ヨーロッパの孫に聞かせる日本と世界の歴史

 

29話 インドの歴史

―多様性と混沌の世界―

岡市 敏治       

 

 ヒマラヤ山脈の恵みによって、世界最古の稲作と都市文明と世界宗教を生んだインドは、その豊かさ故に異民族の侵入にさらされた。カースト制度とヒンドゥー教、外来イスラム教に加えて、多言語…と混沌としたインドは、大航海時代となって、産業革命立国のイギリスに制圧される。過酷な植民地政策はインドを貧窮ひんきゅうの国にした。独立から75年人口14億、世界最大の民主主義国家となったインドは、「零ゼロの発見」の数学強国であり、IT産業で世界をリードする。

 

1.3つの大河が稲作とインダス文明と仏教を生んだ

 

 恐竜が地球上で繁栄していた1億年前、インド亜大陸は南極近くにあった。プレートテクトニクス[1]によって北上を始めたインド亜大陸は、5000万年前ユーラシア大陸にぶつかり、これにもぐりこんでヒマラヤ山脈とチベット高原を隆起させた。インド洋からの湿った季節風はヒマラヤの壁にぶつかって上昇気流となり、大量の雪と雨をヒマラヤにもたらした。それは3つの大河(①プラマプトラ川、②インダス川、③ガンジス川)となって、乾燥のインド亜大陸を豊かな大地に変えた。

 

[1] プレートテクトニクス:地球内部は高温のため、地殻の下のマントルはゆっくり対流している。マントルの上に乗った大陸プレート(インドプレート、ユーラシアプレート、アフリカプレートなどがある)は年5~10㎝ずつ、何千万年もかけて海上を進み、他のプレートとぶつかって、山脈を形成する。

図1:稲作の起源地(佐々木高明『日本史誕生』集英社)

 ①プラマプトラ川は、ヒマラヤ山脈北側のチベット高原を東へ東へと流れ、ヒマラヤの東端で180度西に向きを変え、ベンガル湾に至る。その下流域のアッサムで8000年前、史上 初の稲作が始まった。それは長江を経て3000年前、縄文時代の日本に伝わる。ここから弥生時代がスタートした。

 

 ヒマラヤの西端からは、②インダス川がアラビア海に注ぐ。この流域の肥沃な扇状地(ハラッパー、モヘンジョダロ)で4300年前、世界4大文明の一つインダス文明が開花した。同時代の文明に見られない都市計画のもと建設された整然とした都市遺跡は、他の文明を圧倒する規模をもっていた。

 

 ③ガンジス川は、インド北部を東流し、豊穣の流域は、今もインド人口の3分の1を養っている。この川はインドの川の中で最も重要で、かつ最も神聖な川として、インダス川にとってかわった。一生のうちで、ガンジス川に巡礼の旅をすることは、信心深いヒンドゥー教徒の夢である。これは2000年来変わっていない。

 この地で2500年前、ブッダによって仏教が誕生した。それはガンダーラからシルクロード、中国を経て、西暦538年日本に伝わった。聖徳太子は仏教を理念とする国家建設を志した。今に至るも、日本人の約70%(8500万人)は仏教徒である。

 

図2:古代インドの地図

ヒマラヤ山脈は、8000m峰12座をもつ、全長2400キロの巨大な世界の屋根である。この大屋根を水源とする三大河が、人類史上初の①稲作と②古代都市文明と③世界三大宗教の一つを生んだ。この三大河川の源流がチベット高原のカイラス山(6638m)とマナサロワール湖(標高4550m)であることが1907年、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンの踏査によって明らかになった。三つの大河はカイラス山をのぞむマナサロワール湖より流れ出ていたのである。ヒンドゥー教徒はヒマラヤのリプ・レク峠(標高5114m)を越えて巡礼をつづけ、マナサロワール湖で沐浴する。

仏教徒はチベット各地からラサを経て、標高4500mのチベット高原1千キロの道のりを、数年かけて五体投地で巡礼し、カイラス山を周回する。これ以上の過酷な苦行があるだろうか。カイラス山とマナサロワール湖は、エルサレムとメッカに並ぶ世界の三大聖地である。

図3:カイラス山  

図4:五体投地

 

2.カイラス峠を越えてアーリア人がやってきた

 

