第6話

ヨーロッパの孫に聞かせる

 

日本と世界の歴史

 

第6話 人はなぜ山に登るのか

 

 

 

岡市敏治

 

 

 今から27年前の1986年4月、神戸大学チベット学術登山隊は、チベットとブータンの国境にそびえる世界第2の未踏峰クーラカンリ(標高7554m)初登頂を目指して悪戦苦闘を続けていた。

 

クーラカンリはチベット語で“天帝の峰”を意味し、荒涼としたチベット高原に屹立する急峻かつ巨大な独立峰である。今まで登頂の試みはおろか、この山に近づいた探険隊もなく、地球上に残された数少ない秘境であった。

 

 

チベット高原にそびえる夕景のクーラカンリ峰 7554m

 

1.クーラカンリはどのように登られたか

 

 このクーラカンリを神戸大学隊はどのように攻略したのだろう。ヒマラヤの高所登山(6000m以上)は文字通り低酸素との戦いである。君も知っているように、人間は植物が光合成で作った酸素Oを吸って生きている。そのOが標高5000mの高地では地上の半分、8000mでは1/3しかない。このような低酸素の高所域では人間は通常生存できない。何の準備もなく、いきなり6000m以上の高所に連れていかれたならば、人は高山病になってたちまち死に至るのだ。

 

 どうすれば、この環境に適応して頂上に至ることができるのか。僕たち登山隊(神戸大の学生、大学院生、OBを主体に平均年令33才、13名の隊員で構成。登山隊長は君のOpaだよ。その時45才)はチベット出発までの1年間、全員に長距離走のトレーニングを課し、各隊員の心肺能力の向上をはかった。少ない酸素を肺がどれだけ体内に取り込めるか。取り込んだ酸素を心臓のポンプがどれだけ体中に送りこめるか。ヒマラヤ登山にはマラソンランナーのような強い心肺能力が必要なのだ。

 

 ヒマラヤ登山戦術の要は、高所順応にある。クーラカンリ登頂ルート図(下図)を見てほしい。ABCadvanced Base Camp 5100m)から頂上(7554m)まで高度差500m毎に4つのキャンプを設営した。(各キャンプには非常時に備え酸素ボンベを置いてある。)

 

 まずC12~3回荷上げして体を5700mの低酸素にならしてからC1に泊る。

 

次いでC2へのルート工作をし、C2への荷上げを繰り返しC2の高度に慣れてからC26220mに泊る。このようにして順次キャンプを伸ばして行くのだが、人間の体はえらいもので、このように手順を踏んでじっくりじっくり高度をあげていくと、体は高所の低酸素に順応してくる。これを高所順応aclimatizationという。

 

順応するためには高度を毎日少しずつあげながら、なおかつ無理をしないというのが最重要である。上部キャンプでの滞在は極力少なくし、とにかく頑張りすぎない。体力の50%~70%くらいの行動でちょうどよい。(とはいえ、がんばらないと食料、資材を上部キャンプにあげられないところが悩ましい。)

 

早春のクーラカンリ

 

クーラカンリ登頂ルート図

 

 

ところで、6000m以上の高所に一ヵ月以上も滞在すると今度は高所衰退が起こる。高所での長期滞在は自滅の原因となる。悪天候の時は下へ下り、晴天の到来とともに一気に頂上を狙う。

 

 高所での危険の第一は、肺水腫である。無理をするとこれが起きる。強い咳が出、血たんを吐き、あるいは口から泡を吹き簡単に死ぬ。(肺水腫の疑いあれば、酸素を吸入させて直ちに下へ下ろす。下ろすといっても、BCで標高4500mある。)

 

 高所障害は肉体面だけでない。脳細胞は各種臓器中最もO消費量が多いので、Oが不足するとその機能が落ちて、判断力が低下する。頂上が間近に感じられ(錯覚)、進み続けて遭難する。性格の弱い者、頭の悪い者は危険という経験則がある。

