ヨーロッパの孫に聞かせる

日本と世界の歴史

18話 サムライの時代

——中世日本とヨーロッパの封建制——

岡市敏治

 

 

             目 次

1.『七人の侍』大義に立つ

2.黒沢明・世界映画史上の大傑作

3.「武士道」それはノブレス・オブリージュ

4.古代・律令制から中世封建制へ

5.日本史上最大の政治家・源頼朝

6.「ヨーロッパの父」カール大帝

7.ヨーロッパと中世日本が育んだ

    封建制が近代の扉を開いた

8.「サムライ」として生き「サムライ」

            として死なん

中世におけるユーラシア世界の両端の二つの新文明、すなわち北西ヨーロッパと日本の興隆は、11世紀から16世紀におこった世界史上最も劇的でめざましい変化であった。この時代、ヨーロッパも日本も封建制で、きわだって軍事中心の傾向を示しており、このため一種の毅然たる気風が生まれ、多くの点で、世界のどの文明と比べてもひけをとらぬ文化水準や文明のスタイルに到達した.(ウィリアム・H・マクニール『世界史』)

 

 

中世日本とヨーロッパの封建制度は実によく似通っている。どちらも中央集権的な権威(天皇/ローマ教皇)の概念と、部族組織と個人的忠誠の土着の伝統が土台になっている。この2つの要素の混合は、世界史上ほかに例がない。日本の封建制度に似てしかも日本のように完全に発達した封建制度はヨーロッパにしか見られない。                                                  (エドウィン・O・ライシャワー『ライシャワーの日本史』)

日本とヨーロッパは、中世に相当する西暦1000年から600年間というもの、それぞれが武力闘争の時代であった。日本では源平の争乱、元寇、応仁の乱、戦国時代……と戦争が絶えなかった。中世ヨーロッパも7次にわたる十字軍遠征、英仏百年戦争、独仏間のイタリア戦争、オランダ独立戦争とこれまた戦乱に明け暮れた。つまりはサムライ(騎士knight)の時代であった。

 

今回はヨーロッパと日本にとって近代社会への欠くべからざる発展段階となった封建制がテーマだ。それはユーラシア大陸の西と東の両端で期せずして同時進行で起こったのだ。

 

1.『七人の侍』大義に立つ

黒沢明監督の映画『七人の侍』の話をしよう。16世紀後半の山間(やまあい)の小さな村、その村は秋の収穫期に毎年のように野武士に襲撃され、作物を失い、女を奪われ、時に命をおとした。この村を侍を雇って守れないか。ときは戦国時代、いくさに敗れ士官を求めて旅する侍(浪人)は多い。この侍を雇って野武士から村を守ろうと百姓たちは立ち上がった。百姓たちが最初に勘兵衛に出会ったのは幸運だった。勘兵衛は断固たる強い心の持ち主で、一国一城の侍大将がつとまる歴戦の古将である。40人近い野武士を倒したとしてもなんらの恩償も名誉も得られないことは分かっていたが、彼は村人たちの苦難を自分自身の大義にしようと決意する。

勘兵衛は沈着冷静、果断の人であった。一方限りないやさしさと惻隠の情の持ち主でもあったのである。彼は常に姿勢を正しく弓を携え、その矢が敵から外れることはない。彼は才知に満ちているばかりか、周到な兵法家でもある。彼のもとに五郎兵衛、平八、七郎

 

次、久蔵、勝四郎、菊千代という一騎当千の兵(つわもの)が集った。

これから始まる野武士との闘いで、七人の侍たちは命を落すかも知れない。仕官も知行も全く当てのない命がけの戦いに、なぜ彼らは自らの意志で自然体で参加しようとするのか。それはサムライ勘兵衛の人柄と佇まいに感銘を受けたからである。さむらいは己を知る者のために死す。

 

2.黒沢明・世界映画史上の大傑作

村を訪れた七人の侍たちは、百姓を組織し、合戦の訓練を始める。ところが、離れ家3軒の村人7人が反乱を起こす。「自分の家捨てて他人の家守ることはねえだ!」と槍を捨て、戦列から離れようとした。

駈けつけた勘兵衛。峻烈の形相。刀を抜く!

