ヨーロッパの孫に聞かせる

日本と世界の歴史

第12話 『坂の上の雲』の時代(前篇)

岡市敏治

 

マードック先生のわれら日本人に対する態度はあたかも動物学者が突然青く変化した虫に対すると同様の驚嘆である。維新前はほとんど欧州の14世紀頃のカルチュアーにしか達しなかった国民が、急に過去50年間に於いて、20世紀の西洋と比較すべき程度に発展したのを不思議がるのである。わずか5隻のペリー艦隊の前に為す術を知らなかったわれらが、日本海の海戦でトラファルガー以来の勝利を得たのに心を躍らすのである。(夏目漱石「マードック先生の日本歴史」)

 

 さて、これから近代ヨーロッパがどうして帝国主義国家として、世界の覇権を握ることが出来たのかという話をしよう。一方、漱石先生の時代のほんの30余年前までは、腰に大小をはさみ、東海道を二本のすねで歩き、世界中のどの国にもないまげ(・・)と独特の民族衣装を身につけていた極東の小さな国の国民が、いかにして西洋式の国会を持ち、法律を持ち、ドイツ式の陸軍とイギリス式の海軍を持つに至ったかというマードック先生の不思議にも迫ろうと思うのである。

 

産業革命が世界を変えた

 18世紀後半のイギリスでは、世界で初めて農業社会から商工業社会への変化が起こり、社会の構造や人々の生活様式が大きく変化した。それまでのイギリスは牧歌的な田園が広がり、馬車がのどかに行き交う「古き良き社会」だったのに…。

 いったいイギリスに何があったのだろう。

 実は世界で最初の産業革命がイギリスに起こったのである。ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明し、今まで人力か水力で動かしていた機械を蒸気という動力エネルギーで運転を始めた。綿花を糸にするための紡績機が次々と改良され、安価な綿織物の大量生産が可能になった。機械化による大量生産が実現すると、次は輸送の問題で、まず、蒸気船が開発され、インドから大量の綿を安くイギリスまで運ぶことが出来るようになった。次いで、スティーヴンソンが蒸気機関車を完成させ、1830年には港町リヴァプールから工業の中心地である内陸のマンチェスターまで鉄道の営業が開始された。良質で安い製品を大量につくれるのは、産業革命を起こしたイギリス以外になく、それらをヨーロッパに売りさばき、イギリスは“世界の工場”となった。ここに、イギリスにおいて近代資本主義が成立する。


イギリスが産業革命に沸いているとき、他のヨーロッパ各国はフランス革命とナポレオン戦争に巻き込まれていた。市民革命の象徴とされるフランス革命によって、フランスに市民による市民のための国民国家が出現する。市民は自由と平等を得たが、その代わり国を守るために徴兵の義務を背負うことになった。ナポレオンの軍隊は国民皆兵による世界史上最初の軍隊である。

ナポレオン戦争の終結と共にイギリスの産業革命はフランスからドイツ、そしてヨーロッパ各国へ、更には太西洋を渡ってアメリカへと伝播していく。

*国民国家 nation state

アメリカの独立(1776年)やフランス革命(1789年)によって生まれた国民によって構成される国家を国民国家という。近代国家を国民統合を重点においてとらえたときの概念。

 

帝国主義の時代

「近代ヨーロッパの興隆というのは、一つ大陸によく似た能力水準の民族がひしめき、それぞれ国家を作り、相互に影響しあい、それらのひしめきの結果、地球上の他の地域に住む人種をついに力の上で圧倒してしまったということであろう。」と『坂の上の雲』で司馬遼太郎はいう。

 ヨーロッパではあらゆる方面の「人智」がいよいよ発達した。国家について言えば、国家が君主のものであるという性格から変遷し、君主制が後退し、国民の国家というものに変わっていく。

 イギリスに起こった産業革命は、19世紀に入ると先に述べたようにヨーロッパ各国に伝播し、ヨーロッパ産業国家群を中心についには戦国時代を現出した。かれらは世界の未開国(アジア、アフリカ、南北アメリカ)に向かって植民地と市場を獲得しなければ国家が立ち行かなくなった。いわゆる帝国主義の時代の到来である。

*帝国主義 emperialism

19世紀以来、列強の間で顕著になった植民政策。市場、資源、労働力をもつアジア、アフリカ等の地域が列強の植民地、従属国となった。帝国主義は膨張主義で、第一次世界大戦は帝国主義戦争であった。

 

