ヨーロッパの孫に聞かせる

 

日本と世界の歴史

 

19話 イスラム世界

 

——船乗りシンドバッドの冒険——

 

岡市敏治

 

 アラビアンナイトの主人公シンドバッドは今から100年前のバグダッドの冒険商人。ダウ船に乗ってインド洋を渡り、世界の涯てまで商売に出かけます。

 

 ある航海で無人島にひとり取り残されたシンドバッドは、巨鳥の足にしがみついて島を脱出する。巨鳥がおりたったところは大蛇がうじゃうじゃいるダイヤモンドの谷……

 

 こんなハラハラドキドキの冒険航海をシンドバッドは7回も経験する。毎回命からがらの目にあうが、いつもあきらめず、もちまえの勇気と好奇心で運命を切りひらいていくのです。

 

 

 

世界に比類なき都バグダッド

 

この船乗りシンドバッドの冒険物語はアラビアンナイト『千夜一夜物語』の一話。シンドバッドの故郷バクダッドはアッバース朝というイスラム国家の首都、当時世界で最も文明が盛え、人口は100万人、世界最大の国際都市であった。この当時のもう一つの文明世界は唐の長安であるが、長安もバグダッドのにぎわいには、はるかにかなわなかった。

 

 アッバース朝は産業や貿易の振興だけでなく、学問・芸術も保護したので、首都バグダッドには学者や文人も集まり「世界に比類なき都」と称された。海路による交易が盛んでイスラム商人は4500人乗りの大型帆船ダウを使って東は中国、西は東アフリカ沿岸まで頻繁に往来した。イスラムの文学を代表する『アラビアンナイト』には様々な商人が登場するが、シンドバッドの冒険(たん)はイスラム商人の活躍を象徴している。イスラム教は商人たちの宗教、つまり都市の宗教であった。商人たちの行く先々に、イスラム教は広まっていったのである。

 

 

世界最強のイスラム教

 

 一方、同時代のヨーロッパは前回話したカール大帝の時代で、アルプス以北は大部分が森林におおわれていた。君たちのご先祖さまのゲルマン民族の人々は、ケモノを追う狩猟生活で、一部で森が切りひらかれ、農耕が始まるという段階で、バグダッドに比べれば文明以前の世界にあった。

 

 イスラム国家というのは、今から1400年前にアラビア半島のメッカで、ムハンマド(マホメット)が創始したイスラム教を基盤とする国家である。アラビア半島から中東、中央アジア、インド、東南アジアへ。西に向かっては、北アフリカ、イベリア半島へと“聖戦”によって、またたくまに信者を増やし、イスラムの教えはいくつもの大国の(いしづえ)になった。そこでは新たな文化が花開き、様々な思想や宗派が生まれた。

 

 今や世界のイスラム教徒の人口は17億人で、世界人口の5人に一人がムスリムである。2100年にはキリスト教徒(24億人)を超え最大勢力の宗教になるといわれている。今回はそのイスラム世界へシンドバッドと共に知的冒険の旅に出よう。  

 

*ムスリム:「イスラム教徒」を意味するアラビア語。

 

 

 

和辻哲郎の『風土』

 

 今から90年前の1927年、近代日本を代表する哲学者となる若き和辻哲郎(18891960)は、ヨーロッパ留学のため横浜港を出港した。南シナ海を南下し、赤道直下のシンガポールに寄港する。インド洋を渡り、紅海から地中海に入り、ヨーロッパへと達する40日余の船旅において、和辻はユーラシア大陸に3つの大きな風土的類型が存在することを発見する。

 

  1. モンスーン風土(東アジア、インド)

  2. 沙漠風土(アラビア)

  3. 牧場風土(ヨーロッパ)

 

 耐え難い暑熱と湿気のインド洋を航海しながら、和辻はアジアのモンスーン風土を次のように規定する。

 

 洋上において耐え難いモンスーンは、実は太陽が海の水を陸に運ぶ車にほかならぬ。この水ゆえに夏の太陽の真下にある暑いアジアの国土は、旺盛なる植物によって覆われる。特に暑熱と湿気とを条件とする種々の草木が、この時期に生い、育ち、成熟する。大地は至るところ植物的なる「生」を現し、従って動物的なる生をも繁栄させるのである。かくしてアジアにおける人間世界は、植物的・動物的なる生の充満し横溢せる場所となる。自然は死ではなくして生である。