「待て!その槍をとれ!そして列へもどれっ!」

「いいかっ! 離れ家は三つ、部落の家は二十だ。三軒のために二十軒を危うくは出来ん。また、この村を踏みにじられて離れ家の生きる道はない。戦とはそういうものだ。他人を守ってこそ自分も守れる。おのれのことばかり考える奴は、おのれをも亡ぼす奴だ!」

 

勘兵衛のこの強烈な一撃に百姓たちはもちろん侍たちも瞠目、感動が走った。百姓のエゴイズムと侍のモラルの対決。そして、百戦錬磨の勘兵衛の戦略の冴えと人心掌握の卓抜さにより、彼は一気に文字通り両集団のリーダーとなった。

野武士との最後の決戦は、どしゃぶりの豪雨が降りしきるなか壮絶極まりない乱戦となった。泥濘(でいねい)を駆ける人馬、弓をふり絞る勘兵衛、しぶきを上げて落馬する野武士、竹槍を突きまくる百姓たち。刀を振り廻し、泥沼に倒れこむ菊千代……。息づまる戦闘がつづき、野武士は全滅した。だが七人の侍のうち四人が戦死する、日本映画史上未曽有の合戦シーンであった。

花は桜木、人は武士。これはまさしく叙事詩だ。人間の精神を、理想の侍の生と死を美しくも感動的に(うた)いあげた壮大な叙事詩であった。黒沢明『七人の侍』は「世界映画史上空前絶後の大傑作」となったのである。

 

3.武士道はノブレス・オブリージュ

サムライはなぜこれほど強い精神力を持てるのか。これについて世界的名著がある。新渡戸稲造『武士道』で、1899年アメリカで出版された。世界各国語に翻訳され、日本語版は矢内原忠雄(元東大総長)訳がある。

「武士道と表現した日本のことばは、その語源においてヨーロッパの騎士(ホースマン)(シップ)に通じる。戦士たる高貴な人の、本来の職分のみならず、日常生活における規範をもそれは意味している。武士道は一言でいえば“騎士道の規律” 武士階級の“ノブレス・オブリージュ”である。」

*ノブレス・オブリージュ noblesse oblege

高い身分に伴う義務。身分の高い者、豊かな者はそれにふさわしい義務を果たす必要があるとい

うこと。

 

 武士道は鎌倉時代に発達、江戸時代に儒学思想と結合して完成した。武士階級は絶え間なくつづいた戦乱の世にあって、もっとも男らしく、かつもっとも勇猛な人びとの間からごく自然にえり抜かれた者たちである。

 新渡戸稲造は、武士道の根幹に「智」「仁」「勇」を据える。「智」は教養であり、そこから品性が生まれる。孔子は「学んで思わざればすなわち(くら)し、思いて学ばざればすなわち(あやう)し」(論語)といった。道徳と学問に関し、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となっている。

 「仁」は愛、寛容、同情、憐憫などヒューマニズムの高貴な精神である。映画の冒頭、通りがかりの農家で、人質の赤ん坊を一剣必殺で救出した勘兵衛は、野武士の強奪に苦しむ百姓の難儀を見過ごせぬ人である。サムライの徳目「仁」を生きる優しさであり、それは知行や恩賞に全く縁のない仕事に自らを賭ける筋金入りの優しさである。ほかの六人の侍を、この無償の仕事、時に命と引き換えの危険極まりない仕事に同調させ、苦労を共にさせる決意を促したのは、まさしく勘兵衛の高貴な精神「仁」である。

