第23話

ヨーロッパの孫に聞かせる

 

日本と世界の歴史

 

第23話 日本人はどこから来たの

 

 岡市敏治

 

 

 

ことばで物語をつくる言語能力を身につけたホモ・サピエンスは、6万年前アフリカを出発、地球上に拡散する。東南アジアで航海術をみがいたヒマラヤ南回りの一行と、シベリアで寒冷地適応した北回りのサピエンスが、38千年前ユーラシア大陸の東端で出会った。海を渡って日本列島に到達した南と北の勇者たちこそ、私たちの祖先である。

 

1.ホモ・サピエンスのGreat Journey

 

私たち人類の祖先は、6万年前生誕の地アフリカを出発した。ホモ・サピエンスの「Out of AfricaGreat Journeyの始まりだ。紅海の南端をわたってアラビア半島に入ったご先祖たちは西アジアに達し、ここで3方向に拡散する。

 

1DNAと考古学的証拠によるホモ・サピエンスのGreat Journey

 

 

I.     インドから東南アジアに移動した一行は、47000年前にオーストラリアに到達し、アボリジニの先祖となる。

 

II.    ヒマラヤの北側から48000年前シベリアに向かったホモ・サピエンスは、ベーリング海峡をわたって15000年前、南アメリカ南端のパタゴニアに到達した。

 

III.   4万年前、西アジアからヨーロッパ大陸に向かった君のパパのご先祖たちは、古くから住んでいたネアンデルタール人をその故郷から徐々に追い出しはじめる。

 

 

ⅠとⅡでは、海が行く手を阻む。どうして海を渡ったのだろう。今から2万年前までは地球は氷河期で、雨水は氷河となって陸上にとどまり、海水面は現在より100m低かった。ご先祖たちは島づたい、陸づたいにオーストラリアとアメリカ大陸に到達できたのだ。

 

 ところで、ポリネシア(南大平洋)の島々にも何千年前もの古代から人類が住みついている。島から島へ1000キロ以上離れているのもザラである。竹や木の古代(いかだ)で、どうして遠洋航海ができたのだろう。イースターにいたっては、最も近い有人島まで2000㎞で、文字通り絶海の孤島である。そこにはモアイの巨像が900体以上も突っ立ったり、転んだりしていた。これはインカ帝国の巨石文化が海を渡ってイースター島に伝えられたのではないか。ポリネシアの島々には、南アメリカ原産のサツマイモも栽培されていた。

 

 ノルウェーの若き人類学者ヘイエルダール(19142002)は海図を見て考え込んだ。フンボルト海流(図2)が南米ペルー沖からポリネシアまで流れている。ペルーのインディオたちは筏でこの海流に乗り、東から吹く貿易風に帆をはらませて、ポリネシアの島々へ、インカ帝国の巨石文化とサツマイモを伝えたのだ。

 

2:コンチキ号とフンボルト海流

 

 

 

そう確信したヘイエルダールはこれを論文にして発表した。しかし、南アメリカから太平洋を筏で漂流して、8000キロ先のポリネシアの島々に到達することなど全く荒唐無稽(こうとうむけい)の妄想であると学会はヘイエルダールの学説を黙殺した。それに、丸太(バルサ材)の筏は水を吸って航海半ばで沈んでしまう。沈まなくても丸太をゆわえている(つる)の紐は風浪にこすられて切れてしまい、筏は洋上でバラバラになってしまうだろうと航海の専門家は忠告した。

 

 しかし、ヘイエルダールに微塵(みじん)のとまどいや尻込みもなかった。古代インカの勇者たちは海図も羅針盤もなしに、星と太陽だけを頼りに西へ西へと太平洋を漂流し、南太平洋の島々に巨石文化を伝えたのだ。この勇者たちの歴史真実を証明するために、学者の良心にかけても古代航海を再現させてみせる。ヘイエルダールは固くそう決心した。

 

 1947年春、33歳のヘイエルダールをリーダーとする6人の冒険家が集まった。船乗り経験者は一人もいない。いずれもスカンジナビア半島出身の若者たちで、かつてのバイキングの末裔である。彼らは周到な準備のもと、インカ時代の遺物の筏を組み立ててペルーのカヤオ港に浮かべ、コンチキ号(図2)と命名した。コンチキとは1500年前、ペルーから西の海に姿を消してポリネシアに現れたという太陽神の名である。

 

 

 

2.コンチキ号の冒険

 

 

 