 

 

 

乾燥と戦闘の沙漠風土

 

 インド洋を渡ってアラビア南端のアデンに到着したとき、和辻はそこに沙漠を見た。

 

 大地は徹底的に乾き徹って湿いを思わせるものはほとんどない。世界はことごとく乾燥そのものである。この乾燥が物すごい砂原となり、水を運ぶ駱駝(らくだ)となり、さらに遊牧となり、コーランとなる…一言にして言えば、アラビア的人間となるのである。乾燥の生活は「渇き」である。水と泉と草地を求めて他の部族との戦いである。すなわち、人はアラビアにおいて生くるために他の人間との脅威と戦わねばならぬ。沙漠において人が自然において見るところのおのれは死である。

 

この沙漠的人間の功績は人類にユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教を与えたことである。なかでも人格神アッラーを信ずるイスラム教が最も力強い。この人格神がいかに沙漠的であるかを示したのが、ムハンマドその人である。

 

 

 まことに沙漠の一神教世界は過酷である。モンスーン世界のインドでは釈迦は美しい林の中で修業し、お釈迦様が死ぬときは、象も泣いた、蛇も泣いたと伝説は語る。しかしこの沙漠風土においては、キリストは「無花果(いちじく)の樹に今より後実を結ばざれ」と言った。そしてゴルゴダの丘の十字架に盗賊と一緒に(はりつけ)になって、罪人として刑死したのである。

 

アッラーを奉ずるムハンマドは宗教者であると同時に、聖戦における最も勇敢なる戦闘者、戦争指揮官であった。

 

 

 

風雲のアラビア半島

 

 イスラム教の開祖となるムハンマド(570ころ~632)は、アラビア半島は紅海沿岸部の隊商路にあるオアシス都市メッカの名門クライシュ族に生まれる。(日本では聖徳太子とほぼ同時代) 商人として活動していた40歳のころ(610)、ムハンマドは唯一神アッラーの啓示をうけ、預言者となる。

 

 アラビア半島というのは世界史的に見ると沙漠ばかしで価値の低い地域である。しかるに、アラビア半島の北側のシリア、イラク地方はシルクロードが通っていて、通商路として古来から栄えていた。ところが、東のササン朝ペルシャと西の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との間で、長く戦争状態が続いたため、中国とローマ帝国をつなぐこのシルクロードが寸断された。そこで、シルクロードはアラビア半島の南に迂回することになった。特に紅海沿岸の地域、いわゆるヒジァーズがシルクロードの上に乗って非常に重要視されてくる。

 

 こうしてそれまで部族単位の遊牧生活の場でしかなかったアラビア半島に、商工業の発展がもたらされる。ところが、商工業の発展は遊牧生活では考えられなかった貧富の差を生むことになった。メッカの商人貴族であったクライシュ族は富み、大多数のアラブ人は以前より一層貧乏になり、社会は不安定になった。

 

アラブ人の間に平等を達成したい。アラブ人をまとめ上げ、そのエネルギーを一つにすれば、大きな力を発揮することができる……ムハンマドのイスラム教は、将にそんな時代に登場したのである。

 

*アラブ:Arab アラビア半島の原住民。ムハンマドの出現によって統一され、イスラム帝国の建設に伴って広がった。今日、モロッコ、アルジェリア、エジプト、シリア、ヨルダン、イラク、サウジアラビアなどの国家を建てている。

 

 

ムハンマドの登場

 

 ムハンマドは若いころ隊商で訪れたシリア地方で、一神教であるユダヤ教やキリスト教に触れていたので、アラブ人の多神教と偶像崇拝こそ精神的な堕落だとしてこれを厳しく批難した。そして「唯一神アッラーへの絶対の帰依(イスラム)」を唱えてイスラム教を創始する。

 

 神アッラーの前ではすべての教徒は平等であり、貧しい人々へのほどこし(年収の40分の1)は喜捨として、富めるイスラム教徒の義務である。ムハンマドを通じて伝えられた神の啓示は、『コーラン』としてまとめられ、そこには信仰のみならず、世俗の生活のすべてを規制していた。したがって、イスラム教はたんに宗教であるばかりでなく、政治的・社会的・文化的活動のすべてにわたる信者の生活規範となった。

