ヨーロッパの孫に聞かせる日本と世界の歴史

 

第28話 アフリカの歴史

 

―すべてはこの大陸から始まった―

 

 岡市敏治

 

 アフリカは「暗黒大陸」といわれた。弓矢と槍を持った狩猟採取民と猛獣とマラリアが跳梁する野蛮の大陸と考えられてきた。500年前の大航海時代以降、アフリカは奴隷貿易と植民地化で、近代ヨーロッパに制圧される。しかし、人類が誕生したのも、世界史上初の文明が花開いたのも、アフリカの大地である。豊富な天然資源と若い人口圧のアフリカは、21世紀世界の成長と安定を牽引する機関車になる。

 

ドイツ連邦共和国ボンの君の家の近くをライン川が流れている。その流れを南へ南へとさかのぼっていくと、秀麗なヨーロッパアルプスの氷河に至る。ここがライン川の源流だ。モンブラン(4810m)、マッターホルン(4478m)ユングフラウ(4158m)など天を切り裂く岩壁の峰々が氷雪をいただいて連なっている。アルプスはヨーロッパ大平原と地中海世界を断ち切る総延長1200キロの巨大長城となって、東へ東へと伸び、君たちの故郷ウィーンの森でドナウ川におちる。

 

              図1:氷河が造形したマッターホルン峰(4478m)

 

 この氷雪と岩壁の山岳に是非とも登りたいという人々が現れた。アルプス最高峰モンブランはフランス人医師ミシェル・パカールらによって初登頂される。フランス革命が起こる直前の1786年のことで、ここから近代アルピニズムが始まった。

 

1.アルプス・ヒマラヤ造山帯

 

 このけわしく美しいアルプスは、いつどのようにしてできたのだろう。「アルプスは今から5000万年前、アフリカがヨーロッパ大陸にぶつかってできたのだよ。」と言えば、君はびっくりするかもしれない。実は同じころ、もともと南極大陸近くにあったインド大陸が何千万年もかけてインド洋を北上し、ユーラシア大陸にぶつかって全長2200キロのヒマラヤ山脈が誕生した。アルプスとヒマラヤ山脈は、同時期大陸の衝突によってできた一連の山脈で、地質学的にはアルプス・ヒマラヤ造山帯と呼ばれる。(図2)

 アフリカやインドのような巨大大陸が海をかき分け、どうして何千キロも移動できたのだろう。お鍋でお湯を沸かすと、温められた液体は軽くなって上へ上へと沸騰し、冷たくて重い液体は下へ落ち込んで、鍋全体の液体が循環する。これが対流だ。

 

             図2:アルプス・ヒマラヤ造山帯とインド大陸の北進

 

この対流が地球レベルで起こっている。地球は表面から地殻、マントル、核の三層構造でできている。君の好物のゆで卵でいえば、殻から、白身、黄身だ。地球中心部の核はFe、Niなどの金属から成り、46億年前の地球誕生以来、6000℃の高温を保っている。(「第17話ヒマラヤはどうしてできたの」参照) この逃げどころのない熱が上層のマントルに伝わるので、マントルは熱せられ対流する。これをプレートテクトニクスという。(図3)

 地球表面の地殻は、1枚板ではなく10数枚の固い岩盤の板で地球を覆っている。この板がプレートだ。プレートはマントルが冷えて固まったもので、アフリカプレート、インドプレート、ユーラシアプレートなどがある。マントルはこのプレートを乗せて対流するのだ。図3Aを見てほしい。海洋プレートに乗ったアフリカ大陸がヨーロッパを乗せたプレートにぶつかってできたのがアルプス山脈。インド亜大陸を乗せた海洋プレートがユーラシア大陸と衝突、これにもぐりこんだのがヒマラヤ山脈とチベット高原だ。

            図3:プレートテクニクス            アフリカ大地溝帯(左図Bの具体図)

  プレートは海嶺(海底山脈)で作られている。

  B中央の裂け目から噴き出た高温マントルが冷えて固まるとプレートになる。

  それが両側に押し出されて広がっていく。

  

