており、サムライがチョンマゲ姿で刀を腰に、往来を闊歩していたのだ。それが100年遅れで産業革命をなしとげると、あれよあれよというまにヨーロッパに追いつき、追い越し、今やニッポンは、自動車、ロボット、デジカメ、半導体といった分野で世界最先端の工業国家になっている。その理由は今の説明で少しわかってくれたと思う。

サミュエル・ハンチントンというアメリカの政治学者が世界的にベストセラーとなった『文明の衝突』という本で、世界には8つの文明があるという。

それは①中国文明 ②インド文明 ③ロシア文明 ④イスラム ⑤西ヨーロッパ ⑥日本文明それに⑦アフリカ ⑧ラテンアメリカ文明だというのだ。①~⑥はユーラシア模式図にあげた6つの地域の通りで、なんと小さな単一民族国家ニッポンが世界の8大文明の一角を占めている。

どうだい、世界はヨーロッパだけじゃない。君のママの生まれた国も捨てたもんじゃないだろう。次回は『アルファベットと日本語の起源』について話すことにしよう。

                   (つづく)2011.11.1