 6人の冒険家を乗せたコンチキ号は、1947428日ペルーのカヤオ港を出港する。沖に出て、フンボルト海流に乗って間もなく、猛烈な嵐に襲われる。次々に突進してくるめちゃくちゃな大波にコンチキ号は木の葉のように翻弄(ほんろう)され、筏の上に組み立てた竹小屋は何度も大波をかぶって寝袋は水浸しになった。3日間の嵐が去ると、海は一変しておだやかになり、危地を脱した。海流に乗ってゆっくり、ゆっくり、西へ西へと流される単調な日々が限りなく続いた。風が吹くと帆走した。筏の上には毎朝20匹以上のトビウオが飛び込んできて、食材には困らない。トビウオをエサにマグロやサメを釣り上げた。水も雨水で調達できた。ウミガメやイルカやクジラの群れもやってくる。全長15mのクジラザメが筏の下にもぐりこんだときは(きも)をつぶした。

 

 行けども行けども、島影も行き交う船も全くなく、空と大洋が果てしなくひろがっていた。コンチキ号は西へ西へと漂流する。バルサ材の筏は、沈みもせず、バラバラにもならず、ついに西の水平線上に緑の島影を望見、82日ポリネシア・トウアモトウ諸島のラロイア環礁に漂着する。出港から97日たっていた。航海した距離は約8000㎞。ヘイエルダールと5人の仲間たちは、巨大な意志と命がけの度胸で古代「人類大移動」の仮説を実証した。ヘイエルダールはその著『コンチキ号探検記』[1]に次のように述べている。

 

「コンチキ号の探検は、海洋の本来の姿にわたしの目を開かせてくれた。つまり、海とは隔てるものではなく、運び伝えるものなのである。初めて海に浮かぶ舟が作られて以来、海は主要な交易路であった。人類が未開の密林に道を切り開くずっと前から、海は人類にとって重要な大動脈だったのである。」

 

 

 

3.ホモ・サピエンス アフリカに誕生

 

 

 

 1000万年前のアフリカで異変が起こる。類人猿が生息場所としていた熱帯雨林が乾燥化により縮小し始めたのだ。もともとアフリカでは熱帯の森林がその全土をおおい尽くすほどに広がっていた。サハラ砂漠も、熱帯の森林におおわれていた。その森林に類人猿は生息していたのだった。ところが、アフリカ北部は特に乾燥化がひどくなって、ついに砂漠となってしまった。森林で生活する類人猿にとっては、生息範囲が狭められ、とても窮屈な生活を送らねばならない。それでも、ゴリラとチンパンジーは森林にとどまって生活を続けた。

 

 狭くなった森林から、サバンナへと進出を決意した類人猿のグループがいた。樹上ではライオンなどの猛獣から身を守ることができるが、サバンナのような開けた大地では常に危険にさらされる。それにサバンナは森林ほど食べ物が豊富でないので、食べ物を探して開けた大地を歩き回らねばならず、二足歩行をするようになった。そして道具を使って身を守る工夫をした。700万年前のことである。このサバンナに進出した直立二足歩行の類人猿こそ、人類の祖先だった。 

 



[1] 河出文庫版ヘイエルダール著『コンチキ号探検記』。これを要約した偕成社文庫『コンチキ号漂流記』900円。青少年向けに編集した後者の方が読みやすい。『コンチキ号探検記』は、「20世紀の名著」として世界中の人々に読まれている。

 

3:猿人からホモ・サピエンスへ

 

4:人類史年表

 

 20万年前、現在の私たちの祖先であるホモ・サピエンスがアフリカに誕生する。サピエンスは言語をもっていた。社会的種にとって、自分の考えを言葉にして伝えられる能力ほど重要なものはない。言語は集団を結束させ、知識や技能を伝達できる。

 

 イスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリはいう。

 

「およそ7万年前、サピエンスの遺伝子に突然変異が起こって、まったく新しい種類の言語を使って意思疎通することが可能となった。認知能力(学習、記憶、意思疎通の能力)に革命が起こったのである。」そしてまだ見ぬ世界に対して好奇心を持つようになった。

 

   この言語が持つ比類なき特徴とは、まったく存在しないものについての情報を伝達する能力だ。見たことも触れたことも、匂いを嗅いだこともないことについて話す能力をサピエンスは身に着けた。虚構、すなわち架空の事物について語る能力である。サピエンスは、伝説や神話として物語をつくることができるようになった。この物語をつくる能力こそがサピエンスを万物の支配者に仕立てた。

 