 モンブラン初登頂からちょうど200年目の1986年春、僕は神戸大学チベット学術登山隊隊長として、ヒマラヤ・クーラカンリ峰(7554m)の標高6000m稜線上にいた。零下30℃の極寒の世界だ。南のブータン側を見ると、真っ白な雪と氷の世界である。ひるがえって北側、こちらは茶褐色の荒涼としたチベット高原(平均標高4500m)が見渡すかぎりに広がっていた。

 

 インド洋からの湿った季節風は、ヒマラヤの屏風びょうぶにぶち当たって、南側のブータンとインドに大量の雪と雨を降らす。一方、チベット側は湿気のないカラカラの荒野だ。ヒマラヤにさえぎられた大気の流れは東アジアに湿潤の梅雨をもたらす。ユーラシア大陸東の外れの日本列島は、夏の高温多湿のおかげで、持続可能な森林と稲作によって、豊穣の文明を築くことができたんだ。ヒマラヤが東アジアに「モンスーン風土」をもたらした。

                  図4:クーラカンリ峰(7554m)

     1986年4月21日初登頂。手前がチベット側で、奥がブータン側。標高4500mのベースキャンプにて。

 

2.すべてはアフリカから始まった

 

 アフリカの地図(図5)を見てみよう。東側にアフリカ大地溝帯が通っているだろう。地溝帯とは図3のBで、大陸が右と左に分裂しているところだ。1000万年前のアフリカ東部で、海嶺から噴出したマントルによる造山運動が盛んになり、キリマンジャロ山(5895m)を盟主に南北に山脈が連なるようになった。タンガニーカ湖、マラウイ湖は水をたたえた地溝だ。

 その結果、西の大西洋からくる水蒸気を含んだ空気がこの山地にぶつかって雨を降らせるようになった。山地の西側は、熱帯雨林の広大なジャングルとなり、チンパンジーやゴリラなどの大型類人猿が今も生息している。

  

                    図5:アフリカ大地溝帯

 

 一方、アフリカ大地溝帯の東側は、乾燥した熱帯サバンナが広がっており、象、キリン、シマウマ、ライオン等の野生動物の楽園である。人類の祖先とみられる猿人と原人の化石は、すべてこの大地溝帯とその東側の熱帯サバンナから発見されている。彼らはジャングルを出て、サバンナで直立二足歩行を始めたのだった。

 20万年前、この地溝帯でホモ・サピエンスが誕生する。6万年前、サピエンスは紅海をわたってアフリカを脱出し世界各地へと拡散、人類のgreat journeyが始まった。日本列島ヘは、3万年前に到達していた。私たちの祖先である。

 アフリカに残ったサピエンスは、大地溝帯を水源とするナイル川下流域のエジプトのデルタ地帯で1万2千年前から農耕を始めた。5000年前には、ピラミッドとヒエログリフ(文字)をもった世界最古の都市文明がエジプトに誕生する。アフリカは人類史と世界史の最先進大陸であった。すべては、アフリカから始まった。

 僕は少年時代『少年ケニア』(角川文庫全20巻)に熱中した。今から80年前の1941年、日本の少年ワタルは貿易商の父に連れられて、アフリカのケニアにやってきた。その旅の途中で日本がアメリカに宣戦布告、第二次世界大戦が始まった。ケニアはイギリスの植民地である。イギリスはアメリカと同盟国なので、イギリスにとって日本は敵対国だ。ケニアにいる日本人はイギリス軍に捕まると捕虜になり、収容所に入れられてしまう。ワタルと父はジャングルに逃げ込んだ。サイに襲われた二人は、逃げる途中で離ればなれになってしまう。

 

                  図6:流砂にのまれ3人は恐竜世界へ      

 図7:ケニアの熱帯サバンナ

 

 父を探してワタル少年の冒険が始まる。ワタルはマサイ族大酋長ゼガに密林で遭遇する。ゼガは老人だが、槍と弓の名手。槍の一突きでライオンをも倒す勇者である。優れた身体能力と大酋長の徳を備えた智者でもある。