 ヒマラヤの巨大障壁によって、インド洋からの湿気をさえぎられたユーラシア大陸中央部は、カラカラの砂漠かステップ[1]地帯になった。この広大なユーラシア乾燥地帯は悪魔の巣窟である。この地域から遊牧民が5000年前の昔から、暴風雨のように文明社会に襲いかかった。中国は全長6352㎞の万里の長城をつくって防壁とした。インド亜大陸はヒマラヤ山脈が自然の長城となって、遊牧民の襲撃を防いだ。

 しかし、それが破られる時が来た。ヒマラヤ西のはずれのカイバル峠(標高1070m)を越えて、イラン高原で遊牧していたアーリア人(白人)が、3500年前騎馬と戦車でインダス川流域のパンジャブ地方へ侵入してきた。アーリア人はインド・ヨーロッパ語系の民族で都市をつくらず、牧畜と農耕を営みながら先住民を支配した。その先住民とは肌の色の黒いドラヴィラ族であった。

 同地で栄えたインダス文明は、アーリア人がやってくるその200年前に滅亡していた。人類史に先立つこの都市文明の担い手はドラヴィラ系の民族で、今日も南インドに居住するドラヴィラ人の祖先である。

 この栄光あるインダス文明は、インダス川流域の自然環境破壊によって滅亡したと考えられている。モヘンジョダロやハラッパの家屋、城壁、道路舗装などは、メソポタミア文明のような日干しレンガでなく、火で焼く本格的なものであった。都市周辺の森林がレンガを焼くための燃料として伐採された。森は保水力を失い、洪水が発生する。インダス文明は森林破壊によって3700年前に滅んだ。

 アーリア人に追われた先住のドラヴィラ族は南のデカン高原へと逃れた。ドラヴィラ語族のタミル人は勇躍ベンガル湾に出た。そして、「タミル語を日本に伝えた」と『岩波古語辞典』の編纂でも知られる我が国の高名な国語学者大野晋教授は力説する。

「北九州の縄文人は、タミルから到来した水田稲作・鉄・機織りの三大文明に直面し、それを受け入れるとともに、タミル語の単語と文法を学びとっていった。その結果、タミル語と対応する単語を多く含むヤマトコトバが生じたのである。」(大野晋著『日本語の源流を求めて』岩波新書)さらに大野先生はいう。

 

「揚子江下流から最初に水田稲作が日本に到来したのなら、タンボ、シロ(泥)、アゼなどを表わす古代中国語が一緒に日本語の中に入ったはずである。ところが、揚子江下流の古代語と一つも対応するものがない。一方、2000年前のタミル語の中に、タンボ、シロ、アゼのことばが見出される。」

 

日本語と南インドのタミル語の間には、「音韻対応の法則」が成立する…。そう大野先生は熱く主張し、私も共感するが、今のところ日本語の起源について、決定的な定説はない。日本語がどこからきたのかは、今も謎である。だが、もし大野説が正しいとすると、われらが日本語と文明の古層がインダス文明につながるということになり、ロマンがある。インドの三大河川から発生した文明はすべて日本に伝わってくるのだから。

 

[1] ステップ(steppe):中央アジアの乾燥地に広がる芝生性の丈の低い草原で、世界最大の草原地帯をなす。草原の土壌はきわめて肥沃で、世界の穀倉地帯や企業的牧畜地帯となっている。

 

3.カースト制度と仏教の誕生

 

 さて、アーリア人は、前1000年ころパンジャブ地方からさらに東方のガンジス川流域へ向かって、移動・拡散し始めた。ガンジス川流域は高温多湿に恵まれていたので、農業生産力も増大した。これによって彼らの社会も変化し、やがて都市国家が形成された。さらにそれらが連合して王国となり、前6世紀ごろにはマガタ国とコーサラ国が抗争をくり返すようになった。

 

この間、祭祀をつかさどるバラモン(司祭者)は、従来のインド人の信仰を一つの宗教に発展させた。これがバラモン教である。バラモンは、司祭者にとどまらず、農耕の指導者としてもその権威を高め、統一をめざす抗争で実力を高めたクシャトリヤ(王族・武士)とともに治者階級を形成した。一方、農耕や商工業に従事したヴァイシャ(一般自由民)と征服された先住民が大部分を占めるシュードラ(奴隷)が被治者階級となった。これが一般的にカースト制度として知られているインド特有の厳格な階級制度である。(図5)

