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日本語はいかにしてつくられたか

 

―日本列島1万年の物語―

 

岡市 敏治

  

 日本語は、漢字、カタカナ、ひらがな、alphabet4種類の文字を使って、詩、小説、科学論文等あらゆるジャンルの文章を自在に、簡潔に、美しいリズムで表現できるすごい言語だ。日本語は日本列島の豊かな縄文の森で、1万年かけて(はぐく)まれた“言霊(ことだま)”、日本人の精神の核である。

初 恋

  

 島崎藤村

まだあげ()めし前髪の

林檎(りんご)のもとに見えしとき

前にさしたる(はな)(ぐし)

 

花ある君と思ひけり

 

山林に自由存す

 

国木田独歩

  山林に自由存す

われこの句を吟じて血のわくを覚ゆ

嗚呼(ああ) 山林に自由存す

 

いかなれば われ山林を見すてし

青年の初恋と立志をうたって、なんと美しく格調高い日本語だろう。2つの詩は、共に明治30年に発表されて以来、広く国民に愛唱されてきた。

 「詩歌は地球上のあらゆる民族にとって、その民族の言語の発生とともにあった。喜怒哀楽や祈りの重要な表現手段として、文字の出現よりはるか以前からおびただしい詩歌が音声言語や身振り手振りによって、人々に歌われ、演じられてきた。」(大岡信)

 

1.古事記の世界

 

  もっとも古い日本語である「やまとことば」を今に伝えるのは古事記である。古事記は1300年前に出現した日本史上最初の歴史物語だ。天皇の舎人(とねり)田阿礼(ひえだのあれ)が語りだす、何千年も昔から口承で伝えられてきた神々と祖先の歌物語を、太安万侶(おおのやすまろ)が大陸伝来の漢字を借用して筆録した。古事記は音声で表出される無文字時代の“生きた神話の記録である。江戸時代の国学者本居宣長(17301801)はそのことを確信して大著『古事記伝』を(あらわ)した。

 古事記は神々による日本列島の国づくりから始まる。スサノオノミコト(須佐之男命)は日本誕生のころの神様で、気性の激しい荒ぶる神であった。高天原(たかまがはら)で乱暴狼藉(ろうぜき)を働き、天上から追放されたスサノオは、出雲の国に降り立ち、ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治して、 (くにつ)(かみ)とその娘クシナダヒメ(奇稲田姫)を助ける。助けたクシナダヒメを(めと)ったスサノオは、出雲の国に宮殿をつくって、歌を()んだ。

 

八雲(やぐも)立つ 出雲(いずも)八重(やえ)(がき) (つま)()みに

八重垣作る その八重垣を

雲が何重にも立ちのぼる 雲が湧き出るという名の出雲の国に 八重垣めぐらす 妻を(こも)らすために宮殿に

何重もの垣を作る その八重垣よ

 

 これは日本史上最初の和歌である。荒ぶる神の妻恋歌だ。

 

 

 ところで、君は小さい頃、伊勢神宮に行ったのを覚えているだろうか。杉の巨木が立ち並ぶ静謐(せいひつ)な森の中に簡素で神々(こうごう)しい(やしろ)があり、そこにスサノオのお姉さんのアマテラスオオミカミ(天照大神)が祭られている。アマテラスは天皇家とすべての日本人の祖先神だ。日本で一番尊く、偉い女神だよ。古事記全3巻、その上巻がアマテラスを始めとする神々によるくにづくりに当てられている。大昔、神は人であった。古事記が語る神々の時代とは、どれほど遠い昔なのだろう。

 

図1:(やま)(たの)大蛇(おろち)に立ち向かうスサノオ(絵:裕子)

 20万年前、アフリカで誕生したホモサピエンスは、7万年前物語をつくる言語能力を身につけた。集団で狩りをしたり、祈りや祭りをするコミュニケーション能力をもったサピエンスは、アフリカを出て世界中に拡散する。