 ワタルはゼガに鍛えられ、たくましい「少年ケニア」に成長する。熱帯雨林のジャングルとサバンナにはライオン、豹、サイ、カバ、ワニ、敵対する原住民部族など様々な危険がまちかまえていた。大蛇ダーナ、巨象ナンターという頼もしい味方が加わる。アフリカにやってきた動物語のわかるドリトル先生のように、ワタルとゼガも大蛇や象と意思を通じることができた。強力な味方を得て、二人の痛快な活躍が始まる。ケニア東海岸のモンバサから誘拐され、ポラ族の神さまにされていた白人の美少女ケートを救出、仲間は3人となる。

 父を探してビクトリア湖を渡り、コンゴの密林にやってきたワタルとゼガとケートの3人は流砂に踏み込み、押し流され、1億年以上も前の不思議の世界に迷い込んだ。そこはティラノザウルス等の恐竜が住む世界だった。3人は恐竜に襲われ食べられそうになるが、大蛇ダーナの反撃によって、ティラノザウルスは谷底へと落ちていった。

 アフリカの勇者となった少年ケニアの血沸き肉躍る冒険はつづく…。ワタルと同世代の僕もジャングルとサバンナに憧れるアフリカ大好き少年。学校から帰ると、友達と野原を駈け回り、村の神社の鎮守の森で木登りをした。少年ケニアの気分だった。熱帯のサバンナに雄大なすそ野を広げるケニア山(5199m)。野生の王国アフリカは、少年の日のロマンと憧れの地であった。

 

4.「暗黒大陸」アフリカ

 

 アフリカはアジアに次ぐ世界第二の広大な大陸で、ヨーロッパの3倍、日本の80倍の面積がある。54の国があり、12億の人々が生活している。

 アフリカの地図(図8)を見てみよう。アフリカの中央を赤道が走っている。中央部は熱帯雨林とサバンナである。(『少年ケニア』はここが舞台だ。)地中海に面する北端の北緯35度はちょうど東京と同緯度の温帯で、最南端南緯35度のケーブタウンも温帯である。

 アフリカは世界一広大なサハラ砂漠によって南北に分断されている。地中海に面する北側は紀元前から世界史に登場するが、サハラ以南は「暗黒大陸」といわれてきた。世界史の教科書に全く出てこないのだ。ヨーロッパとアラブの文明世界に隣接しているのに、なぜ「暗黒大陸」なのか。

 理由は2つ考えられる。アフリカは海面より高く隆起した高原大陸で、その約60%が標高500m以上の台地である。コンゴ川やザンベジ川は河口近くに滝があって、船で内陸部に入り込めない。アフリカは人と資材が進入するのに、輸送と交通面で難があった。

 

                     図8:アフリカの風土

 

 今一つは、マラリア、眠り病、黄熱病等の風土病に免疫のないヨーロッパ人は、アフリカで生活することが困難だった。特にマラリアは致命的である。アフリカ中央部の熱帯地域が人口希少で野生動物の天国なのも、けっして不思議ではなかった。

 

 サハラ以南のアフリカでは、3000を越す異なる部族が、1500以上の言語を話し、サバンナや熱帯雨林で、狩猟採集と焼畑農耕を生業とした。草と粘土の家に住み、強大な自然の循環系の中で住み分け、共存する時代が長く続いていたのである。16世紀、大航海時代の到来によって、アフリカはいきなり、近代世界システムの中に引きずりこまれる。

 

5.奴隷貿易と帝国主義がアフリカを襲う

 

 1498年、ポルトガルのヴァスコダ・ガマがアフリカ最南端を迂回して、インド航路を開拓し、大航海時代がやってきた。ポルトガル船、ついでオランダ船、イギリス船が西アフリカに来航して鉄砲を伝えた。西アフリカ海岸部の部族は、鉄砲隊を組織して内陸諸部族を征服した。そのときの捕虜を、ヨーロッパ商人が奴隷として買い取り、アメリカ大陸に売り飛ばしたのが奴隷貿易の始まりだ。