 

 神の前の平等を説くムハンマドは、メッカの大商人から迫害を受け、いったんメディナに移住(ヒジュラ622)する。後、ムハンマドは軍事指揮官として、戦士を率いてメッカに乗り込み、敵対者を倒し、次々と改宗させた。そしてアラビア半島を統一し、メディナを首都とする教団国家を築いた。(632

 

 

 

コーランか剣か

 

 ムハンマドの死後もアラブのイスラム教徒はジハード(聖戦)を続け、ササン朝ペルシャを滅ぼして領土を奪い、ビザンツ帝国からはエジプト、シリアなどを奪って西アジア一帯に、わずか1世紀ほどの間に広大なアラブ帝国をつくりあげた。そうした活動が“右手にコーラン、左手に剣”という有名な言葉を生んだが、実際は“コーランか貢納か剣か”で、イスラム教徒はユダヤ教、キリスト教を「啓典の民」として尊重していたので、税さえ払えば信仰は自由であった。

 

 

 

イスラムの学問・文化がヨーロッパを躍進させた

 

 イスラム国家が建設されたところは、文明の十字路といわれた中東で、古くから多くの先進文明が栄えた地域であった。イスラム文明はオリエント、ギリシャ・ローマなどの先進文明をイスラム教とアラビア語によって融合した点が特徴で、つまりはイスラム教を核とする普遍的文明であった。そのため、この文明はイスラム世界のいたるところに受けいれられた。征服地の住民が祖先からうけついだ文化遺産も取り入れて各地の地域的、民族的特色を加えて、イラン=イスラム文明、トルコ=イスラム文明、インド=イスラム文明としてあたらしい融合文明を形成した。

 

 中世ヨーロッパは1113世紀、十字軍遠征によってイスラム国家に敵対したが、同じころスペイン中部のトレドを中心にイスラム教徒の著作をつぎつぎとラテン語に翻訳し、これを学びとることによって、のちにルネサンスを開花させた。イスラム文明はアリストテレスの哲学などのギリシャ文明をヨーロッパへと橋渡しするうえでも重要な役割を果たし、ヨーロッパ文明へ強烈なインパクトを与えたのである。

 

 

 

アラビア数字から複式簿記へ

 

 商人ムハンマドにより始められたイスラム教は、商業倫理を重んじ、商業を卑しいものと見なさない、きわめて都市的性格の強い宗教だとは先に述べた。こうした宗教・倫理に支えられ、イスラム世界では国際商業が発展し、数学の発展をうながし、ユークリッド幾何学やインドの代数学が発展した。

 

1200年ごろ、イタリアの商人、レオナルド・フィボナッチは、父親が経営する隊商宿で働くために、北アフリカのアルジェに渡った。そこで彼は、生まれてはじめて、紙に数字を書いて計算する方法を知った。それはインドで生まれ、バクダッド経由でその地に伝わったものだった。従来のギリシア文字(α、β、γなど)ではなく、0から9までの記号

 

 

(アラビア数字)で数を表現し、速やかに計算する方法で、インド発祥の0を用いることによりどんな数でも表現できた。そこで彼は1202年に『算術の書』を出版し、西側のキリスト教世界に、アラビア数字を紹介した。アラビア数字という発明は、非常にすぐれていたので、イタリアの商人たちは、アラビア数字を駆使して、複式簿記を発明した。

 

*複式簿記:近代企業社会における会計処理はすべて複式簿記によって行われる。複式簿記は1494年イタリアの数学者ルカ・パチョーリによって体系化され、著書『スムマ』として出版された。

 

 

 

タラス河畔の闘い

 

 イスラム世界の東北端の中央アジアで、751年に唐軍と「タラス河畔の闘い」があって、イスラム軍が圧勝した。イスラム軍が捕えた唐軍の捕虜の中に紙()き職人がいて、製紙法の秘密が明らかになった。794年にバグダッドで製紙工場が作られ、製紙法の技術は13世紀、十字軍によってヨーロッパに伝わった。この時点で、紙がパピルスや絹、羊皮紙にとってかわったのである。15世紀グーテンベルグの活版印刷の発明で、聖書の大量出版が可能となり、ルターの宗教改革に火がついたのだよ。