 

このようなカースト制度は、現在では一般に職業集団となっている。靴屋、洗濯屋、ホテルのボーイ、掃除人、門番など皆それぞれのカーストに属しており、他のカーストの人との結婚や食事などを避ける傾向がある。インド共和国憲法は、カースト制を否定しているが、3000年の伝統は今日も厳然として残っている。

図5:カースト制度

 

 

このようなインド社会の新しい動きは、時代に対応する思想や宗教の出現を促した。紀元前6世紀、北インドに登場したのが仏教である。仏教はヒマラヤ山麓にあるコーサラ国の属国カピラ国の王子ゴータマ・シッダールタ(尊称 釈迦牟しゃかむ尼に・仏陀ぶっだ[1])によって開かれた。彼はこの世は生・老・病・死などの苦しみと悩みに満ちており、いっさいは無常なものであるとして、すべての欲望を捨て去り、無我の境地に入ることによって、この苦悩から脱する(解脱げだつ)と説いた。また、人間は社会的差別なく解脱できると説き、厳しいカースト制度を批判した。仏教は宗教であると同時に思想・学問であった。

 

[1] 仏陀(ブッタ):手塚治虫著『ブッタ』全12巻。潮出版社。ネパールの王族として生まれたシッダルタ(マンガではこの名)。彼のまわりにはカースト制の厳しい身分に苦しむ人々がいた。人はなぜ生きるのか。『鉄腕アトム』の巨匠が描く大スペクタクル・ロマン!

図6:シッダールタの苦行

 

紀元前4世紀後半、アレキサンダー大王[1]がカイバル峠を越えて西北インドに侵入してきた。それまでインドは小王国同士が抗争を続けていたが、一大事である。チャンドラグプタ王によって、インド史上最初の統一王朝であるマウリア朝(前317~前180)が誕生した。その第三代アショーカ王は、インド南端部を除くほぼ全インドを支配する空前の大帝国を建てた。この征服戦争中、カリンガ国(ベンガル地方)を攻撃したアショーカ王は抵抗する人々に残虐の限りを尽くして10万人を殺害した。このカリンガ遠征の悲惨さで彼は目覚め、戦いによる勝利から仏教の慈悲の精神、法ダルマ(道徳・真理)による勝利こそ真の勝利であると確信するようになった。

 

アショーカ王は仏典の結集けつじゅう(仏教の経典の編集)を行い、各地に仏塔や王の政治の基本方針を刻ませた石柱碑や磨崖碑を建てた。また、通商路を整えて宿駅を設け、貨幣を流通させて商工業を保護した。各地に病院を設け、貧しい人々のために「施しの家」を建てた。アショーカ王の仏教による統治理念は、カースト制度を否定し、すべての人が遵守すべき普遍的な法ダルマによる国家統一であった。

 

[1] アレキサンダー大王(AlexanderⅢ 前356~前323):ギリシャ、エジプト、アジアにまたがる世界帝国(アレクサンドロス帝国)を建設したマケドニア王。13歳で哲学者アリストテレスについてギリシャ的教育を受けた。前334年、3万7000の軍兵を率いてペルシャ遠征に出発した。前330年北西インドのパンジャブ地方まで進んだが、兵士がそれ以上の行軍を拒んだため、インダス川を下って帰途についた。ナポレオンよりすごい大王だ。

図7:アショーカ王の石柱頭

 

4.多神教のヒンドゥー教

 

 しかしながら、マウリア朝はこうした穏やかな支配が災いし、アショーカ王の死後半世紀で滅んだ。インドはマウリア朝の滅亡後、中央アジアからトルコ系遊牧民などの侵入があり、混乱がつづく。4世紀にはいると、北インドのガンジス川流域が再度強盛になって、グプタ朝(320~550)が成立し、ようやく安定した。

 チャンドラグプタ二世(位380~415)のとき、グプタ朝はマウリア朝以来の大国家に発展し、南インドをも間接的に支配下に入れて全盛期をつくり出した。インドの伝統的な宗教であるバラモン教は長期間にわたり、さまざまな民間信仰や仏教などと混交してきたが、グプタ朝時代に庶民の生活に密着したヒンドゥー教へと発展していった。