 

つまりヒマラヤ登山の要諦は各隊員の体調、意欲、健康状態を勘案しながら、ルート工作や荷上げのローテーションを按配して、全隊員の高所順応をいかに効率よく実現するか、そしてヒマラヤジェット気流のやむ数少ない好天をとらえてすばやく頂上を攻略、高所衰退を起こす前に安全にBCまで下りてくる。高所登山の成否はひとえにここにかかっている。

 

 ヒマラヤ登攀リーダーは、豊富な高所体験と同時に複雑な高所タクティクスを企案し、決断し、慎重に実行するというタフな人間性と体力が要求される。

 

 クーラカンリ登攀隊長緒方俊治(当時36才)はそれを見事にやってのけた。1976年カラコルム・シェルピカンリ(7380m)のサミッターでもある緒方は、神戸大学山岳会史上最強の山男の一人であり、クーラカンリの真の英雄であった。

 

 クーラカンリ初登頂を無事達成し、4月下旬40日振りにBCに下りてきた13人の山男たちは、いずれもみなひげぼうぼう、体重を10kg近く減らし、頭痛、激しい咳、手足のむくみ、顔面浮腫であったり、眼底出血であったり、下痢であったり、呼吸困難に陥ったりと肺水腫にこそならなかったものの、全員なにほどかの高山病症状を経験していた。

 

 いったい山のどこに、これほどまで自分の肉体を犠牲にし、生命の危険を賭してまで、登る魅力と価値があるのだろうか。人はなぜ山に登るのか。

 

 

 

2.登山以前  ―神話の時代―

 

 ところで、クーラカンリのBCの近くには、チベット人の村があって、僕たちのBCテントは村民の見物客でにぎわっていた。天地開闢以来、今まで見慣れた遊牧民とは全く毛色の違うカラフルなテント村が突如降ってわいたようにクーラカンリ山麓に出来上がったものだから、遠くの村から馬に乗って見物に来るのもいる。

 

 登攀具や通信機や梱包した食料などを珍しそうに見ていたが、彼らチベット人にどうしても理解できないのが「登山」という行為である。「クーラカンリのてっぺんは見ての通り雪と氷と風ばかしで何もない。遠いニッポンから何しにきた? 」というのだ。

 

 チベット高原の平均標高は4500m、一年の半分は雪と氷と烈風に閉ざされている。僕たちがラサからブータン国境へとキャラバンした春3月、チベット高原はガチガチに凍っていてまだ厳冬期のさなかにあった。氷が解け出す4月下旬から秋にかけ、ヤクと羊を高原に放牧してしっかり草を食べさせ太らせる。加えて、燃料となるヤクのフンをできるだけ沢山拾い集め、ため込んで厳しく長い冬に備えなければならない。

 

 この過酷な自然の中で彼らはギリギリに生活している。用もないのに山に登るなどという無益の登山行為は、彼らの理解をこえている。

 

 

 

 チベット僻地は、世界史的には、放牧と狩猟採取、粗放農業といった産業社会以前の段階にあった。ヨーロッパや日本などの文明社会においても、そのような生業の段階でスポーツとしての登山は存在しえなかった。

 

 日本においては、明治20年代(1880年代)以前にスポーツとしての登山の概念はなかった。ヨーロッパにおいても、ルネサンス時代までは、登山の記録は全くない。中世において、山は悪魔の棲家であり、そこには必ず竜がいると信じられていた。

 

 13世紀の後半にアラゴンの国王ピエル三世が、ピレネ山脈中のカニグウ山(Canigou,2787m)の頂に登ったところ、そこには湖があり、「王が石を一つ投げ込むと、恐ろしい巨大な竜が飛出してきて、空中を飛揚し始め、その吹く息で空は暗くなった」と書いてある。このように山は恐るべき場所で、これを打破するルネサンスという新思想が生まれるまで登山は起こりようがなかった。

 

 

 