 サピエンスが日本列島に到達したのは、およそ3万年前だ。当時は氷河期で、海面が今より100m低かった。樺太と北海道は陸つづきで、ご先祖たちはマンモスやヘラジカを追って、大陸から渡ってきた。南方からは勇敢な漂海民が黒潮に乗って、あるいは北東アジアから対馬海峡をわたってやってきた。(第23話『日本人はどこから来たの』参照)

 彼らはユーラシア大陸より比較的温暖な日本列島で、大型動物を狩って生活した。旧石器時代といわれる時代で、それは1万年以上つづいた。

 

 

2.縄文時代 -日本文明の基層―

2万年前が氷河期の最寒冷期で、それから地球は徐々に暖かくなっていった。大陸の氷河が解け、海水面が上昇して、1万3千年前ころには、日本の地形は今と同じ海上の列島になった。南から日本海へ対馬海流(暖流)が流れ込んでくる。暖流から発生する大量の水蒸気を、冬になるとシベリアの寒気団が雪にかえて、日本列島に世界有数の豪雪をもたらす。雪は水の貯蔵庫だ。太平洋側も黒潮(暖流)が北流しており、このような海洋的風土のもと、日本列島はナラ、ブナ等の温帯の落葉広葉樹林におおわれた。ことに東日本は、豊かな木の実やイノシシ・鹿といった山の幸、サケなどの川魚、カツオ・貝などの海の幸に恵まれた。 森と岩清水、海の幸に囲まれた日本列島のご先祖たちは、狩猟、採集、漁労で豊かな定住生活を送ることができた。

 

 世界最古の土器は8000年前のメソポタミアの壺とされてきたが、近年青森県でもっと古いものが見つかった。16500年前の縄文土器だ。これで煮炊きをしていた。土器の発明によって、暖かくてうまい汁ものを食すことができる。土器をもつ生活の成立は画期的だった。グルメの世界最先端を切っていたのが日本列島だったのだ。

         図2:日本列島多雪のメカニズム

ボクはさる年の春、越後の巻機山(1962m)で登山した帰り、新潟県の十日町博物館に立ち寄った。そこで見た火焔(かえん)土器には圧倒された。何段にも重なった立体的な装飾はあふれんばかりで、暗い不安を秘めた怪奇めいた力強さがある。物語性を持った(もん)(よう)というのは、単なる装飾でなく、縄文人がもつ彼らの世界観や神話などを土器面に表現している。火焔土器は現代人から見れば、「アール・ヌーボーの芸術品」(仏:レヴィ・ストロース)、「芸術の爆発」(岡本太郎)である。土器としての実用性は乏しく、祭祀用に使われていたのだろう。

 

縄文人は、世界でまれに見る定住的で、豊かな採集社会として、1万年かけて他の世界になかった独自の文化と信仰を育んだ。

 

3:火焔土器

3.三内丸山遺跡の衝撃

 

 1990年代に青森県で発掘された三内丸山遺跡はその埋蔵物のスケールにおいて、それまでの縄文時代の通念を一変させた。

陸奥湾を北にひかえた40haの広大な丘陵に、780戸もの竪穴式住居跡が見つかり、6本の巨木によるトーテムポールのような巨大建造物が再現されている。祭儀や集会が行われたのだろう。(図4

 

三内丸山遺跡は「縄文都市」と呼ばれる大規模遺跡である。ここで、5000年前に500人の人々が1500年間にわたって生活していた。1500年と一口にいうが、聖徳太子から現代までの日本の歴史時代がすっぽり収まる長さだ。

 

 森や川・海での狩猟採取だけでなく、クリ・クルミ・エゴマ・マメなどの植物栽培も行われていた。さらに、この地にはない黒曜石、琥珀(こはく)翡翠(ひすい)漆器(しっき)などが出土している。いずれも産地は北海道十勝や新潟県糸魚川などの遠隔地である。河川や海路による交易ネットワークが存在していたのだ。

4:三内丸山遺跡

三内丸山遺跡は、人口密度の高い定住社会で、人類の歴史における狩猟採集社会の成熟した姿を現代に伝えている。四季折々の恵みを巧みに取り入れ、人間と自然とが共生した豊かな集団生活だったことが、発掘された膨大な量の貝塚によって実証されている。