 ヒンドゥー教は八百万やおよろずの神々からなる多神教で、その主要な神はバラモン教から受け継いだ創造神ブラフマー、維新神ビシュヌ、破壊神シバの三神である。輪廻りんねからの解脱げだつを説く仏教は、思索的、学問的で民衆との結びつきが弱く、仏教の創始者仏陀ぶっだはやがてビシュヌ神の化身けしんとされ、宇宙万物の輪廻りんねを説くヒンドゥー教の下に吸収され、体系化されていった。

 かくして、ヒンドゥー教がインド社会最大の宗教となった。現在のインドの宗教分布は、ヒンドゥー教が人口の80%を越える信者(なんと11億人)をもち、カースト制度とともにインド社会全体に多大な影響を与えている。[1]

 つづくイスラム教徒は13.4%(1億9千万人)、仏教は0.8%(1100万人)である。そして後述するが、このイスラム教徒との混在が、インドの統一を難しくし、国家分裂の要因となっていく。

 

[1] ネパール国(人口2930万人)の宗教分布:ヒンドゥー教徒81%(2300万人)、仏教徒11%(320万人)

図8:アジアの宗教

 

5.「0の発見」は人類文化の巨大な一歩

 

 グプタ朝の時代は、学問の分野でもバラモンの学僧たちによって、天文学、代数学、医学、化学などの研究が行われ大きな進歩が見られた。幾何学上の円周率を3.1416とし、太陽・月・地球の運行を正確に観測して、1年を365.3586805日と算出したことが知られている。

 

 なによりもすごいのは、「色即是空」の「空」から零ぜろの理論を導き出し、「0」を発見したことである。この世にないものをどうして「発見」できたのか。そして、それを「0」と表記したのである。「0という空位を表す記号なしには、位取り記数法は成り立たない。0こそは実にインド記数法の核心なのである。この一歩こそは、人類文化の歴史の巨大な一歩であった。」(吉田洋一著『零の発見』岩波新書)

 

 エジプト、ギリシャ、ローマ以来幾千年の時が流れたが、これらの国々において、ついに位取り記数法は発見されなかった。零はついに発見されなかったのである。

 

 「かくして、零の発見、単なる記号としてばかりでなく、数としての零の認識、零という『数』を用いてする計算法の発明、これらの事業を成就じょうじゅするためには、インド人の天才を待たねばならなかった。」(前出書)

 ちなみに、1.2.3.4.…のアラビア数字はインドが発祥の地である。このアラビア数字と0は、イスラム社会を通じて、ヨーロッパに伝わった。

 

 1200年ごろ、イタリアの商人レオナルド・フィボナッチは、父親が経営する隊商宿で働くために、北アフリカのアルジェに渡った。そこで彼は、生まれてはじめて、紙に数字を書いて計算する方法を知った。それはインドで生まれ、バクダット経由でその地に伝わったものだった。従来のギリシャ文字(α、β、γなど)ではなく、0から9までの記号(アラビア数字)で数を表現し、速やかに計算する方法で、インド発祥の0を用いることによりどんな数でも表現できた。そこで彼は1202年に『算術の書』を出版し、西側のキリスト教世界に、アラビア数字を紹介した。アラビア数字という発明は非常にすぐれていたので、イタリアの商人たちはアラビア数字を駆使して複式簿記[1]を発明したのである。

 

[1] 複式簿記:イタリアの数学者ルカ・パチョーリが1494年『スムマ』で体系化し発表した。取引ごとに貨借を仕分け、財産および資本の増減を記入することにより、決算書ができあがる。複式簿記は世界共通の会計言語で、これによって資本主義はまわっている。第4話「複式簿記は人類最高の発明」参照。

 

6.玄奘法師と孫悟空の『西遊記』

 

グプタ朝の崩壊後、分裂していた北インドを再び統一したのはハルシャ王のヴアルナダ朝(606~647)である。ハルシャ王の治世に、マガタ国ナーランダー僧院で学んだのが、中国僧の玄奘三蔵(602~664)。27歳のとき、唐の国禁を犯して、インドへ求法ぐほうの旅に出た。シルクロードを西へ西へ…。バーミヤンからカイバル峠を越え、ガンダーラを経て、インドへ入った。

 