3.ルネサンス  ―山から悪魔を追い払う―

 

 ヨーロッパ近代はルネサンスから始まる。

 

 *ルネサンスRenaissance 14世紀から16世紀にかけてイタリアに起こり、西欧諸国にひろまった。ルネサンスは人間性の自由と解放を求めるヒューマニズムを基盤として、ギリシア・ローマの古典古代の自由な市民の生き方を模範とした。

 

そのルネサンスの初期を飾るイタリアの詩人ペトラルカが、登山において最初に現れる名前である。ペトラルカは1336年に南フランスのヴァントウ山(Mont Ventoux 1912m)に登っている。ダンテと同時代のこの詩人は人間中心の世界観を肯定し、人文主義(ヒューマニズム)の先駆者となった。

 

 ペトラルカから200年ばかりたって、1511年ころに万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチがアルプスに登っている。登った山はモンテローザ(Mt.Rosa 4634m)ともその前山のモン・ボー(Mont-Bo 2556m)だともいわれる。ダ・ヴィンチはこの登山で雪とかアラレの自然科学的記録を残している。だが、ここでもダ・ヴィンチは時代を遥かに抜く孤立的先駆者で、ここから直接の影響は生まれない。人が山に挑むためには、この後に続く

 

宗教改革を待たねばならなかった。

 

 

 

 ルネサンスは火薬、羅針盤、活版印刷の三大発明をもたらした。火薬(火砲)は中世封建騎士の活躍の場を奪って没落させた。羅針盤は大航海時代を到来させ、未知を求めてコロンブスのアメリカ大陸発見(1492)とマゼランの世界一周航海(1519~22年)につながった。 グーテンベルグの活版印刷は、聖書の大量出版を可能にして、マルチン・ルターの宗教改革を後押しした。宗教改革によるプロテスタンティズムの勃興によって、キリスト教会全体の権威が落ちたことの他に、合理主義をふりかざして、迷信的あるいは神秘的要素を宗教から消し去った。 

 

*宗教改革:Reformation。ルターを中心に始まったプロテスタントによる16世紀ヨーロッパの宗教的、政治的変革運動。カトリックの世俗主義を批判し、「信仰」のみを旗印として封建的抑圧からの解放を目指した。民衆を巻き込んだ社会変革運動に発展した。

 

*プロテスタンティズム:世俗の職業に従事することが神から与えられたこの地上における使命であるとするプロテスタンティズムの禁欲的職業倫理は、ドイツの思想家マックス=ウェーバーによって資本主義の精神と結びつけて説明され、資本主義が躍進するベースとなった。

 

 宗教改革は山の守護者であった聖母や悪魔を山から追い払って山を物質化し、近代的登山が生まれる地盤を作ったのである。

 

 

 

 4.アルプス黄金時代

 

フランス革命が起こる直前の1786年、まずスイス人のド・ソシュール(科学者)らによってアルプスの最高峰モン・ブラン(Mt.Blane 4810m)がおとされる。これがアルピニズム登山の皮切りである。

 

 同じ頃、ジェームズ・ワットの蒸気機関の発明によって、イギリスでは産業革命が起こっていた。産業革命は工業生産を飛躍的に増大させ、19世紀イギリスは世界の工場となって、経済的に豊かな市民階級が誕生してくる。

 

*産業革命:Industrial Revolution 1万年前の農業革命に次ぐ人類史上の大きな変革で、資本主義の進展を促した。それまで人力による生産であったものが、動力(蒸気機関)の利用によって、大量生産が可能となった。

 

 彼らイギリスの富裕階級(ジェントリ)は海を渡ってアルプスを訪れ、アルプス探検登山の黄金時代が幕開く。未踏峰の多くが地元ガイドを伴ったイギリス人紳士によって登られ、1865年のウィンパーのマッターホルン(Matterhorn 4478m)登頂をもってその幕を閉じるのである。

 