 「勇」は剛毅、毅然、自若、勇気、克己などの徳目を数える。新渡戸はいう。「サムライは逆境に屈することのない、高貴な精神の威厳ある権化であった。彼らはまた学問が目指すところの体現者であり、鍛錬に鍛錬を重ねる自制心の生きた手本であった。」

 勘兵衛をリーダーとする七人の侍たちこそは、これらの徳目の体現者であり、サムライの中のサムライである。

4.古代律令制から中世封建制へ

 それではかくいう武士は日本史上いつ、いかなる状況のもとで誕生したのだろう。それを知るためには日本列島の黎明期まで歴史をさかのぼらなければならない。

 日本列島に統一国家が現れたのは4世紀前半である。その後日本、中国大陸、朝鮮半島の相互交流が進むにつれ、漢字や仏教、儒学などの書物と知識が中国大陸から朝鮮半島を経て渡来人によって日本にもたらされた。

 7世紀の中ごろ、日本は中央集権組織を確立するために、中国の唐がおこなっていた「律令制度」を導入する。そのころ都はおおむね奈良盆地にあった。この制度の主要な目的は、天皇を中心とする中央集権的な官僚制度を樹立することにあった。国家の財政を強化するため、土地はすべて国有化され、「公地公民」となった。しかし、例外があった。人民は貴族と平民という2つの階級に区分され、貴族階級は農地や領土を所有する特権を許された。これを「荘園制」という。そしてこの私的土地所有が、やがて律令制崩壊を引きおこしていくのである。

 

 京都が天皇のおわす都となったのは794年のことであり、その後「平安京」として1000年以上のあいだ、つまりは1868年の明治維新で東京にとってかわれられるまでその地位をたもった。

 

 平安時代は794年から400年間つづき、紫式部の『源氏物語』にみるように貴族文化が榮えた。貴族社会の経済基盤は荘園制という特権階級のみに許された私的大土地所有にあった。ところがときがたつにつれて封建制が荘園制にとってかわり、政治権力は武士の手におち、その武士が新たな社会体制の主人公となっていく。

5.日本史上最大の政治家・源頼朝

 九世紀ごろ、すでに制定から二世紀をへた律令制は危機的な袋小路においつめられ、地方では新たな勢力が台頭してきた。地方行政は次第に弱体化・解体の憂き目にあい、それとともに有力豪族は武装しはじめ、中央政府から派遣された国司などが押しつける税の支払いを拒否するのに、軍事力にものをいわせるようになった。このようにして、武装した地方人たちがしだいに、戦闘を専門とする「さむらい」武士になっていった。

 おおよそ11世紀ごろから、地方で力を蓄えた武士が、中央でだんだんと重要な地位をしめるようになった。最初かれらは武芸をかわれ、おもに大貴族の身辺警護の任にあたっていた。「さむらい」という語は語源的にみて「主人につかえる召使」を意味する。ここからもわかるように、歴史の舞台に登場した当時のかれらの社会的地位はきわめて低いものだった。しかし、かれらは同時に、京都の中央政権に対する反乱を鎮圧する武士となった。こうした反乱は、地方に残ったほかの武士たちによって、たえずもくろまれていた。武士どうしの実力行使は少しずつ、都の貴族たちの相対的無力をあばくことになり、ついには武家社会の勝利への道をふみかためていった。

こうして12世紀のおわりには、当時もっとも傑出した武士であった源頼朝が、現在の東京にほど近い鎌倉に最初の武家政府をひらいた。1192年のことで、このときから16世紀まで、封建制度が支配するが、これが鎌倉・室町の両時代にあたる。

 

 鎌倉幕府の創設者源頼朝は、日本史を変えた史上最大の政治家である。頼朝は律令国家から武士団の利益を守り、小さくは武士団相互の紛争を公平に裁いた。彼は京都の朝廷から征夷大将軍の称号をもらった。世界史のどの地域でも、こういう場合、頼朝は王になるのに、日本史は異なった。実力は鎌倉の頼朝にあったが、権威は京都の天皇にあったのである。頼朝は彼とともに戦った「さむらい」たちに封土をあたえ、地方行政官(地頭)に任命した。主君のこうした御恩に対し、家来はさまざまな奉公の義務を負う。有事の際には生命をかえりみず主君の命(めい)に従い、ふだんは順番に主君の警護にあたった。