 

 

 

オスマン帝国の栄光と衰退

 

 アラブ人にかわって、イスラム世界の覇者となったのは、13世紀末に中央アジアから小アジアに移住してきたトルコ人がつくったオスマン帝国(オスマン・トルコ)である。遊牧民であったトルコ人は、騎馬戦士としてすぐれていた。オスマン軍は1453年に20万人の陸軍と400隻の軍艦で、キリスト教国であるビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻撃し、陥落させた。そしてここをイスタンブールと改称する。

 

 その後、オスマン帝国は、15世紀の後半から16世紀の初めにかけてメソポタミア、アラビア半島、エジプト、シリアを次々に征服して東地中海から西アジアにいたる大帝国に成長し、イスラム世界の覇者となる。キリスト教世界とイスラム世界の辺境で大帝国となったオスマン帝国は、帝国の背後のイスラム世界から多くの学者(ウラマー)を招いて裁判官などに任命し、イスラム法を忠実に実施する理想的なイスラム教国の建設をめざした。帝国の最盛期は26歳で即位し、約半世紀間、3大陸の20余の民族、6000万人を支配した第10代スレイマン1世の時代である。この時代のオスマン帝国は、ハンガリーを征服し、君たちの住んでいる神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲して、ヨーロッパを恐怖に陥れた(1529)。 1538年にはオスマン海軍は、イオニア海のプレヴェザの海戦でスペインなどの軍艦からなる連合艦隊を破り、地中海の制海権を確立した。スレイマン1世は、ヨーロッパでは「壮麗王」といわれたが、まさにヨーロッパ最大の君主だった。だが、17世紀になると、ヨーロッパの勃興、宮廷の内紛と政治の混乱などで、オスマン帝国もしだいに揺らぎ始める。

 

 

オスマン帝国にとって、とりわけ第二次ウィーン包囲(1683)の失敗は致命的だった。

 

 18世紀の後半にはじまったイギリスの産業革命は、原料供給地・製品の販売市場として、政治的・経済的に意のままに支配できる植民地を必要とした。ヨーロッパの軍艦や商船がインド洋に進出し、オスマン帝国はバルカンやアジア、アフリカの領土をつぎつぎに失っていった。ヨーロッパ列強の利害が複雑にからみあい、たがいに牽制しあっていたオスマン帝国では、国家そのものは温存されたが、領土は縮小の一途をたどり、列強による植民地化がすすんだ。オスマン帝国は、19世紀には近代化の諸改革が行われ、一時立憲制も実現するが、すぐに専制体制にもどり、財政の破綻から列強の経済的植民地へと化していった。第1次世界大戦に敗れたオスマン帝国は、1922年に栄光ある600年の歴史を閉じたのである。

 

 ヨーロッパ列強は市民革命によって国民国家が誕生し、近代国家として機能していたが、イスラム世界では君主専制のまま近代社会を迎えてしまった。アジア、アフリカでは、明治維新によって立憲制の近代国家となった日本のみが、植民地化からまぬがれることができたのだよ。

 

 

 

和辻教授ヨーロッパ到達

 

 さて、和辻哲郎の船旅はつづく。

 

 自分たちがモンスーン地方から沙漠地方を経て紅海に入り、(いにしえ)のクレータの南方海上を過ぎて初めてイタリア南端の陸地を瞥見(べっけん)し得るに至った朝、まず我々を捕らえたものはヨーロッパの「緑」であった。それはインドでもエジプトでも見ることのできなかった特殊な色調の緑である。ころはちょうど「シチリアの春」も終わりに近づいた三月の末で、ふくふくと伸びた麦や牧草が実に美しかった。時に農学部の大槻教授は、「ヨーロッパには雑草がない」という驚くべき事実を教えてくれたのである。それは自分にはほとんど啓示に近いものであった。自分はそこからヨーロッパ的風土の特性をつかみ始めたのである。

 

 

 

 次回は君たちのふるさと『ヨーロッパ世界』だよ。和辻教授と共にヨーロッパの歴史と風土を探求することにしよう。ところで、君のおじさんのなまえは「哲郎」だね。実は彼が生まれたとき「和辻哲郎みたいに賢くなれ!」と願ってネーミングしたんだが、さあどうだろう。(了)                               

                          2017.12.1