 ここに、より未知を求め、より高く、より困難を目指すスポーツアルピニズムが確立した。

 

1857年に世界最初のアルパインクラブ(AC)がイギリスに誕生する。続く10年の間に全てのアルプス国(スイス、ドイツ、オーストリア、イタリア、フランス)に登山団体(各国AC)が設立された。

 

 アルプスの主要な峯々と岩壁を登りつくしたヨーロッパのアルピニストたちは、20世紀に入りヒマラヤを目指す。2つの世界大戦をはさんで1953529日にイギリス・ハント隊はついに世界最高峰エヴェレスト(8848m)の初登頂を8回目の挑戦で達成する。ちょうどエリザベス女王戴冠式の前の晩だった。これほど大きな贈り物はなかったろう。

 

 

 

 5.日本登山史

 

日本ではいつから登山がはじまったのだろう。

 

 平安時代の『竹取物語』には、かぐや姫を慕う帝が勅使に命じて、天にもっとも近い富士山(3776m)に登らせ、霊薬を燃やさせたとある。

 

 当時富士山は、活火山で、噴煙をあげていたのでこういう表現になったのだろうか。実際、帝の勅使が富士山に登ったかどうか、これは物語の世界である。

 

 時代が下って、江戸時代には富士講が流行し、江戸中期には吉田口だけで、年間8000人もの善男善女が富士山に登ったという。

 

 日本のマッターホルン・槍ヶ岳(3180m)へは播隆上人が1828年に初登頂を果たした。頂上の岩を集めて小さな祠を作り、かつぎあげた三体の仏像を安置した。

 

 明治40年(1907年)には北アルプスの雄・剣岳(2999m)がおとされた。参謀本部陸地測量部柴崎芳太郎は、地元の宇治長次郎を案内人として、長次郎雪渓を詰めて剱岳の頂上に達した。頂上に測量用の三角点を建てるためである。驚いたことに、頂上で古びた錫杖の頭と槍の穂を発見した。この難峰をいつのころかわからないが、すでに行者が修行のために登っていたのである。

 

 しかしこれらの登山はいずれも宗教がらみであって、スポーツとしての登山ではない。スポーツとしてのアルピニズムは、イギリス人宣教師ウエストンによって、明治20年代に日本に持ち込まれた。ウエストンは日本アルプスの開拓者であり、探究者であった。

 

ウエストンは明治24年(1891年)徳本峠を越えて槍ヶ岳に登った。上高地で「最適任の山案内人」上条嘉門次と出会い、以降嘉門次を案内人として数々の山行を行う。それは『日本アルプス 登山と探検』としてまとめられ、1896年にロンドンで出版された。

 

明治時代、日本の隠れた美しさを掘り出し、広く世界に紹介した者として、ヘボン博士やラフカディオ・ハーンが有名だが、日本の山の美しさを世界に発信した業績において、ウエストンは彼らと肩を並べるべき存在である。(これを感謝して、日本では毎年5月、上高地でウエストン祭が催される。)

 

 日本の草創期の登山家小島烏水らは、このウエストンのすすめを受けて、1905年(明治38年)日本山岳会(JAC)を設立する。世界最初のアルパインクラブ(AC)に遅れること48年である。

 

JACの創立から数年のうちに、すなわち明治末から大正初期(1910年代)にかけて北大、東大(一高)、京大(三高)、神戸大(神戸高商)、慶応、学習院等の各大学で山岳部が創設される。(神戸大は1915年に山岳部創設。2015年に100周年を迎える。)

 

昭和30年代までは、日本の登山界は大学山岳部が中心だった。JACも大学山岳部OBが大勢を占めていた。

 

 

 

6.最高のアルピニスト・チャカさん

 

 昭和32年高校2年の夏、僕はPapa(Jinkazu)と北アルプスの白馬岳(2932m)に登った。

 