 この間、日本は極東で孤立している。徳川家という一軒の家(幕府)の権力を永久に守るために、対外関係を切り捨て、鎖国によって奇跡のような平和が続いていた。

 一方ヨーロッパ諸国は、科学の急速な進歩と産業革命の開始に支えられ、軍事力と経済力の両面で日本をはるかに引き離す強大さを身に着け終わっていた。鎖国によって日本から締め出されたヨーロッパ諸国はその後しばらくは、はるか彼方のこの国のことなどすっかり忘れ去っていたのだが、彼ら自身のたゆみない拡張に伴い、ふたたび日本沿岸に接近しつつあった。


 アヘン戦争184042でイギリスに完敗した中国(清)の惨状は日本を戦慄させた。日本の政治体制を近代技術を使いこなせるような体制に変革し、西欧と同じような強国にならない限り、日本が独立国として生きながらえていくことは不可能だ。西欧との技術差にどう対処するか、という問題に対する唯一の正解が西欧と戦うことではなく、幕府を倒して、強力な近代的統一民族国家を建設することだということがはっきりしてきた。

 千数百年、異質の文明体系の中にいた日本人という一つの民族が、それをすてて、産業革命後のヨーロッパの文明体系へと転換するという世界史上もっとも劇的な運命を自ら選んだのが近代主義革命・明治維新であった。

*劇的な運命

福沢諭吉は『文明論の概略』の緒言で次のようにいう。

西洋の学者が、文明について新説を唱へ、人の耳目を驚かすと言つても、これは先人の遺物を琢磨(たくま)して、これを改進するといふ仕事であるが、今日わが国の学者の文明論といふ課業は全く異なる。私たち   

は、水より火に変じ、無より有に移らうとするが如き卒璽(そつじ)の文明の変化に会して、言はば新しく文明の論を始造しなければならぬ窮地に立たされている。

それはあたかも「一身にして二生を()るが如し(まるで一生に二つの人生を生きる思  

いだ)」

この窮地に立った課業の困難こそわが国の学者の特権であり、西洋の学者の知ることのできぬ経験である。この現に立つている私たちの窮境困難を、敢へて、吾れを見舞つた「好機」「僥倖(ぎょうこう)」と観ずる道を行かなければ、新しい思想のわが国における実りは期待出来ぬ、福沢はさう考えた。

 

奇跡の明治維新

 このような革命をなしえたのは、アジア、アフリカのどの国にもなかった。日本が成し遂げるまでは、非西欧国家に近代化が可能ということは世界で誰も信じていなかった。

日本はなぜ成功できたのだろう。第10話のライシャワー教授に再登場してもらおう。

日本は200年の余にわたって強制的に門戸を閉ざし孤立していたわけだが、だからこそその間、絶対平和と秩序を保っていられたのだともいえるし、きわめて高度かつ複雑な経済ならびに社会体制、高レベルの教育、驚くほどの経済的知的統一性、それに高水準の政治的有能さを発展させていたのである。日本は決して後進国家ではなかった。よしんば西欧に遅れをとっていたとしても、それは科学(テクノ)技術(ロジー)の分野においてだけであった。集団としての統制力や協調のための技量などにおいては、西欧のどの国よりも進んでいたと思われる。(エドウィン・O・ライシャワー『ライシャワーの日本史』)

 

 明治維新とは、平和で安定していた日本に対し、外国による支配の脅威が無理やり押しつけたものだった。しかもそれはほとんどが薩摩、長州、土佐といった西国雄藩の下層武士階級出身の有能な若者たちによって成し遂げられた革命であった。

 欧米列強に対する政策をめぐって、国内の意見は各藩で鋭く分裂していたが、自国民を裏切ってまで欧米列強の側に立つことを一瞬たりと考えるような日本人はただの一人もいなかった。

 日本民族は同時代のヨーロッパ諸国とほとんど変わらないナショナリズムの観念を持っていた。ウィリアム・H・マクニールは『世界史』に次のように述べている。

 日本が島国として地理的に孤立していたことがあり、それはまた2世紀以上もの長い間、人為的に強制された鎖国によっていっそう強化されたが、これは日本民族を高度に均質な民族に仕立て上げると共に、自分たちのアイデンティティーや他者との差異にきわめて敏感な国民に作り上げたのだった。

*ナショナリズム nationalism

国民ないし民族の価値を至上とする意識・運動をさす。その作用には、肯定的なものも、否定的なものもある。1930年、ドイツ民族を至上のものとし、ユダヤ人の大量抹殺を目指したナチズムは、否定的な最悪の例。

 

明治の産業革命

 明治維新によって明治国家が成立したが、維新を成し遂げた下層武士階級出身の若い革命家たちに新国家のヴィジョンがあるわけではなかった。日本をどういう国にしたらいいか、さっぱりわからないため、いっそ外国を見に行こうじゃないかということで、廃藩置県が終わって早々の明治4年秋、岩倉具視を団長とする革命政権の権官ら使節団が大挙(留学生を含めると総勢100人)欧米見学に出発する。