 縄文時代(13000年前~3000年前)のご先祖たちは、世界で最初に定住革命と土器革命を成し遂げた。縄文時代は狩猟・採集・漁労の三本柱を基盤とする世界各地の先史文明からは抜きんでており、他の追随を許さない世界最古の文化の一つである。

 

1万年にわたる縄文文化は、日本文明の根幹をなす基層文化であり、今もなお大きな影響力をもっている。」(梅原猛『縄文人の世界』)


<コラム:縄文人の言語生活>

 縄文時代の人々は豊かな自然の真っただ中でどのような言語生活を送っていたか。

「自分等を捕えて離さぬ輝く太陽にも青い海にも高い山にも宿っている力、自分等の意志から全く独立しているとしか思えない、計り知りえぬ威力に向かい、どういう態度をとり、どう行動したらいいか。これは言霊(ことだま)の働きをまたねば出来ないことだった。」

「言霊の力が一番強く発揮されるのは、村の祭儀であり、毎年の祭りでとなえられる一定の(じゅ)()を失わぬよう、乱さぬよう、口から口へと熱意をもって守り伝えるというところに、村の生活秩序のかなめがあった。この祭りごとから離れられぬことばがいつからあったか、誰も知るものはなかったが、古代の人々にとってわが村の始めは、世の始めであったろう。」

 

「遠い昔から、長い年月、極めて多数の、尋常な生活人が、共同生活を営みつつ、誰言ふとなく語り出し、語り合ふうちに、誰もが美しいと感ずる神の歌や、誰もが真実と信ずる神の物語が生まれて来て、それが伝へられて来た」(小林秀雄『本居宣長』より)


今から5000年前の縄文時代と同時代、世界では四大古代文明がさかえていた。エジプトではナイルの河辺に巨大なピラミッドが造られた。ナイルの水を利用して農耕するために文明が芽生え、王政による都市国家が発達した。文字(ヒエログリフ)も発明された。

農耕を中心としたエジプト文明の華やかさに比べると、森での狩猟・採集・漁労を中心とする縄文文化は未開・野蛮の原始社会というのが今までの一般的な評価だった。

 これに対し、環境考古学者安田喜憲博士は次のように言う。

「日本の縄文文化はエジプト文明と同じく、1万年の長期にわたって継続し、かつ民族の移動や侵入がないという世界でもまれにみる特殊性を有している。砂漠のエジプトでは、ナイルの水を制御することによって農耕に活路を見出したのに対し、豊かな森林資源に恵まれた日本列島では、面倒な農耕をせずとも、狩猟や漁業で十分やっていけた。環境の違いに、それぞれ違った対応があっただけの話で、文明の高低の差ではない。」

 

4.日本文明の特質

 

 さて、ここまで日本列島創世の縄文時代1万年について考えてきた。ところで、私たちが「日本史」の教科書で主に学ぶのは、日本列島13千年の歴史のうち、直近の歴史時代1500年だけだ。(図5)氷山の海上に浮いている部分(全体の12%)だけ見ても、氷山の全体像はつかめない。海面下の縄文時代があって、歴史時代の1500年が存在できる。縄文人は1万年かけて、他の世界になかった独自の文化と信仰を育んだ。文字がなかったので、沈黙の歴史だが、そこには「日本文明」と呼べる豊穣(ほうじょう)の歴史があった。

 

アメリカの政治学者サミュエル・ハンチントンが『文明の衝突』The Clash of Civilization and the Remaking of World Orderという本を出版したのは25年前だ。ハンチントンは、旧世界には6つの文明があるとした。その6つの文明の一つに日本が入っている。

    中国文明 ② インド文明 ③ ロシア文明

④ 地中海・イスラム文明 ⑤ 西ヨーロッパ文明 ⑥ 日本文明

 

人口1億人の小さな島国が、人口13億の中国やインドに並んでいる。この6つの文明を第20話で説明した、梅棹忠夫のユーラシア大陸模式図にあてはめると、6つの文明圏は模式図にピタリとはまる。