大雪渓とお花畑とガスの中から現れた大岩峰…。なんという美しい世界か、大学に入ったならば、是非とも世界中の山々を巡りたいものと、そのとき心に決めたんだ。

 

君のOpaが神戸大学山岳部に入ったのは、昭和34年(1959年)である。

 

Oa[:Pa] Grosspapa おじいちゃん

 

山岳部長は社会心理学者の高木正孝先生だった。先生のことを皆、敬愛をこめてチャカさんと呼んだ。(先生自身親しい人には「チャカより」と署名していた。)

 

チャカさんは戦前、東大を卒業して心理学研究のためベルリン大学へ留学する。戦中戦後の滞欧9年間、寸暇を惜しんでヨーロッパアルプスを登攀し、日本人でただ一人アルプスガイド資格を取った。

 

この稀有の経験を買われて戦後の国家的事業であったマナスル登山隊の隊員に選ばれる。偵察隊(昭和27年)と第1次隊(昭和28年)の登攀隊長を務め、頂上に至るルートを見つけたことは有名である。このルートを使って昭和31年槇有恒隊がマナスル(8163m)初登頂に成功する。

 

Opaが大学に入学する1年前(昭和33年)、チャカさんは日本・チリ国際合同隊を率いて、南米パタゴニアのアレナレス峰(3437m)初登頂に成功している。その記録は岩波新書『パタゴニア探検記』として出版され、岩波書店のロングセラーとなった。

 

 Opaはアルピニストとして世界第一級の登山家に指導を受けることになったのだよ。ところが、Opaが大学4年生の昭和37年、チャカさんは南太平洋学術調査隊の一員としてポリネシアへ出かけ、86日の暁暗、マルケサス諸島ファッヒバ島沖合のスクーナー船上から忽然と消息を絶った。原因は今もってわからない。49年の生涯だった。

 

チャカさんは『パタゴニア探検記』の冒頭にこう記している。

 

「未知を求めた先覚者たち、開拓者たちの運命は悲劇的だ。だが、その人たちこそ結局は人類の進歩に貢献することが大きかったのだ。」と。

 

チャカさん自身にも悲劇的な最期が待っていたが、悲劇は勇者にしか起こらない。

 

 

 

7.「魔神的」なものへの憧れ

 

チャカさんのドイツ留学時代の愛読書にO’sker Erich Meyer ”TAT UND TRAUM”(『行為と夢想』)という本がある。チャカさんは「登山の動機には『魔神的なもの』への衝動がある。」といっていたが、この本にはそれを考えさせる記述がある。

 

君はドイツ語の方が得意だからドイツ語の原文も載せておく。それは以下の散文詩で始まる。

 

 

 

 

行為と夢想

 

「山の情熱を胸に宿した一人の若者が、切り立った岩壁で夜を迎えた。ぱくっと口をあける氷河のずっと上の、せまい岩棚で彼は朝を待った。ぐっすり眠りこんでも落ちないようにザイルを岩にかけた。

 

まどろむうちに、山の奥から、にぶい声が彼の耳元に聞こえた。「わしは生と死をにぎっている。お前は高山で若い命を落としたいのか? それとも都会の巷で長い一生を送りたいか?」

 

(魔神ノ声デハナイカ? 筆者注)

 

若者は夢うつつに答えた。「ぼくは高い山での生活を選ぶ。たとえそのため、つかの間に命が消えようと。」

 

その時から彼の生活は山々のものになった。ザイルとピッケルが彼の家具だった。暗い森、岩、万年雪が彼の家、頂きの輝やきは彼のものだった。

 

歳月が流れて、羊飼いが静かな(カー)()で彼を見つけた。夏の陽が、雪崩た雪の堆積(デブリ)から、ためらいがちに死者の体を解放したのだ。――

 

そしてもうひとり、流行にさそわれてふらふらと山へ入った別な男が、花を探して道に迷ったことがわかった。谷へ降る道を夜がまたも吹き消したのだ。彼は同じ闇の声をきいて、思わず知らずこたえたのだった。「ぼくは町の片隅で人生を送りたい。山はもうごめんだ。」