 サルが相手では「死後、サルの天国で、いくらでもバナナが食べられる」と請け合ったところで、そのサルが持っているバナナを譲ってもらえないが、サピエンスは虚構の物語をつくる能力のおかげで、そのことを可能にした。天地創造の物語や共通の神話は、大勢で柔軟に協力するという空前の能力をサピエンスに与えた。

 

「アリやチンパンジーも大勢でいっしょに動けるが、少数のごく親密な個体とでなければ駄目だ。ところが、サピエンスは無数の赤の他人と、著しく柔軟な形で協力できる。だからこそ、サピエンスは世界を支配し、アリは私たちの残り物を食べ、チンパンジーは動物園に閉じ込められているのだ。」(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』)

 

 

 

4.ホモ・サピエンス Out of Africa

 

 

 

この言語能力を獲得したホモ・サピエンスは、6万年前アフリカを出発する。「Out of Africa」だ。もっぱらアフリカを舞台として生きてきた人類は、その舞台をユーラシア大陸へと拡大する。その動きは、長大な人類史を一瞬にして劇的に変えることになった。

 

 アフリカを出発したホモ・サピエンスが、アラビア半島から西アジアに至り、そこから3方向に別れて拡散していったことは先に述べた。君のパパのご先祖は4万年前、ここからヨーロッパに向かった。ヨーロッパには、旧人のネアンデルタール人が40万年前から住んでいた。

 

「ネアンデルタール人はたいてい単独で、あるいは小さな集団で狩りをした。一方サピエンスは、何十人もの協力、ことによると異なる生活集団間の協力にさえ頼る技術を開発した。なかでもとりわけ効果的なのは、野生の馬などの動物を群れごとそっくり取り囲み、それから狭い峡谷に追い込むという手法で、こうすれば楽々ひとまとめに、獲物を殺すことができた。万次計画通りにいけば、複数の集団がある日の午後の間協力するだけで、何トンもの肉と脂肪と皮を収穫し、大宴会を開いて肉をたいらげたり、後に食料とするために乾燥させたり、燻製(くんせい)にしたり、(シベリアでは)凍らせたりした。毎年そうした方法で動物が群れごと、殺戮された跡を、考古学者はいくつも発見してきた。人工的な罠や殺戮の場を設けるために、柵や障害物が築かれている遺跡さえある。」(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』)

 

 ネアンデルタール人は自分たちの昔ながらの猟場が、サピエンスの支配する屠殺場に代わるのを目にして、愉快ではなかったろう。たが、ネアンデルタール人はサピエンスの前では野生の馬とたいして変わらず、勝ち目がなかった。1万年後には、ネアンデルタール人は地球上から一人残らず姿を消して、絶滅した。

 

 

 

5.ホモ・サピエンス シベリアで寒冷地適応

 

 

 

 48000年前、ヒマラヤの北側からシベリアに向かったホモ・サピエンスの一行は、アフリカ起源の先祖たちが未経験の厳しい寒さに直面する。シベリアには、タイガと呼ばれる針葉樹林と、その北方にはツンドラ・ステップが広がっていた。そこにはウマ、トナカイ、ヘラジカ、ジャコウウシ、マンモスなどの大型動物が闊歩(かっぽ)しており、魅力的な狩猟場であった。彼らは厳しい寒冷地で生き抜くために、機能的な住居と火を使って暖を取る技術、そして、長く暗く食べ物が不足する冬を乗り切るための食料保存技術で寒冷地の環境に適応した。なかでも、骨製縫い針による衣服の裁縫は生存率を高めた。「縫い針」は人類史上の大発明の一つに数えられるだろう。ホモ・サピエンスがシベリアに登場して1万年もたたないうちに、大型動物の多くが著しく数を減らした。これは地球規模の気候変動(寒冷化)も原因したであろう。彼らは2万年前次なる大型動物を求め、氷期で海水面が低下し陸橋化していたベーリング海峡を越え、アメリカ大陸へと渡るのである。

 

 

 

6.ホモ・サピエンス カヌー航海術で太平洋の島に拡散

 

 

 