 ユーラシア大陸を北東から南西に横切る巨大な乾燥地帯(ユーラシア中央部)がある。これはオアシスの点在する砂漠かステップで、その縁に森林ステップとサバンナがある。ここは実は「悪魔の巣窟(そうくつ)」なのだ。何千年も前の昔から、スキタイ、匈奴(きょうど)、フン、モンゴル、トルコ系民族といった遊牧民がこの地域に現れ、暴風雨のように文明社会に襲いかかり、文明はしばしば、立ち直ることの困難な打撃をこうむってきた。

 ①から④の中国、インド、ロシア、地中海・イスラムの4地域は「悪魔の巣窟」の隣接部にある。もともとここは、黄河文明、インダス文明、メソポタミア・エジプトの古代4文明発祥地だが、乾燥地帯から繰り出す遊牧民による破壊と征服支配に、繰り返しさらされた地域である。中国は全長2400キロの万里の長城を築いて防壁としたが、騎馬民族の侵入を防ぎきることは(かな)わなかった。

 ⑤の西ヨーロッパは「悪魔の巣窟」から遠く離れているが、君の故郷ウィーンは、1529年と1683年の2回、オスマントルコ軍(遊牧民)に包囲された。だから、ヨーロッパの都市ウィーンやパリはすべて城壁に囲まれていた。ドイツ南部ロマンチック街道のローテンブルグやネルトリンゲンは城壁都市を今に伝えているよ。

 ここで、ユーラシア大陸の乾燥地帯をA、その他をB、日本をCとする。図6を見てほしい。地続きのユーラシア大陸では、Aの遊牧民が、Bの農耕民に怒涛の如く襲いかかり、さまざまな民族が征服したり、されたした。人の命がいかに粗末に扱われてきたかは、驚くばかりである。

 それに対し、Cの日本は、ユーラシア大陸と対峙して「独自の文明をもつ孤立した一文明圏である」とハンチントンは指摘する。日本列島の縄文人は、森と生き物と調和・共存しながら、1万年間を平和に生きてきた。外から攻められたことはなく、内部で戦争もなかった。三内丸山遺跡にも、平城京、平安京、天皇の御所にも一切城壁はなかった。その生活を支えたのは「共生」の思想、持続可能な発展(Sustainable Development)である。縄文時代1万年で(つちか)った「共生」を基層文化に持つ日本列島は、ユーラシア大陸から独立した“栄光ある孤立”を守る一文明圏である。

 

5.文字との格闘 -日本文学の伝統―

 

 未だ文字も知らぬ縄文時代からの長い間の言伝(ことつた)えの世で、日本人は生きた(おの)れの言語組織をすでに完成していた。言葉といえば話しことばがあれば、物事を知り互いに理解しあって暮らすのに何の不自由もなかった。そういう生活が文字と共に始まった歴史時代以前、1万年以上もの久しい間、日本列島で続けられてきた。そこへ、文字が大陸からやってくる。

 1500年前、中国から論語や仏教、律令が大量の漢文(中国語)によって日本にもたらされた。漢文を理解する以外に儒教にも仏教にも近づけない。しかし、中国語そのものを受け入れるつもりはない。日本語を捨てて中国語を話したり書いたりする国土にするわけにはいかないからだ。

 

(1)訓読みの発明 ―中国文明の受容

 だが、この列島に国家を形成するには、仏教や律令はいかにしても受け入れなければならない。67世紀の日本人は絶体絶命の窮地に陥った。そして、中国語として読む以外にない漢文を、日本語として読む驚嘆すべき妙技を発明した。それが「訓読み」である。

 中国語の文章を漢字の音と訓を使って日本語読みし、日本語そのものは全く変えない。高校の「漢文」で習ったあの読み方だ。中国語は日本語と文法がまるで違い、遠い親戚語でさえない。その漢文を前後行きつ戻りつ、いきなり日本語にしてしまうのだ。こんな滅茶苦茶な翻訳をした民族はアジアのどこにもなかった。

 