 44才のとき、多くの仏教の原典をたずさえ、唐の都に帰った。17年の歳月が経っていた。この危険に満ちた玄奘の西域・インド旅行は『大唐西域記』として出版された。この記録をもとにまとめられた痛快冒険小説が『西遊記』。[1]。日本の青少年に最も人気の高い中国の文学作品だよ。

 

 主人公孫悟空は、日月の精気をうけて石から生まれたサルである。天空を騒がせた罪でお釈迦さまに五行山の下に閉じ込められた。その500年後悟空は五行山を通りかかった三蔵法師に救われ、供をすることに。やがて9つの爪を持った熊手を武器にするブタの精・猪八戒ちょはっかい、流沙りゅうさ河がで人を食っていた河童の精・沙さ悟ご浄じょうも供に加わった。

 

 幾山河、厳しい旅を続ける子弟の行く手を阻む魔物は数知れない。叱られつつも身を挺ていして三蔵を守る健気けなげな悟空。食いしん坊で好色な楽天家で、すぐ羽目を外すが、憎めない愛嬌者の猪八戒。生真面で一途でひたすら師につかえる悲観論者の沙悟浄。

 

 手を変え、品を変え襲いかかってくる妖怪ようかい変化へんげの群との戦いは痛快である。如意にょい棒ぼうを片手に筋斗きんと雲うんにうちまたがれば、ひとっ飛びで十八万里を行く悟空だが、偽物の悟空が現れるに至っては万策尽きる。女人国で妖しい美女に誘われた三蔵もピンチ。そんな災厄患難さいやくかんなんをなんとかしのいで師弟4人はついに天竺てんじく雷音寺にたどりつき、満願を果たすのである。

 

 玄奘が20頭の馬に積んで唐に持ち帰った大量の仏典(サンスクリット語)は漢訳され、唐僧鑑真や最澄、空海らによって、日本に請来しょうらいし、その後の日本の宗教、政治、文化の骨格を作り上げていくのである。

 

7.イスラム教徒のムガル帝国

 

 ヴァルダナ朝が倒れた7世紀半ばから、12世紀末のイスラムによる北インド征服までの時代をインド史上ラージプート[2]時代という。ラージプートとは、「王子」すなわち「古代クシャトリアの子孫」を意味している。当時の諸王朝は、自己の支配の正当性を主張するため、この呼称を用いた。ラージプート諸国は、互いに抗争を繰り返し、12世紀初めから頻発する外敵イスラム教徒の侵入に対しても、団結して戦うことをしなかった。

 

 7世紀ムハンマドによってアラビア半島で興ったイスラム教徒とその文化がやがて西はイベリア半島から東は中央アジアにまで伝播でんぱして、一つの大きな文明世界を創りあげていく。(「第19話イスラム世界」参照)

 12世紀から13世紀にかけてイスラム教徒とその軍が、カイバル峠を越えて、インド北部へ次々と侵入してくる。彼らイスラム教徒の王たちは、スルタンと呼ばれ、デリーを中心としたスルタンたちの政権をデリー・スルタン朝(1206~1526)といい、ムガル帝国の登場する16世紀までつづいた。

 

 ムガル帝国初代の皇帝バーブルは中央アジアのフェルナガ盆地でトルコ系の首長の子として生まれた。活路をインドに求め、2万の兵と共にカイバル峠を越えて、北西インドに侵入する。1526年バーブルはデリーを占領し、イスラム教徒のムガル帝国(Mughal)(1526~1858)を創始した。ちなみにムガルとはモンゴルの訛なまりである。

 

 第3代アクバル帝(AkbarⅢ 位1556~1605)が13歳で即位した当時、ムガル帝国の政権はきわめて不安定であった。アクバルは半世紀にわたる治世の間にラージプート諸国をはじめとする敵対勢力を討ち、帝国の版図はんとを、デカンの一部を含む北インド全域に広げた。アクバルの宗教政策は寛容で、ヒンドゥー教徒の王女を妻に迎え、たくみな異教徒懐柔策をすすめた。

 

 ムガル時代には、各地に都市が発達し、商工業が栄えた。とくに綿織物はインドの代表的な輸出品となり、アジア・ヨーロッパ諸国にキャラコの名でもてはやされた。貿易によって大量の銀が流入したため、貨幣経済が発達し、第5代シャー・ジャハーン(Shah Jahan 位1628~1658)の時代を頂点とする、インド・イスラム文化が花開いた。同時代に建築されたタージマハール廟(図10)は世界建築史上の至宝である。