 人類最後の拡散は、太平洋の島々へと渡ることだった。東南アジア島嶼部(とうしょぶ)の東、オセアニア[1]の海洋地域には数万にものぼる島々が点在している。この地域のほぼすべての島に祖先を同じくする人々が住んでおり、共通する言語と文化が根付いていた。18世紀にマゼラン海峡から太平洋を航海して、南太平洋の島々に到達したイギリスの探検家キャプテン・クック(172879)は、その共通性に驚愕した。この同系の言語を持つ人々をオーストロネシア語族[2]と呼んでいる。その足跡については言語や遺物、DNAなど多彩なアプローチで研究が進められてきた。オーストロネシア人の原郷は台湾で、考古学的な証拠を踏まえた「出台湾」モデルが定説となりつつある。6000年前、中国南部に住んでいた農耕民族が台湾へ移住し、以降南下をつづけ、3000年前にはポリネシアへと移住を始めた。長い時間をかけて各島へ到達、定住した。およそ、1500年前には、現在に近い分布が完成した。このオーストロネシア語族の拡散をもって、地球上の人類の拡散は終わりを迎えた。

 

 これは過去6000年間に起こった人類史上最大の人口移動であった。人類は太平洋を東進し、もっとも孤絶した島々に住みついて、ポリネシア人となった。人々は新石器時代[3]のもっとも卓越した船乗りであった。今日においてオーストロネシア語を母語とする範囲はイースター島からアフリカ東岸のマナガスカル島までの地表の半分以上をカバーする地域に広がっている。この大航海を可能としたのは、風上への航走能力を持つアウトリガー・カヌー(図5)で、ポリネシア人が考案した。このすぐれた伝統航海術は、個々の島周辺で蓄積された知識と経験に基づいている。

 

島の若い勇敢な冒険家が未知の島を求めて、星と太陽と風と潮流を頼りにカヌーで航海に乗り出す。新しい島を発見して帰島した若者は、勇者として島の伝説となったろう。次いで、栽培植物(タロイモ、パンノキ等の苗木)や家畜(ニワトリ、ブタ、イヌの3点セット)を積み込んだ男女のグループがアウトリガー・カヌーで海上を遠く旅し、ハワイやイースター島にまで移り住んでいったのだ。太平洋という未知の世界に()ぎ出した偉大な航海者たちは現代の私たちに勇気や希望を与えてくれるね。

 

さて、冒頭のヘイエルダールのコンチキ号探検の話にもどる。ヘイエルダールの探検航海の成功にもかかわらず、この航海から70年たち、この間のポリネシアでの考古学調査や最近のDNA解析[4]技術の革新により、ヘイエルダールの南米からのポリネシア人移住説に対しては、否定的な見解が優勢である。しかし、自説を実証するため、命がけの冒険を敢行したヘイエルダールの勇気と情熱は、ポリネシア人東アジア起源説を主張する学者たちからもRespectの対象となっているのだよ。

 

 

 

7.ホモ・サピエンス 日本列島を目指す

 

 

 

 君のママのご先祖はいったいどうやって日本に到達したのだろう。なにしろ日本はユーラシア大陸の東のはずれの太平洋上の孤島だ。アフリカから1万キロ以上離れているし、途中に砂漠やヒマラヤ山脈がある。なんとかそこを歩き通して、ユーラシア東端の海岸まで到達したとしても、日本列島ははるか海の彼方(かなた)だ。どうして海を渡ったのだろう。

 

 6万年前、アフリカを出発したホモ・サピエンスは、紅海の南端を渡ってアラビア半島から西アジアに達した。ここでパパのご先祖たちやヒマラヤ北回りの一行と別れ、インドを経て東南アジアに至る。およそ5万年前だ。当時は氷河期で海水面は現在より100m低かったので、ジャワ島、ボルネオ島はマレー半島と連結して、スンダランドと呼ばれる広大な陸塊を形成していた。(図6

 



[1] オセアニア:オーストラリア大陸、ニュージーランド、ニューギニアのほか南西太平洋の島々を含む地域。

[2] オーストロネシア語族:北は台湾・ハワイから南はニュージーランドまで、西はマダガスカル島から東はイースター島まで非常に広く分布している。その広さにもかかわらず、言語間の類似性がきわめて高く、語族として確立している。母音の強い音韻体系は、日本語と類似性が高い。

[3] 新石器時代:磨製石器や土器を使う。農耕・牧畜がはじまった1万年以降をいうが、地域差が大きい。定住し、農耕などの生産経済により生活は安定、文化が進む。日本の縄文時代もこれに属する。

[4] DNA解析:DNAには私たち自身の生物としての歴史が書き込まれている。これを研究する分子生物学の近年の爆発的発展により、人間の全ゲノム(生物のDNAの全遺伝情報)が解析された。古人骨に残るDNAの分析により、ホモ・サピエンスのアフリカ起源説も特定できた。

 

5:アウトリガー・カヌー

6:スンダランドとホモ・サピエンス遺跡地図(単位:千年前)