(2)やまとことばを漢字で書き写す ―古事記―

 次は漢字を使ってやまとことば(日本語)を書き記すという一大実験が始まった。それが712年完成の『古事記』である。日本列島1万年の言伝(ことつた)えの世界からの脱出だ。当時日本独自の「かな」はまだ発明されておらず、稗田阿礼(ひえだのあれ)の語り出すやまとことばを筆録する太安万侶(おおのやすまろ)(?~723)の作業は難渋を極めたに違いない。

 古事記中巻、ヤマトタケルの物語を読み解いてみよう。ヤマトタケル(倭建命)の英雄物語は、古事記の中で最も私たちの心を揺さぶる。ヤマトタケルは景行天皇の皇子、その美しさと猛々しさで、数々の英雄伝説を生んだ。九州の熊襲(くまそ)征伐を終えて、大和(やまと)に帰ったばかりのヤマトタケルは、休む間もなく父である天皇から、反乱を起こした東国の平定を命じられる。皇子は叔母のヤマトヒメ(倭姫命)に訴える。阿礼が語るヤマトタケルの嘆きを、安万侶は次のように書きとめた。

 

「天皇既所以思吾死乎、何擊遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。患泣罷」

 

漢字の音と訓を使って書き写したが、中国人にはチンプンカンプンの漢文である。これを1000年後に本居宣長は次のように読み解いた。

 

「天皇(はや)()れを死ねとや思ほすらむ、(いか)なれか西の方の悪人(まつろはぬひと)(ども)()りに(つか)はして、返り(まい)(のぼ)()(ほど)幾時(いくだ)()らねば、(いくさ)(びと)どもをも賜はずて、今更に(ひむがし)の方の(とをまり)二道(ふたみち)悪人(まつろはぬひと)(ども)(ことむ)けには(つか)はすらむ、此れに因りて()()へば、(なほ)()れはやく死ねと(おも)ほし()すなりけりとまをして、(うれ)ひ泣きて(まか)ります」(本居宣長『古事記伝』)

 

猛々しい皇子が肩ふるわせて泣くのである。この稀代の英雄の悲痛な嘆きに、2000年後に生きる私たちも心動かされる。――その生涯35年の年月かけて、古事記全3巻解読という前人未到の偉業を成し遂げた本居宣長は、日本史上最高の国文学者である。

 

3)和歌を()む ―万葉集―

 

 和歌も()むだけでなく、文字に書きとめて歌集を編みたいという思いが強くなる。古事記から50年余遅れて、万葉集(770年)が編まれた。漢字(これを「万葉仮名」という)のみを使って、日本語表記した。

 

うらうらに 照れる春日に 雲雀(ひばり)あがり

 

(こころ)悲しも (ひと)りしおもへば

 

 

大伴家持

 

宇良宇良余 照流春日爾 比婆理安我里 

 

情悲毛 比登里志於母倍婆

 

 

―万葉仮名による表記―

(4)カタカナとひらがなの発明 ―日本独自の表音文字―

やまとことば一語一語をいかつい漢字で一字一字書くというのは、いかにも不便で非効率である。そこで、910世紀にかけて、漢字をもとに、日本独自に開発・発明された表音文字が「仮名」である。

ア(阿)イ(伊)ウ(宇)エ(江)オ(於)

カ(加)キ(幾)ク(久)ケ(介)コ(己)

あ(安)い(以)う(宇)え(衣)お(於)

か(加)き(幾)く(久)け(計)こ(己)

8:カタカナとひらがなの発明(第3話『アルファベットと日本語の起源』p.15より)

漢字の一角を抜き書きしたのが「カタカナ」で、崩し書きの草書体が「ひらがな」である。必要は発明の母だった。女性を中心に発達したひらがな文は、日本語に革命をもたらした。それは清少納言『枕草子』や世界初の長編小説である紫式部『源氏物語』として花開くのである。

春はあけぼの、やうやうしろくなり行く、山ぎわすこしあかりて、むらさきだちたる

雲のほそくたなびきたる。秋は夕暮、夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、

からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあはれなり。

(清少納言『枕草子』)

