第7話

ヨーロッパの孫に聞かせる

 

日本と世界の歴史

 

第7話 人類の教師 ソクラテスと孔子

 

 

 

岡市敏治

 

 

今回は人類史上でもっとも賢い2人の人物の話をしよう。それはソクラテスと孔子だ。いずれも今から2500年前のギリシャと中国のお話になる。

 

 ところで、君は去年の夏パパとママとクレタ島に行ったろう。クレタ島は地中海のちょうど中央部にある。地球儀をぐるりと東へ廻すと、クレタ島はOPAとOMAの住んでる大阪とほぼ同じ緯度(北緯35度)だ。日本の最北端・北海道の稚内はイタリアのヴェネチアあたりだ。(君の住んでるウィーンにいたっては、北海道のはるか北方サハリン樺太辺りになる。)つまり地中海は日本列島とほぼ同緯度にあるのだ。ところが、気候風土は地中海と日本とではまるで違う。日本の夏は暑熱と湿気で耐えられないほどのむし暑さだ。

 

熱帯の太陽に焼かれた熱帯の海の極度にまで湿気を含んだ熱気が夏のモンスーンによって日本や中国大陸に送られ、梅雨となる。雑草が猛烈に繁茂するが、稲作には恵みの雨だ。暑熱と湿潤は自然の恵みとして日本に豊穣をもたらすが、時に台風として暴威をふるう。

 

 

 

1.地中海式気候とは

 

 地中海気候はどうだろう。右の地図を見てみよう。「地中海」はその名の示すようにヨーロッパとアジアとアフリカの「三大陸地に囲まれた海」として、地球上唯一のものであり、世界文化史上最もめざましい舞台の一つとなった。

 西ヨーロッパ全域と地中海沿岸部の雨季は冬であり、夏は乾季である。南に広漠たるサハラ砂漠、東にはアラビア砂漠を控えたこの海は、海水の蒸発くらいで空気を潤すことができない。大西洋からの湿気はピレネー、アルプス、アトラスの諸山脈にさえぎられている。だから、暑熱の季節、すなわち地中海の海水蒸発の最も盛んな季節が、砂漠の乾燥した空気によって最もよく湿気の中和させられる季節であり、従って西ヨーロッパを含む地中海世界の夏は乾燥期になる。地中海とは夏の太陽が焼きつけている土地に雨を送ることができない海なのだ。

 

  1. 不毛の地ギリシャが生きる道

 

 ギリシャの年間降雨量は400ミリリットルで、日本の1/4か1/5。そしてその雨も冬季に偏っている。夏に雨が降らないから、山はハゲ山で木が育たない。土地は石灰岩質で、やせているので、穀物農業には適さない。オリーヴ、ぶどうなどの果樹栽培や羊の牧畜が主である。

 

 地中海に流れ込む大河といえば、ヴェネチアのポー河、マルセイユのローヌ河しかなく森林がほとんどないので、海はやせていて漁業に適さない。ギリシャ人は魚でなくて獣肉を食う。やせた土地とやせた海に囲まれた不毛のギリシャに、どうして世界史に卓越したギリシャ文明が生まれたのだろう。

 

 その秘密も地中海にある。地中海の西の端のジブラルタル海峡はきわめて狭く、大西洋との海水の流動が自由でないので、潮の干満の差がきわめて少ない。(高潮時で0.3m)

 

 地中海はまた多島(・・)()でもあって島が多く、港湾も多い。空気が乾燥しているので、霧はなく遠望がきく。つまり航海が容易なのである。地中海は古来「交通路」だったのだ。海は陸と陸をへだてるものではなく、陸と陸を結びつける「海の道」だった。この海の道を伝って、シリアのフェニキア人が前800年ころアルファベットをギリシャに伝えたことは、第3話で話した通りだ。このアルファベットを使ってギリシャ人は人類史上の奇跡とも思える文明を築き上げた。

 

 

 

  1. アテネは奇跡のポリス

 

 

図2古代ギリシャ文化史年表を見てほしい。前600年から300年に渡るギリシャ文

 