 スンダランドで、オーストラリア組と分かれたご先祖は東アジアを北上し、やがて台湾に到達した。(この当時、台湾はユーラシア大陸の一部だった。図7 台湾から東の海を望見すると、うっすらと小さい島が見える。琉球列島最南端の与那国島だ。日本列島南のはずれの琉球列島には、3万年前の遺跡がたくさん発掘されているので、人類がこの海を渡って3万年前、与那国島に到達していたことは疑いようがない。しかし、台湾と与那国島との間(約100㎞)には世界最大規模の黒潮(秒速2mの急流)が渦を巻いて北流していた。(図7 3万年前の航海技術で、どうしてこの黒潮を乗り切ったのだろう。

 

 人類進化学者の海部陽介は、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」を立ち上げる。2016年草束舟で航海に挑むが、船体が重く、黒潮に流された。翌年試みた竹筏舟も黒潮に流され又も失敗。「草と竹は舟でなく漂流物だった」と海部は振り返る。2019年、これが最後と決めたくりぬき丸木舟で、台湾から与那国島への航海に、ついに成功するのである。漕ぎ手は若い女性1人を含む5人だった。これはヘイエルダールの日本版だね。コンチキ号と違うところは、強大な海流を横切らなければならないこと。流されるままだと、第22話の大黒屋光太夫のように、黒潮に乗ってアリューシャン列島まで漂流していくよ。

 

ところで、人類は3万年前、困難極まる黒潮横断のこの航海を成し遂げていたのである。旧石器時代[1]に人類が達成した最も困難な航海であったろう。琉球諸島はそれまで人類が立ち入ったことのない無人の島だったが、海への本格進出を始めたホモ・サピエンスによって、始祖の地となった。彼らは二度と戻れぬ覚悟で、大海に漕ぎ出た勇士たちだ。その勇士の中に無論、若い女性も加わっていた。彼らは孤独ではなかったろう。日本列島というユーラシア大陸最東端の最後のフロンティアは、未知を求める勇者たちによって切り拓かれたのである。そして、その勇者たちこそ、まぎれもなく私たちの祖先である。

 



[1] 旧石器時代:猿人時代の330万年前から農耕の始まる1万年前まで。打ち割った石器を使って、移動しながら、狩猟・漁労・採集生活をしていた。

 

 

8.ユーラシア大陸から「最初の日本列島人」

 

 

 

 日本列島は氷河時代に厚い氷におおわれることなく動植物が繁殖していたので、寒冷化した大陸から、北海道へとつながっていた樺太(サハリン)を通って、ナウマンゾウ、オオツノジカ、マンモス、ヘラジカ、バイソンなどが日本列島に渡ってきた。これら大型動物を追って25000年前ごろ、北東アジアから樺太を経て日本列島にやってきた集団がいた。彼らがアイヌ民族の祖先であろう。

 

 日本列島への一番乗りは、台湾ルートでも北海道ルートでもなく、対馬ルートによる北東アジア人であった。38000年前のことである。(図7 海面が80m低かった当時も対馬は島であり、朝鮮半島と日本列島側とは、それぞれ40kmの海峡が存在していた。つまり、彼らは海を越えなくてはならなかった。

 

 日本列島の最初の土を踏んだ人類は、陸のハンターでありながら、航海者でもあったのだ。そして、この対馬ルートの人々こそ、最初の日本列島人である。この「最初の日本列島人」のルーツはどこなのだろう。海部陽介によると、彼らの文化には2つの独自性があった。

 

7:ホモ・サピエンスの日本移入ルート

 

①北方系文化の技術ともいえる石刃技法

 

②南方ルート由来の海洋航海術

 

 

この2つの事実から推測できることは、48000年前、西アジアでヒマラヤの北と南の二手に別れたホモ・サピエンスは、その1万年後に北東アジアで再会したということだ。これは地球規模の壮大な出会いではないか。

 

「対馬ルートを越え、初めて日本列島の土を踏んだ人々は、そのような北と南の出会いを経験した人々だったに違いない。日本列島の独特な縄文文化が生まれたのも、この2つの異質な文化の相互作用の結果だったのではないか。」(海部陽介『日本人はどこから来たのか?』)

 

 