 その結果、推定1200万人から2000万人のアフリカ人が奴隷としてアメリカ大陸に連れてこられた。現在アメリカに住む黒人たちはその子孫である。

 西ヨーロッパはアフリカとアメリカ大陸・西インド諸島との三角貿易(図9)によってうるおった。近代世界の精神と制度の基礎を形づくった人類史上燦然と輝く理性と啓蒙のヨーロッパ18世紀は、人類史上最悪の奴隷売買の世紀であった。

 続く19世紀、帝国主義の時代がやってきた。市民革命と産業革命によって、世界に先駆け近代化を果たしたヨーロッパは、その政治的、軍事的、経済的優位性を背景に、海外への植民地進出を始める。アフリカはヨーロッパ列強の原料供給地として、植民地の標的となった。最大の危機は19世紀後半にやってきた。

 ベルギー国王のコンゴ領有に各国が反発、ドイツのビスマルクが開催したベルリン会議(1884年)でアフリカ分割の原則が定められた。アフリカ大陸を「無主の地」と考え、ヨーロッパ列強による軍事占領(実効支配)の事実を根拠に領有権を認め、先に占領した国の権利を尊重すべし(先占の原理)というものだ。つまり「暗黒大陸」の「未開人」には国家主権を認めない、ということである。20世紀初頭には、エチオピアとリベリアをのぞくアフリカ全土がヨーロッパ列強の植民地として分割された。

「かつてアフリカで起こった同じことが、今ウクライナで起こっている。」とケニアのキマニ国連大使が国連で演説した。(2022年2月20日付朝日新聞)

ロシアによるウクライナ侵攻、これは歴史を150年前のアフリカに引き戻す、現代の野蛮である。

                    図9:三角貿易 Triangular trade

 第二次世界大戦後の1960年、国連総会で植民地主義への反対決議が採択された。この年は、フランス領を中心にアフリカ17ヵ国が独立し、「アフリカの年」といわれた。アフリカ諸国は引き続き独立を果たしていったが、帝国主義の時代に、民族と言語分布を無視した国境線(アフリカ諸国にみられる直線の国境線は、植民地分割のときに地図上に定規で引かれたものである。)となったため、ほとんどの国で深刻な民族紛争をかかえることになった。

 加えて、アフリカ経済は植民地時代のモノカルチャー化に苦しんでいる。植民地時代、アフリカ諸国は宗主国により自給自足の経済を破壊され、宗主国のための嗜好品(カカオ豆等)や工業原料(天然ゴム等)の供給地に変えられてしまった。そのため、農産物や木材・鉱産物等の一次産品の輸出で外貨を稼ぎ、食糧や工業製品を輸入する経済構造になっている。

 独立後も一次産品に依存する経済構造から脱却できない。ために、経済開発を強行する独裁政権(開発独裁)が生まれやすい。金、銀、銅、ダイヤモンド、レアメタル等の豊富な地下資源は独裁政権と外国資本に吸い上げられ、国民の多くは貧困の中に放置され、十分な教育を受けられずにいる。無知と貧困が独裁政権を支え、富が吸い上げられるという悪循環に陥っている。

 アフリカの悲劇は、人々がアメリカ大陸に奴隷として売られたことから始まったが、ヨーロッパ人による植民地化は、その傷を一層深くした。土地はやせ、資源は持ち去られ、経済は先進国からの借金で破綻し、人々は救いようのない貧困に陥った。 

 さらに悪いことに、植民地時代の国境線によって、伝統的な部族や民族がバラバラに分断され、それぞれがヨーロッパ製の銃で武装して、部族紛争が絶えない。加えて独裁政府への軍事クーデターが頻発している。この間の事情をコンゴとルワンダの例でみてみよう。

 

6.コンゴとルワンダの惨劇

 

 赤道直下のコンゴは人口8000万人、日本の6倍の広さがある。コンゴは1885年から20年余、ベルギー国レオポルド2世の過酷で非人道的な統治下にあった。ゴムの生産と象牙狩りに追い立てられ、恐怖が人々を支配した。この間、500万人の先住民が殺されたと推定されている。