 

 鎌倉幕府は150年続いた。わずか150年ながら、この時代から日本らしい歴史がはじまる。もし平安朝の中央集権制(律令制)がそのままつづいていたとすれば、日本史は中国史や朝鮮史とさほど変わらないものになっていただろう。武士というのはこの当時実質的に開拓農場主だった。律令制のもとではその所有権がつねに不安定だったのが、鎌倉幕府の成立によって安定した。土地が所有者のものになった。その土地は命がけで守らねばならぬ。「一所懸命」ということばの由来はここからきた。かくして道理が安定した。従って、ひとびとの物を見る気分まで現実的になった。

 絵画では絵巻物(合戦絵巻)が盛行し、物事を動くものとしてとらえた。彫刻もリアリズムがよろこばれ、運慶や快慶が写実的で力強い作品を創造した。思想も簡潔になり「平家物語」や「徒然草」さらには親鸞や一遍の教学になった。法の世になったともいえる。

 

6.「ヨーロッパの父」カール大帝

 

 

 一方、ヨーロッパでは封建制はどのように成立したのだろう。89世紀の西ヨーロッパでは、イスラム教徒、マジャール人、ヴァイキングなど相次ぐ異民族の侵入によって今のフランス、ドイツ地域に相当するフランク王国は分裂、衰微していた。

そこに登場したのがカール大帝(在位768814)である。カールこそは日本の源頼朝に相当する否それをはるかに上まわる大英雄であった。カールはまずローマ教皇領の北側(今の北イタリア)にいたランゴバルドを粉砕、そしてエルベ河の下流の異教徒ザクセンを討つ。さらにアジアから侵入した遊牧民アヴァール人を討伐ののち、スペインにいた後ウマイア朝(イスラム)を攻撃する。

 カールのこの征服活動によって、西ヨーロッパ世界は非常に安定し、西暦800年、ローマ教会の教皇レオ3世は、ローマのサン・ピエトロ寺院において、カールに西ローマ皇帝の冠を授与した(カールの戴冠)。5世紀に滅びた西ローマ帝国が復活したのである。

 カールの西ローマ帝国は単純な古代帝国の復活ではなかった。むしろそれは古代以来の①ローマ古典文化 ②キリスト教 ③ゲルマン的要素の三者が融合したまったく新しい世界、すなわち現代に至るヨーロッパ世界の誕生を告げるものであった。

 カール大帝の「西ローマ帝国」版図(はんと)をみて分かるようにこれは将に現在のEU世界である。カールは今から1200年前にEUの理想を実現していた偉大な帝王である。“シャルルマーニュ”「ヨーロッパの父」と呼ばれ、今もヨーロッパ中で深く敬愛されていることは君も知っているだろう。

 

 しかしこの広大な版図はカールのような英雄によってのみ統治が可能だった。西ローマ帝国(フランク王国)はカールの没後3人の孫によって分割相続され、今のフランス、ドイツ、イタリアの基礎ができあがった。そして、今に至るまで、カール大帝の版図が再現されることはなかったのである。

7.ヨーロッパと中世日本が育んだ封建制が近代の扉を開いた

 当時(912世紀)の西ヨーロッパは大森林がつづいていた。しかしその大森林は少しずつ切り開かれ定着農耕が開始されていく。アルプス、ピレネー山脈の北側といえば、地中海世界と違って雨が降り、土地も肥えている。本格的に農業を始めたら、こちらの方が農業生産力が高い。この農業生産の拠点を「荘園」という。カール大帝の死後、帝国は3つに別れたが、やはり大森林の存在で統治は困難を極めた。