*廃藩置県

1871年、封建割拠の300余の藩を解体し、全国を政府の直轄地とする改革。全国3302県(後に343県となる)。廃藩置県は、分権的な制度である「藩」を廃止して、中央集権制度下の地方組織である「県」を置くことであり、藩に残されていた軍事と徴税の権限も新政府のものとなった。これによって農民から集められた年貢は、藩でなく新政府の管理下に入ることになった。これは明治維新以上に革命的な出来事。革命軍の主力となって幕府軍と闘った武士たちは何ら報いられることなく失職した。彼らの不満は6年後、西南戦争となって爆発した。

 

 世界史のどこに新国家が出来て早々、革命の英雄豪傑たち(岩倉に加え、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら)が2年間近くも日本を留守にして地球のあちこちをうろついて見てまわった国があっただろう。

 維新の目的は日本の独立を守ることにあった。欧米と日本の進歩の差はおよそ40年と使節団は見た。この差をどうして埋めるのか。

ペリー艦隊のような外国の保持している軍艦と対決して勝利をおさめられるだけの船舶や武器を持つことが必要だった。近代的な陸海軍の建設が最初の目的となった。日本人は躊躇せずにそれに着手した。専門家(お雇い外国人)を招聘し、近代的な軍艦や沿岸要塞砲を購入した。しかし当初から日本人の目的は、自国内で近代的軍事力を自力で装備することだった。当然そのためには、あらゆる種類の新しい工場や鉱山が必要となる。言いかえればこの国は、一刻も早く軍事強国になるために、独自の産業革命に突入したのだった。

 産業革命はまず紡績業(官営富岡製糸場)などの軽工業から始まり、明治30年代始めには、八幡製鉄所が開業して、鉄鋼の国産が開始された。それにともない、造船業も発展を遂げ、1万トン級の造船も可能となり、明治30年代末には、日本も産業革命を達成した。

 

風雲急の朝鮮半島

 さて、ここで今回のテーマである『坂の上の雲』の時代に入ろう。

ときに、日本は19世紀末にある。列強は互いに国家的利己心のみで動き、世界史はいわゆる帝国主義のエネルギーで動いている。アジア、アフリカに植民地を求めて列強はしのぎを削っていた。

東アジアの地図を見てみよう。日本はユーラシア大陸から少し離れて、海に浮かぶ島国である。この日本に向けて、大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地を持たない島国の日本は、自国の防衛が困難となるであろう。

 

この頃、朝鮮半島に宗主権を持っていたのは清国だったが、それ以上に恐ろしい大国は、不凍港を求めて東アジアに目を向け始めたロシアであった。ロシアは1891年にシベリア鉄道の建設に着手し、これによって満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設した。ロシア中からシベリア鉄道によって送られた兵士が満州の野に充満しつつあった。日露双方が、大英帝国がモデルであるような、そういう近代的な産業国家になろうとし、それにはどうしても植民地がいる。そのためにはロシアは満州をほしがり、植民地のない日本は朝鮮というものに必死にしがみついていた。


ここで日本のために多少の弁護をするならば、19世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力を持ち、帝国主義の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。

ロシアは当時日本の10倍の国家予算と軍事力を持っていた。近代国家として生まれて間もない有色人種の国の日本が、世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに戦争で勝つことなど、世界中のだれも想像だにできなかった。

 だがこのまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力は日本が到底太刀打ちできないほど、増強されることは明らかだった。危うし、日本の独立!

日本は明治35年、イギリスと日英同盟を締結、ロシアとの開戦を決意した。

*日英同盟

1902年にロンドンで調印された日英の同盟協約。ロシア・フランス・ドイツの進出を警戒していたイギリスは、ロシアが義和団事件後も中国東北(満州)に軍をとどめ、朝鮮をもおびやかす形勢に対し、従来の“栄光ある孤立を捨て、ロシアの脅威を感じ朝鮮への野心をもつ日本との間に同盟を締結した。内容には”締結の一方が戦争の場合、他方は好意的中立を守り、もし第3国が加わった場合には参戦する軍事同盟的

 性格があった。

 

日露戦争へ

さて、長い前置きだったがこれから司馬遼太郎の『坂の上の雲』によって、この時代を生きた四国は伊予松山の三人の青年、秋山好古真之の兄弟とその友人・子規の物語に入ろうと思う。

司馬さんは文庫版全8冊にもなるこの長大な小説(小説といっても100%事実にもとづく)の始めにこう記している。

 明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば300年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパと血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。

 

この小説の真の主人公は日露戦争そのものであろう。その意味ではこれからたどろうとする3人の青年たちの物語は、その点景にすぎないといえないこともない。(以下『後篇』)

2015.331