 1960年、コンゴは独立するが、陸軍大佐のモブツがクーデターを起こし、独立の英雄ルムンバ首相は暗殺された。危険にさらされたヨーロッパ人は、大挙して出国し、あとには国造りに経験のないアフリカ人が残された。コンゴは独立時、アフリカ有数の工業国だった。地下資源の豊富さで、アフリカ随一を誇り、「アフリカの心臓」と呼ばれ、人々の生活を豊かにするためのあらゆる条件がそろっていた。しかし、この国の経済瓦解は早かった。

 親米派のモブツ大統領による残虐非道を極める圧政と、言論統制の時代となった。国際援助金を横領し、国家を私物化し、人権を無視した独裁体制が30年続いた。当時東西冷戦下で、コンゴの共産化をおそれる西側陣営は、これを見ないことにした。

 中央アフリカに位置する豊穣の資源大国コンゴは、モブツという一人の独裁者による国家の私物化によって民衆の生活はズタズタに引き裂かれ、世界の最貧国の一つとなった。

 1990年代、東西冷戦の終結によって、政権は崩壊する。しかし、モブツ独裁政権倒壊後も、内戦が続き、330万人もの人々が戦乱の中で命を失った。

 

 コンゴ東隣りの国ルワンダは、もっと惨烈である。ルワンダの人口は1200万人。人口の85%を占める多数派が農耕民のフツ族で、残りが少数派の牧畜民ツチ族である。ルワンダは植民地支配下で、両者の関係がゆがめられた結果、多数派のフツ族を少数派のツチ族が統治する政治構造になっていて、両者は根深い敵対関係にあった。

 1990年から内戦になった。93年和平協定に入っていたが、フツ族出身の大統領搭乗機撃墜事件を機にすさまじいジェノサイドgenocideが始まった。フツ族の軍部と民兵組織が、100万人以上のツチ族とフツ族穏健派をわずか100日のあいだに虐殺した。(このgenocideによる難民は200万人にのぼった。)殺戮には斧やカマ、こん棒など簡単な道具が用いられた。殺戮は極めて残虐で、犠牲者の両腕と両脚を切り落としたり、子供を井戸に投げ込んだりする行為のほか、強姦も横行した。フツ族によってフツ族穏健派も虐殺された。穏健派とは富裕層のことである。次のような証言がある。

「命を狙われた人々はみな、土地を、ときには乳牛を持っていた。そして、所有者が死亡したあとには、誰かがその土地を、その乳牛を手に入れることになった。貧しく、人口過剰となりつつあった国では、これは無視できない誘因だった」

この証言者は生き残ったツチ族の教師だ。命が助かったのは、殺戮者がやってきて、妻と5人の子どもたちのうち4人を惨殺したとき、たまたま家を離れていたからに過ぎない。

「子どもをはだしで学校へ送り出さねばならない人々が、子どもに靴を買うことのできる人々を殺したのです」(ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊』)

 

 ジェノサイドの真の原因は、つまるところ、「貧困」なのだ。ルワンダのこの陰惨な殺戮は前話の「イースター島の悲劇」を思い起こさせる。

注:コンゴとルワンダの悲劇は、決して特殊な例ではない。1980年代から世紀末にかけて、サハラ以南アフリカ48ヵ国の政治体制は、リベリア、セネガル等7ヵ国をのぞき、いずれも軍政か一党独裁国家であった。開発独裁下のほとんどの国が民族紛争、汚職、失業、治安悪化で人々は飢餓と生命の危機に瀕していた。アフリカはまさに「絶望の大陸」であったのである。

 

7.アフリカは21世紀世界を牽引する機関車

 

 SDGs(Sustainable Development Goals)は持続可能な開発によって「だれ一人取り残さない」世界をつくるため17の目標をかかげている。SDGsとは2015年の国連総会で加盟193ヵ国すべてが賛同した「未来の地球のかたち」である。その第一番が「貧困撲滅」だ。

 

目標1:あらゆる場所であらゆる形態の貧困を終わらせる。

 