 

[1] 西遊記:福音館書店刊、上・中・下巻、各800円。小学校上級用。君島久子訳は名訳で、大人が読んでもとても面白い。

[2] ラージプート(Rajput):インドのカースト。ガンジス川中流以西の北インドに広く分布。主に政治、軍事、農業に従事し、クシャトリアとされる。ムガル期には帝国軍の中核としてムガル体制を支える一方で、その後半期には各王家が独立、ムガル帝国崩壊の一因ともなった。

図9:西遊記     

 図10:タージマハール廟

 

8.植民地下のインド

 

 今日、多くの旅行者がインドを訪れる。(私は25年前の1997年インドを旅した。)彼らがまず最初に受ける強烈な印象は、その驚くべき貧困を背負った民衆の夥おびただしさである。

 

 インドの歴史は、インドがむかしからこんなに貧しい国ではなかったことを教えている。世界に先駆けて古代都市文明が起こり、深遠な仏教哲学が生まれた。綿織物業の手工業が栄え、タージマハールの壮麗な建築を造営した。古い文明と豊富な資源をもったインドは、かつて文化的にも経済的にも世界のトップグループにいたのである。

 

 インドの貧困を歴史的に考えていくなら、近代国民経済形成期に200年以上の長期間にわたって、植民地支配下におかれ、まるで動脈から血を抜き取られるようなイギリスの収奪を受けてきたことが、決定的な意味をもってくる。

ことの始まりは、大航海時代の到来である。1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマはアフリカの喜望峰を回り、インド洋をわたってインド西南のカリカットに到着した。胡椒こしょう取引でポルトガルは莫大な利益を得た。

 これまで外敵はカイラス峠を越えて侵入してきたが、16世紀大航海時代となって、侵入者は船に大砲を積んで海からやってきた。海にひらかれた国土のインドは打つ手がない。

 

1600年イギリスは東インド会社を設立する。1765年には、イギリスはベンガル地方の植民地化に踏み切り、同地方の徴税権を、ムガル帝国の地方政権から獲得する。イギリスはこの地方から上がってくる地租収入でインド産の綿織物を調達し、本国への「輸出」―いっさいの見返り品を与えない略奪と同じ意味をもつ「輸出」―の量は飛躍的に拡大していった。

 

イギリス本国は綿織物の輸入急増により伝統産業の毛織物業がピンチとなった。そこで政府はインドからの綿織物輸入を禁じる。そのことが、イギリス産業革命の躍進につながった。綿織物工業の技術革新がすすみ、蒸気機関を利用した紡績機が実用化される。それまでインドから輸入していた綿織物を国内の工場で大量生産できるようになったのだ。

19世紀に入ると、インドとイギリスの輸出入が逆転、イギリス産の安価な綿織物がインドに流入する。その結果、これまで手作業で綿織物をつくっていたインドの手工業者は大打撃を受け、職を失った。多くのインド人が貧困化していった。ときのインド総督は、1834年の年次報告に、「インドの平野一帯は、綿織工の白骨で白けている。」と記している。

 

 18世紀、イギリスが世界に先がけ立ち上げた産業革命は、まさにインドから略奪した富をその大きな源泉としていたのであり、この時期をもって、貿易の輸出入関係は完全に逆転し、インドはイギリスの工業製品を大量に輸入するべき、植民地型市場となった。(図11)

図11:インドとイギリスの綿布輸出

インドの自給自足的な村落社会は崩壊した。インドは1840年をさかいとして、古代・中世を通して、それなりに成り立っていた産業上の総合された立体性を失い、手工業国からモノカルチャー[1]の農業国に後退した。インドは民族の自由と独立を奪われ、イギリスの完全植民地としての位置が定まり、植民地支配と言う強制された「近代」を受容せざるをえない立場へと転落させられていったのである。

 

インドがイギリス植民地として蚕食されているときムガル帝国はなにをしていたのか。北インドを支配していたイスラム教徒のムガル帝国はすでに衰え、18世紀時点で首都デリー周辺のわずかな地域を支配するのみとなっていた。