(5)和漢混交文 ―平家物語―

 しかしながら、ひらがな文は和歌で鍛えられた文章なので、日常の話しことばの筆記にはよいが、政治や経済・宗教など論理性を要求される文章には不向きである。そこで登場したのが、漢字仮名()じり文である。和漢混交文は表意文字(漢字)と表音文字(かな)のいいとこ取りで、文章を一見しただけで、意味を読み取れる優れものだ。以下は日本人なら誰もが知っている『平家物語』の書き出しだ。この和漢混交文が、日本の文章の代表の座を占めていく。

祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)の鐘の声、諸行(しょぎょう)無常(むじょう)(ひび)あり。沙羅(しゃら)双樹(そうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰(ひっすい)(ことわり)をあらはす。おごれる人も久しからず、(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も(つい)にはほろびぬ、(ひとえ)に風の前の(ちり)に同じ。

 

(6)現代日本語の確立 ―夏目漱石―

 明治時代の後半、夏目漱石(18671916)という国民作家が登場する。漱石によって言文一致体の文章が確立した。

 親譲りの無鉄砲で、小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分、学校の二階から飛び降りて、一週間ほど腰を抜かしたことがある。(明治39年作『坊ちゃん』)

この『坊ちゃん』を書いたあと漱石は、坊ちゃんの無鉄砲よろしく、勤め先の東京帝国大学に辞表を出す。朝日新聞に入社した文豪漱石は『三四郎』『それから』『門』『こころ』などの優れた小説を次々に発表し現代日本語の創造という困難な事業を成し遂げるのである。

 

――このように、日本文学は、幾多の困難を乗り越え、1000年以上にわたり、優れた作品を生みつづけており、世界の言語世界において、並々ならぬ存在感を持っている。

今、世界で一番権威があるとされる百科事典、『ブリタニカ』で、「日本文学」(Japanese Literature)という項目を引くと、なんと一万六千語の大項目。

「その質と量において、日本文学は世界のもっとも主要な文学(major literatures)の一つである。歴史の長さ、豊かさ、量の多さにおいては、英文学に匹敵する。現存する作品は、7世紀から現在までに至る文学の伝統によって成り立ち、この間、文学作品が書かれなかった暗黒の時代は一度もない……。」

 

6.翻訳による文明の受容

 

 1400年前、日本は「訓読み」という離れ技の「翻訳」で、中国文明を自己流に受け入れ、古墳時代を脱して歴史時代に突入した。19世紀になって、今度は巨大なヨーロッパ文明が黒船に乗って、日本列島に押し寄せてきた。ヨーロッパ列強の植民地にされないためには、日本はまず近代的な軍隊を組織しなくてはならない。艦船から鉄砲、鉄道から水道、印刷機から紙幣にいたるまで、自前で作れるようになるために、西洋の知識や技術を大いそぎで日本語に翻訳して、自分のものにせねばならなかった。

 ところで、西洋語を翻訳するのに、漢字という表意文字ほど便利なものはなかった。漢字は概念を表わす抽象性と無限の造語力をもつ。ここで活躍したのが、西(あまね)182997)や福沢諭吉(18351901)などの優れた翻訳者である。彼らは明治維新までの若年期に本格的な漢語教育を受けていたので、優れた翻訳造語能力を発揮することができた。次の用語は、すべて明治とそれ以降の翻訳者たちによって、日本語として造語されたものである。

 「哲学」「権利」「義務」「立法」「行政」「司法」「自由」「新聞」「会社」「価値」「不動産」「広告」「郵便」「演説」「討論」「賛成」「論理」「心理」「人格」「衛生」「宗教」「科学」

「物理学」「化学」「細胞」「原子」「分子」「電子」……と切りがない。

 

 明治時代の日本人は、西洋の政治、経済、法律、科学、医学、文学、哲学に至るまでを「翻訳」された日本語のテキストで学ぶことができた。その結果、日本人はそれまでの長い伝統を持つ自分たちの政治、文化、学問、風俗習慣までを、自ら進んで可能な限り西洋のものに置き換えるという、世界の歴史に例を見ない徹底した自己改革を成し遂げた。