 貧困ラインを1日150円(1.25ドル)未満で生活する人々と定義する。その貧困を2030年までに地球上から根絶するのだ。貧困人口は2015年時点で7億3600万人、そのうち4億1300万人(約56%)はサハラ以南のアフリカ人である。世界の貧困者の過半がケニア、コンゴ、ルワンダ、タンザニアのような植民地時代に搾取し尽くされたアフリカ人だ。

 アフリカの貧困は、今まで述べてきたように、歴史的、構造的なものであり、一朝一夕に解決できるものでない。しかし、民族紛争に呻吟しんぎんしてきたアフリカは、多文化、多民族を共生させる潜在力を備えた先進社会といえる。(それは南アフリカで現実に実を結んだ。)

「絶望の大陸」から「成長の大陸」へとギアチェンジするのだ。

 アフリカはまれにみる資源大陸である。金、銅、ダイヤモンド、レアメタル、石油等の豊富な地下資源がある。雪をいただいたキリマンジャロ山を背景に、広大なサバンナで象、キリン、ライオン、シマウマ等が自然のまま生息する野生の王国、稀有の観光資源がある。

図10:タンザニアのンゴロンゴロの自然保護地域

 加えて、爆発する若さの大陸だ。年率2.6%と、世界の2倍以上で人口増加する若い社会(25歳以下が60%)なのだ。お金はないが、資源と若い力と「希望」がある。アフリカは21世紀世界の成長と安定を牽引する機関車になりうるだろう。

 

 揺るぎない信念をもって、民族の尊厳と融和をかちとったアフリカの英雄ネルソン・マンデラNelson Mandela(1918.7.18~2013.12.5)の次のことばは重い。

 

希望は強力な武器である。世界のどんな権力もあなたから希望を奪い取ることはできない。

 

ネルソン・マンデラは、46歳のとき南アフリカ共和国の国家反逆罪で終身刑の宣告を受けた。27年間ロベン島監獄に収監されていたが、その間「希望」の灯をともし続けた。不撓不屈(ふとうふくつ)・堅忍不抜(けんにんふばつ)のマンデラは、73歳のときついに釈放される。その4年後の1994年、黒人初の南アフリカ共和国大統領となった。

以下マンデラ語録

「奴隷制やアパルトヘイトと同様に、貧困は自然のものではなく、人間から発生したものだ。よって、貧困は人類の手で克服し、根絶できるのだ。」

「私は民主的で、自由な社会のために生きている。しかし、もし必要あらば、その理想のために私は死ぬことを覚悟している。私の長い道のりはまだ終わっていない。」

ネルソン・マンデラの長い道のりは、私たちの長い道のりでもある。

 

 3年目を迎え、いつ終わるともしれぬコロナ禍。私たちは人類史上初めて、地球規模の解決法が求められる地球規模の危機に直面している。日本を含め世界のどの国も、単独ではコロナ禍を解決できない。日本が国内で感染者をゼロにしたとしても、ケニヤやコンゴや世界のどこかでウィルスが生き続けたとしたら、また日本国内で感染者が出るのは時間の問題だ。全世界の国々が安全にならなければ、新型コロナウィルスに対して安全な国など存在しえない。世界は、私たちはどう対応すればよいのか。

「最良のシナリオはこうだ。人々がコロナ禍が地球規模の脅威であること、ウィルスに対して全世界が安全な状況をつくる以外に道がないことに気づく。もし地球規模のウィルスの脅威に人々が協力して打ち勝つことができたら、そこから得た教訓を一般化し、気候変動や貧困などの地球規模の脅威に協力して対応できるようになるかもしれない。」(ジャレド・ダイヤモンド)

 あらゆる危機は好機である。アフリカ熱帯雨林とサバンナの国々の貧困が世界を不安定にする。アフリカ問題の解決なくして、21世紀世界の安定と繁栄はない。SDGs目標1「世界の貧困をなくす」ために、私たちになにができるか、みんなで考えてみよう。長い「暗黒」が続いた悲劇の大陸アフリカ。しかし明けない夜はない。

次回は『インドの歴史』だよ。

 

2022.5.1