ムガル帝国から独立していたヒンドゥー教徒の諸王国も、互いに抗争を続けそれぞれがイギリスと協定を結んだり、軍事援助を得たりしていた。イギリスの伝統的な外交政策は

 

    Divide and Rule  分割して治めよ

 

つまり、イギリスは植民地の諸王国と宗教間に対立関係をつくり、これを操作しながら対処するという、きわめて狡猾こうかつなやり方で統治した。インドに独立のための統一戦線が結成できなかったのは、イギリスが巧みな分割統治政策によって、インド民族運動の分断をはかったことにある。加えて、三千年の伝統からインド社会に深く根付いたカースト制による国民の分断など、歴史的な要因も大きく作用していた。

 

インドが独立を果たすのは、第2次世界大戦後の1947年である。インドの長年の夢であった独立は達成されたが、インド連邦とイスラム教徒の多い東西パキスタンとの二国家に分離しての独立であった。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立、それを煽あおったイギリスの分割統治政策、それらがこの分断を生んだ。ヒンドゥー教徒にしろ、イスラム教徒にしろ、同じインド人であり、もともと国を分け合おうなどとはけっして望んでいなかった。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和、それはインド独立の父マハトマ・ガンディー(Mohandas Gandhi 1869~1948)の信念であった。 そのガンディーは、インド独立の翌年、同じヒンドゥー教徒の急進派の青年によって暗殺された。

 

独立を達成した両国は、カシミール問題やベンガルの独立をめぐって、3回にわたって激しい戦争(印パ戦争)を行った。東西パキスタンの不自然な分離と西パキスタンによる東パキスタン抑圧の問題から、1971年バングラデシュ(ベンガル人の国の意)の独立が宣せられ、インド亜大陸は一種の分裂国家の様相を呈するにいたった。イギリスの分割統治は現在にいたるも、インド亜大陸の国々に深い傷痕を残しているのである。

 

[1] モノカルチャー(monoculture):農業で「単作」の意。一種類の作物のみ栽培する土地利用法のこと。インドは古来より、自給自足の村落社会であった。そこへ植民地政府は、イギリスへ輸出するための綿の栽培を強制した。農民は綿の現金収入で食物を購入する生活となった。綿の相場が下落すると、農民は貧窮化した。前話で述べた植民地化のアフリカの貧困と同じ構造。

 

9.現在のインド

 

2022年10月、「私の宗教と文化的な背景はインドにある」とするインド系ヒンドゥー教徒のリシ・スナク(42)がイギリスの新しい首相に就任した。独立からわずか75年、元宗主国イギリスのトップにインド人がつくなど、誰が想像しただろう。

 

時代の変化は激しい。インドは今や世界最大の民主主義国家である。グローバル化し、多様化した世界の中でインドはどのような道をたどるのだろう。

 

インドは日本の11倍の面積があり、人口も11倍の14億人。国連の統計によると、インドの人口は2023年には、中国を抜いて世界最多となる。インドの一人当たり国内総生産(GDP)は約30万円で、発展途上国のレベルにあるが、その分労働者の賃金は安いので、海外企業の進出を呼び込みやすい。また、巨大な消費地として、新たな投資の対象になる。中国が享受してきた世界経済の牽引役を、今後はインドが引き継ぐことになるだろう。

 

インドのIT産業が躍進している。なにしろ「0の発見」で数学に強い国柄である。加えて、ITは新しい産業なのでカーストに対応しない。どんなカーストからもITに就職できるのだ。だが、インドは一筋縄ではいかない。宗教、カースト、言語、地域の多様性からくる対立抗争が絶えない。急激な人口増加にともない、都市問題も深刻である。農村からの人口流入により、都市には人があふれている。路上生活者も多く、夜街を歩いていると、布を巻いた人々がイヌや牛とともに歩道に横たわっている。

 

インドは仰天することが多い。混沌とした宗教、カースト、言語[1]に分断されたインド。Chaosカオスのインドを統一する原理とは何だろうか。

 

次回は「完結編」。第30話でおしまい。                

2022.11.1

 

[1] 言語:インドの言語は公的に認められたものだけで22語。州が異なるとことばが通じない。各州に通じる唯一の共通語はヒンドゥー語でなくて英語。

ヒンドゥー教の三神