そして、明治維新から38年後には、ヨーロッパの先進大国ロシアを日露戦争で打ち負かして、世界を驚倒(きょうとう)させるのである。

 

 「翻訳」文化による恩恵は、科学技術分野において著しい。日本は21世紀に入ってからの20年、毎年一人の割合でノーベル賞科学部門で受賞者を輩出している。しかし、中国と朝鮮半島からは、2015年に中国から生理学・医学部門受賞者を一人出しただけである。2014年、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、ストックホルムでの受賞演説を“I can’t speak English”で始め、恒例の英語ではなくて、日本語で講演して話題になった。益川博士はノーベル賞をもらった後、招かれて旅した中国と韓国で、「日本語で科学する」ことについての発見があったと、次のように報告している。

「彼ら中国や韓国の科学者は、どうやったらノーベル賞をとれるかを真剣に考えていた。国力でそう違いのないはずの日本が次々にノーベル賞を取るのはなぜか。その答えが、日本語で最先端のところまで勉強できるからではないか、というのです。自国語で深く考えられるのはすごいことだ、と。自国語で十分に科学できる日本は、アジアでは珍しい存在なんだということを知りました。」(2014.11.26付「朝日新聞」)

 科学という知的な営みを、日本語漢語という母国語を使って実行できる日本は、世界的にもきわめて稀有なケースなのだ。

 

「明治時代の日本は、近代化への危機に際して、選択的変化で成功した、ずばぬけて優れた事例である。明治日本のように、上手に選択的変化をおこなった社会は、近現代史で他に例をみない。明治時代の日本は、政府を変えただけではなかった。司法制度、教育制度、経済制度など、社会のありとあらゆる側面を変えた。それと同時に、日本は漢字、カタカナ、ひらがなを使いつづけ、天皇制を堅持するなど、強いNational Identityを持ち、基本的価値観については(ゆず)らない(和魂洋才)という驚くべき国民である。」

(ジャレッド・ダイアモンド『危機と人類』)

 

ここまでだんだんと述べてきたように、日本は東洋文化の一翼ではない。東洋・西洋を問わず、両方ひっくるめたユーラシア大陸全体と対峙(たいじ)して”栄光ある孤立“を守る一文明圏である。日本列島は降水量多く、植物の生育に適した気候風土だ。他民族の侵略によって、文化的伝統を断ち切られたことはなく、縄文時代1万年の森の文化を継承するという、人類史上まれに見る幸運に恵まれた。これは日本列島がユーラシア大陸から程よく離れていたからこそ可能だったのだ。

 この列島で生まれた日本語がすごい。日本語はバスク語とともに、地球上のどの地域にも「祖語」が見つからない、世界言語史上最もユニークな言語の一つである。

日本文学は1300年の伝統を持ち「その歴史の長さ、豊かさにおいて、英文学に匹敵し、その質と量において、世界のもっとも主要な文学の一つである。」(Donald Keene

 

 日本語は私たち日本人の精神の核だ。万葉人(まんようびと)はわが国土を“言霊の(さき)はふ国”と()んだ。日本語は日本列島1万年余の歴史と風土が(はぐく)んだ、われら日本人に対する最大の文化遺産である。最後に、ヤマトタケルの絶唱と、愛唱してやまない日本語の美しいうた3首を記して、この稿を終える。次回は『まちづくりの物語』だよ。                                     2021.7.1

 

咲いた桜に なぜ駒つなぐ 駒が勇めば 花が散る

山家鳥虫歌

 

幾山河 越え去りゆかば寂しさの

 果てなん国ぞ 今日も旅行く

若山牧水

 

ゆく秋の 大和の国の薬師寺の

            塔の上なる ひとひらの雲

佐々木信綱

 

 

(やまと)はくにのまほろば たたなずく青垣

 

(やま)(こも)れる倭し うるわし

東征を終えて帰途にあったヤマトタケルは、伊勢の地で遂に力つきる。ヤマトタケルの霊は、白鳥となって、大好きな大和(やまと)の国に帰りついたことであろう。(絵:裕子)