化の一覧表だ。とりわけ前500年代のペルシャ戦争からペロポネリス戦争までの50年間(民主政治家ペリクレスの時代)においてギリシャ世界、特にアテネは黄金時代を現出した。「人類史上これと比較することのできるようなどんな時代をとってみても、この時代ほど時間的、空間的に集中され、その産出物の点で完璧の域に達したときはない。」とウィリアム・H・マクニールがその著『世界史』で感嘆している。

 

 ギリシャは岩山ばかりで、平野が少なく、土地がやせていて農業に適さないので、ギリシャ人はアテネやイオニア諸都市のように沿岸部に都市を作り、地中海交易によって繁栄した。この都市国家のことをポリスという。集住(軍事的、経済的要地への全住民の移住)によって成立したコンパクトな城壁都市で、政治的に完全に自立、独立していて、ギリシャ半島だけでポリスは200を越えた。

 

そのうち最も繁栄したポリスがアテネである。図3はアテネ市街の復元図だ。アテネの当時の人口は25万人、内10万人は奴隷だったとされる。家事や生産活動は奴隷がするので、市民はアゴラに集まってきて、民主主義の政治に参加したり、ソフィスト*2たちとおしゃべりをした。

 

アゴラ:アクロポリスのふもとにある公共広場。市民は労働を奴隷に任せて、ほとんど終日ここで過ごした。

 

*2 ソフィスト:民主政盛期のアテネに輩出した弁論の職業教師。ときに事実に反する詭弁を使う者もいた。

 

 

 

 

一般市民は先のペルシャ戦争・サラミスの海戦(前480年)で、軍艦の漕ぎ手として、海戦を勝利へと導いた立役者だったので、無産市民の政治的参加が実現していたのだ。

 

 

 

  1. おしゃべり乞食のソクラテス

 

アテネのアゴラで、風変わりな哲学者が青年に問答を試みていた。

 

「世にもすぐれた人よ。君は、アテネという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都の人間でありながら、ただ金銭だけをできるだけ多く自分のものにしたいというようなことばかりに気を使っていて、はずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮や真実のことは気にかけず、魂をできるだけすぐれたものにするということに気も使わず、心配もしていないとは…。」(プラトン『ソクラテスの弁明』)

 

 

 

この哲学者こそ、ソクラテスその人である。

 

ハゲ頭、しし鼻、タイコ腹、もじゃもじゃの毛におおわれた手足…。哲学者の中でも最大のブオトコというかんばしくない評をとどめていたソクラテス。

 

彼はいつも貧乏で、奥さんのクサンチッペから「稼ぎが少ない」と水をぶっかけられたりした。当時アクロポリスの丘で演じられた喜劇『雲』では「おしゃべり乞食のソクラテス」と揶揄(やゆ)されたりもした。

 

 真のソクラテスとはいかなる人物だったのだろう。

 

ソクラテスは(よわい)70にして、なお壮年の活力をもっていた。彼は勇敢な兵士(ペロポネソス戦争に3回従軍)であり、あらゆる困難に耐える忍耐力をもっていた。彼はすぐれた論理家であると共に、不退転の実行家であった。哲学史上最大の実践家であったろう。

 

 ソクラテスの関心は人間の正しい生き方の追究にあった。ただ生きるということなら犬でもできる。大切なのは、人間としてよりよく生きるということなのだ。問答法(ダイアローグ)を通して、人々を無知の自覚に追い込んでいった。そしてこのことが悲劇をもたらすのである。

 

ソクラテスによって、無知を自覚させられた人の中には、真理を求めようとプラトンのように研究に励んだ人たちと、逆恨みをしてソクラテスを憎む者が出た。後者の人たちは、ペロポネソス戦争で、アテネがスパルタに負けたのも、彼が青年を惑わしたからだとした。そして国家公認の神を認めず、異宗教(ダイモン)を導入しようとし、ポリスの現状を批判する者としてソクラテスを裁判にかけた。

 