 

彼も幸せだったにちがいない。長い生をおえて、うやうやしく墓場に運ばれたのだから。――

 

ところで、君が生きて山を愛する人ならば、もうひとりの方を軽蔑してはならない。またきみが、一度も高みを憧れたことがないならば、その死者を尊敬したまえ。たとえきみたちがおたがいに理解しあわなくとも、その死者にとって、山での死が生であったからだ。

 

 

 

この詩には「魔神的」なものへのあこがれがある。誰も行ったことのないところ、まだ誰も登ったことのない高みへ登りたい。わからないこと、誰も知らないことを知りたい。

 

より困難なもの、より未知なものを求めるこの欲求は、「魔神的」であると共に、高度の自己実現欲求である。それは危険を伴う冒険であり、命を落とすことにもなりかねないが、かけがえのない一回きりの人生ではないか。緊張感をもって、よりよき人生を生きたいと希求する人間にとって、この欲求を押しとどめることは耐えがたい。この欲求は犠牲も大きいというのに、金もうけや地位や権力とはあまり関係がない。少なくともそれを目的とする行為ではない。むしろ、行為そのものに意味がある。

 

チャカさんはどうだったのだろう。老いさらばえ、長い長い生を終えて、うやうやしく墓場へと運ばれるチャカさんを、僕たちは想像できるだろうか。(今年2013年は生誕100周年。) 49年の颯爽とした目もくらむようなハイスピードの人生、これはチャカさんにとっては必然ではなかったか。これはこれで見事に完結した人生ではないか。チャカさんには魔神的なものへの憧れがあった。

 

すぐれた登山家の死、それは時に人生の完成を意味する。それは幻滅からの解放であり、自己欺瞞の克服である。美しい余韻をもつ完璧な人生だ。

 

 

 

8.クーラカンリの英雄 富士山に逝く

 

2012122日、僕は東京の出張先で1本の電話を受けた。それは到底受け入れられない内容のものだった。

 

氷ノ山千本杉での高木正孝先生(1961年) シェルピ・カンリ頂上(7380m)に立つ緒方隊員

 

 

 

「緒方俊治が昨日、富士山7合目で滑落した。吉田大沢で遺体を確認した。」

 

121日、緒方は山岳部後輩の中川勝八郎と富士山登頂を果たし、吉田ルートの夏道を五合目佐藤小屋に向かって下山中だった。風は強いが空は晴れていた。7合目の雪と氷の急斜面を中川トップで、下降中の1430分、事故は起きた。

 

信じられないことだが緒方がスリップした。直下にいた中川はとっさに自分の体をぶつ

 

けて緒方を止めようとしたが、はね飛ばされ岩にあたって自身は停止した。緒方は止まらず吉田大沢側に飛んで、姿が見えなくなった。中川はただちに大沢下部へ下降し、雪上で即死状態の緒方を発見した。

 

遺体は翌122日早朝、警察のヘリコプターで収容された。

 

65才になったら、仕事を引退して、好きな山登りを思いっきりやる。」と嬉しそうに話 

 

していた緒方。その1年前の64年の生涯であった。

 

僕はその日の夕刻、新幹線で富士山麓を通過した。富士山はなにごともなかったかのようにからりと澄み切った天空に、おそろしいほどの美しさでそびえていた。

 

緒方は富士山積雪期登山20回の氷雪登山技術のプロフェッショナルである。次の目標を東チベットのカンリガルポ山群最高峰(6882mの未踏峰)に定めていた。あの慎重にも慎重だったクーラカンリの英雄に何が起こったのか。

 

 

 

緒方にとって、魔神的なものへの憧れは運命的だった。彼には山での死は生であった。

 

なぜ山に登るのか。答は簡単だ。山には死があり、したがって生がある。下界には多くの場合、それがない。(つづく)2013.331