 しかしその一方で開墾は進行し近距離の荘園ならばまとめあげられるような権力が登場してくる。近距離の荘園をいくつか支配する中小の権力者のことを「封建諸侯(領主)」という。この時期、フランスにはフランス王、ドイツにはドイツ皇帝、イギリスにはイギリス王が存在したが、いずれも名目上の存在にすぎず、かれらに全体をまとめあげる力はなかった。地方の実質的支配者は封建諸侯である。中世封建社会は分権的な体制であった。こうした分権的な状況の中で、封建諸侯どうしまたは王や皇帝と呼ばれる人たちとの間で主従関係を取り結ぶ。主従関係はゆるやかでいちばんトップに王や皇帝がいた。一方封建諸侯の主君と臣下(騎士)は契約を交わし、主君は臣下に土地を与えて保護する。この土地を封土「フュード(feud)」と言う。その代わりに臣下には軍事奉仕(軍役)と忠誠を要求する。このように封土の授与で結ばれた主従関係をフューダリズムfeudalismと言う。これを日本の学者が「封建制」と訳したわけだ。

今まで見てきたように鎌倉幕府における御恩と奉公を基盤とする主従関係は、中世ヨーロッパの領主と臣下のあいだに見られた保護と忠誠の相互契約にもとづく関係に極めてちかい。中世ヨーロッパにおいて騎士道が尊敬されたのと同様、中世の日本においても「さむらい」の倫理法典が発達した。そして、それが「武士道」にみがきあげられていくのである。世界史の中世という同じ時代に、世界の両端に位置する日本とヨーロッパにおいて、封土制にもとづく封建社会へと至るおなじ道が、並行してひらかれていったというのはおどろくべきことである。

 

 中世ヨーロッパは封建制のもとで農業生産が増大した。余剰生産物の発生は定期市と都市の誕生へと発展、商人ギルドの成立へとすすむ。ここに市民(ブルジョアジー)が誕生、富と力をたくわえたブルジョアジーによって市民革命(フランス革命等)がなしとげられた。資本主義体制が確立、近代社会が実現する。

 この事情はユーラシア大陸の東のはずれの日本においても同じで、武士によって準備され発展した封建社会は、後期の徳川時代に「鎖国」という奇妙な政策はあったものの、ブルジョアジー(商人層)によって富は着実にたくわえられ、明治維新という市民革命の成功によって、日本は非ヨーロッパ世界で唯一国、近代資本主義社会への仲間入りを果たすのである。

 期せずして、西ヨーロッパと日本に起こった封建制を基盤とする文明の発達現象は、旧世界の大帝国であった中国やロシア、インド、トルコ等ではついにみられることがなかった。これら古代型中央集権国家が封建制に変わることはなく、独裁制か植民地支配のまま20世紀を迎えることになったのである。

 

8.「サムライ」として生き「サムライ」として死なん

 ここでサムライ「武士道」に話をもどそう。新渡戸稲造は明治20年代、ヨーロッパに滞在したとき、著名なベルギーの法学者から「日本の学校では宗教教育がないという。それはヨーロッパでは考えられないことだ。宗教がなくて、どうして子孫に道徳教育を授けるのか。」と問われ、即答できず、愕然としたという。そして、自分に人の倫(みち)たる教訓を教えたものは、武士道だと気づき『武士道』を著述した。映画『七人の侍』は世界中で上映され、世界中の人々を感動させた。勘兵衛をリーダーとする七人の侍たちの武士道精神は、民族と時代を超えて普遍性がある。

 「武士道」は日本の封建社会が700年かけて築き上げた道徳規範だが、人の倫として現代にも立派に通用する普遍的理念である。僕は君の人生の何倍も生きてきたが、学は成らず、日暮れて道は遠い。道をきわめる努力には限りがない。「サムライ」として凛と生き、「サムライ」として泰然と死なん、このごろ僕はそう考えているのだよ。次回は『イスラム世界』の話をしよう。

 

2017.7.1