ダイモン(魔神):ソクラテスには、彼が何かをしようとするとき、それを押しとどめるように、ダイモンの声が聞こえた。このダイモンが、彼を告発する人々の理由の一つになった。

 

 

 

5.“無知の知”ソクラテスの死

 

 70歳のソクラテスは法廷に立った。告発理由は「国家の神を信じず、青年を堕落させた罪」であった。彼は自らの活動の真意を弁じ、なおかつ「魂が善くあるように」という、いつもの言葉を人々に語りかけつつ、死刑の判決を受け入れた。

 

ここにきて、彼のダイモンは沈黙してしまったのである。ソクラテス自身がダイモンと化そうとするとき、ダイモンは彼に何を合図する必要があっただろうか。

 

 「もう終わりにしましょう。時刻ですからね。もう行かなければならないのです。私はこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。しかしわれわれの行く手に待っているものは、どちらがよいのか、誰にもはっきりはわからないのです。神でなければ。」(プラトン『ソクラテスの弁明』)

 

 

 

ソクラテスは「真実を語ること」を義務とした。ただ刑罰をまぬがれることだけを目的とはしなかった。正義をつらぬくということは、つねに生命の危険を覚悟しなければならない。人は一身上の安全を守るためには、むしろ正義を捨てるかもしれない。

 

しかしそれは、ソクラテスの途ではなかった。ソクラテスにとって、死刑は必ずしも最悪のことではなかったのである。

 

 彼は弟子たちが準備した脱獄をことわって、不正な死刑の判決に従い、従容として毒杯をあおいだ。国家の誤りにもかかわらず、国家の命令には従わなくてはならない。なぜなら国家は自分を育ててくれた母のようなもので、母への不服従が不正であるように、判決(法)に反することは不正なのだ。彼は一個の人間として正しい生き方を追求するとともに、ポリスのよき市民としてその刑に自ら進んで服した。

 

 

 

 

6.古代ギリシャは知的世界の源流

 

ソクラテスは、その生涯において、一行の文章も一冊の本も残さなかった。もし弟子プラトンが『ソクラテスの弁明』や『クリトン』などの一連の著作を後世に残さなければ、この賢人は刑死した風変わりな一政治犯として、歴史の彼方に忘れ去られてしまっただろう。

 

 ソクラテスの哲学は、プラトンからその弟子アリストテレスに伝えられる。さらにはアリストテレスの弟子アレキサンダー大王(君のパパと同じ名前だよ)によってヘレニズム文化として東方に広がった。そしてこのヘレニズム時代からはるかに時代を下ること1500年、ルネサンス(文芸復興)としてギリシャ文化はヨーロッパ世界に燦然とよみがえる。

 

ヘレニズム時代:アレクサンダー大王が、ペルシャ帝国を倒し(前330年)、ギリシャからオリエント・インド西部にまたがる世界帝国を樹立してから、古代ローマ帝国がエジプトを破る(前31年)までの300年間をいう。世界的、普遍的性格をもった新しいギリシャ風文化ヘレニズム文化が生まれた。

 

 

 

古代ギリシャ繁栄の時代から2500年後の現在のギリシャは、経済的苦境の中にあって、EUの厄介者扱いとなっているが、近代ヨーロッパの学問と芸術が、その文化的基盤と淵源を古代ギリシャにもつことは紛れもない。ソクラテスを頂点とする古代ギリシャ文明は人類史の奇跡である。

 

次回は後篇『孔子』について話をしよう。(つづく)2013.7.15

 

 

 

 

ソクラテスのことば

 

◇しかし私は、彼とわかれて帰る途で、自分を相手にこう考えたのです。この人間より、私は知恵がある。なぜならこの男も、私も、おそらく善美のことがらは何も知らないらしいけれど、この男は知らないのに何か知っているように思っているが、私は、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている。だから、つまり、このちょっとしたことで、私のほうが知恵があるということになるらしい。つまり、私は、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。(プラトン『ソクラテスの弁明』)

 

 

 

◇それはつまり、大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだというのだ。(プラトン『クリトン』)