 ユーラシア大陸から台湾ルート、対馬ルート、北海道ルートの3方向より日本列島に行き着いたホモ・サピエンスは、故郷のアフリカ大陸から遠く離れたこの到達点で、旧石器時代を過ごした。1万年前氷河期が終わり、氷が解け、海水面が上昇して日本の地形は今と同じ海上の列島となった。南から日本海に暖流(対馬海流)が流れ込んでくる。暖流から発生する大量の水蒸気を、冬になるとシベリアの寒気団が雪にかえて日本列島に世界有数の豪雪をもたらす。雪は水の貯蔵庫で、列島に豊かな森林を育んだ。

 

太平洋側は黒潮(暖流)が北流しており、列島は温帯の落葉広葉樹林(ナラ、ブナなど)におおわれた。ことに東日本は豊かな木の実やサケなどの川魚、カツオ、貝などの海の幸、イノシシ、シカといった山の幸に恵まれた。日本列島は200年に1度は大地震と大津波に襲われ、その度に忍従を強いられてきたが、森と石清水、海の幸に囲まれ、平和で豊かな生活を送ることができた。世界最古の土器は、8000年前のメソポタミアの壺とされてきたが、近年青森県でさらに古いものが見つかった。16500年前の縄文土器だ。これで煮炊きをしていた。グルメの最先端を切っていたのが日本列島だった。

 

 以来、1万年以上縄文時代[1]がつづく。青森県にある三内丸山遺跡を見た時は驚いた。6本の巨木を柱とする巨大建築物の跡や数多くの竪穴住居跡のある40haもの広大な巨大集落遺跡である。5000年前、500人規模の人々が、ここで1500年間暮らしていた。

 

 

 

9.日本人はヒマラヤ北回りと南回りの勇者の末裔

 

 

 

 今から3000年前に、長江流域の江南を源流とする水田稲作が大陸から渡来人によって日本列島に伝えられた。弥生時代の始まりである。かなりの渡来人が東シナ海をわたり、あるいは朝鮮半島を経て、やってきたと考えられる。弥生の渡来人たちは稲作や鉄、機織の技術とともに言葉も伝えたはずだが、中国語や朝鮮語の痕跡が古代日本語(やまとことば)に全く見つかっていない。縄文人口は25万人程度と推測されているが、丸木舟や筏といった当時の航海技術で大陸から何万人もの渡来人がやってきたとは考えにくい。

 

 「渡来人の移動は大きな要素ではない。渡来人との多少の混血はあったにせよ、縄文人が自ら弥生人に変貌していったのだ。」というのが、著名な考古学者である金関恕(大阪府立弥生文化博物館元館長)の知見である。稲作の技術は渡来人からしっかり受け取るが、言葉は自らのやまとことば(原日本語)に翻訳してすませてしまったのだ。そして彼ら弥生人こそ、日本語を話す12700万人の、私たち日本人のまぎれもないご先祖さまである。

 

 

 

 ところで、日本語は世界中のどの語族にも属さない不思議の言語とされている。原日本語としてのやまとことばは、どのようにして成立したのだろう。日本語は中国語から文字(漢字)を借りているが、中国語とはまるで違い、遠い親戚語でさえない。大陸のどこにも日本語の祖先に当たるとされる言語は発見されていない。日本語は系統不明の孤立言語なのだ。日本語はどこから来たのだろう。

 

 日本語の文法はウラル・アルタイ語族とされているが、一方母音の強い音韻体系はオーストロネシア語族との類似性が高い。日本語のこのような特徴は先述したように、ヒマラヤ北回りでアルタイ山麓からシベリアを東進してきた言語集団と、南回りの南方系の言語集団が旧石器時代に日本列島で出会い、混交したからではないのか。やまとは言霊(ことだま)の国である。まとことば、つまり原日本語は日本列島という大陸から200㎞離れた閉鎖されてはいるが、豊かな縄文の森で1万年以上かけて独自に熟成されてきたのであろう。

 

 私たち日本人は、漢字(象形文字)とかな(表音文字)を使って、詩や小説や科学論文を自在に簡潔にしかも格調高く表現することができる。言語は民族の精神の核である。世界に例をみないすばらしい日本語を創造したご先祖に深く感謝しよう。

 

 私たちのご先祖さまは、遠いアフリカから困難な道程(みちのり)2万年以上かけて日本に到達した勇者であるとともに、文字通りHomo sapiens(「知性のある人」の意)であった。

 

 次回は『会計の世界史』だよ。会社をつくって「お金をもうける」話をしよう。

                             2019.11.1(つづく)



[1] 縄文時代:土器の現れた16500年前から弥生文化に移行する3000年前までの約13000年間。磨製石器に加え、土器が出現、これで煮沸調理していた。これは世界的に見て最も古い。