猿が木から下りて森を出た。直立二足歩行を始めて、人類が誕生したのは500万年前。その99.8%を人類は移動しながら狩猟採集生活をしていた。その直近0.2%の1万2千年前、人類は農業革命を起こし、都市国家を作った。文明を維持するために、森林を破壊した。それが何をもたらしたか、イースター島の悲劇から学ぼう。
1.ホモ・サピエンス アフリカに誕生
1000万年前のアフリカで異変が起こる。類人猿が生息場所としていた熱帯雨林が乾燥化により縮小し始めたのだ。もともとアフリカでは熱帯の森林がその全土をおおい尽くすほどに広がっていた。サハラ砂漠も、熱帯の森林におおわれていた。その森林に類人猿は生息していたのだ。ところが、アフリカ北部は特に乾燥化がひどくなって、ついに砂漠となってしまった。森林で生活する類人猿にとっては、生息範囲が狭められ、とても窮屈な生活を送らねばならない。それでも、ゴリラとチンパンジーは森林にとどまって生活を続けた。
狭くなった森林から、サバンナへと進出を決意した類人猿のグループがいた。樹上ではライオンなどの猛獣から身を守ることができるが、サバンナのような開けた大地では常に危険にさらされる。それにサバンナは森林ほど食べ物が豊富でないので、食べ物を探して開けた大地を歩き回らねばならず、二足歩行をするようになった。そして道具を使って身を守る工夫をした。700万年前のことである。このサバンナに進出した直立二足歩行の類人猿こそ、人類の祖先だった。
500万年前、類人猿から進化した人類(アウストラロピテクス)はサバンナで捕食者を恐れて暮らしていた。石器を使って狩りをしたが、大きなエモノを狩ることはマレで主に植物を集め、昆虫を捕まえ、小動物を追い求め、肉食獣が残した死肉を食らって、あちこち歩き回りながら暮らしていた。
20万年前、私たちの祖先であるホモ・サピエンスが登場する。サピエンスは、食物を探して移動しながら集団で暮らしていた。火を使ってエモノを焼いたり、あぶったりして調理した。やがて弓矢や針、ランプや舟を発明する。
7万年前、物語をつくる言語能力を身につけたサピエンスは、未知を求めて世界各地へと拡散していった。Great journeyの始まりである。この時代の狩猟採集民は生きるための知識と技能の点で、人類史上最も優れていたかもしれない。
なるほど、文明の時代に生きる私たちは、走るより早く車で移動でき、スーパーに行けば、多様な食材をたちどころに入手できる。工場に行って、標準化された作業で8時間働けば、文明生活を享受できる。しかし、3万年前のサピエンスより私たちが知的、身体的能力が高いとはとても言えないし、労働時間が恵まれているわけでもない。
「今日、アフリカのカラハリ砂漠のような最も過酷な生息環境で暮らす狩猟採集民でも、平均すると週に35~45時間しか働かない。狩りは3日に1日で、採集は毎日わずか3~6時間だ。通常、これで集団が食べていかれる。カラハリ砂漠よりも肥沃な地域に暮らしていた古代の狩猟採集民なら、食べ物と原材料を手に入れるためにかける時間は、いっそう短かった可能性が高い。」(ユバル・ノア・ハラリ)
2.農業革命は史上最大の詐欺
地球は7万年前から氷河期(ヴュルム氷期)に入っていったが、2万年前を最寒冷期として、氷河期は終わりに向かった。人類の人口増加圧が高まり、マンモスなどの大型哺乳類は乱獲などで絶滅した。
図1:都市国家の成立過程
人類史にはきわめて重要な転換点がある。1万2000年前にそれが起こった。農業革命である。食糧不足のなか、人類は慣れた狩猟採集から、やむにやまれず農耕という技術革新に着手した。1万2000年前のメソポタミアの「肥沃な三日月地帯」の遺跡からムギ、マメの化石が大量に出土したのだ。人類は農耕を開始し、定住を始めた。
人類は種のほぼ全歴史を通じて狩猟採集民だった。農耕を始めてから現在に至る1万年余りは、人類が狩猟と採集をして過ごした500万年という膨大な時間と比べれば、ほんの一瞬に過ぎない。そして、そのほんの一瞬が地球の大地と海と大気に、過去500万年に起こった変動より大きな異変をもたらした。農業革命がその最初のtrigger(引き金)となった。
人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量を増やしたが、よりよい食生活や長い休暇には結びつかなかった。むしろ人口爆発を引き起こして、神官や指揮官、スペシャリスト等のエリート層の増加につながった。余剰食糧のおかげで、神殿や宮殿が建った。貯蔵庫の食糧目指して遊牧民が襲ってくるので、城壁の建設と軍隊と指揮官と技術者等のスペシャリストが必要になった。人類史上初の都市国家の成立である。(図1)人類の9割以上を占める農耕民は飽食のエリート層を養うため、毎朝起きると、額に汗して畑を耕し、水桶を運んだ。
「農業革命は史上最大の詐欺だった。人々は小麦のそばに定住せざるをえなくなった。私たちが小麦を栽培したのでなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。」(ユバル・ノア・ハラリ)
農業革命によって、人類は自然との親密な共生関係を捨て去った。人類は土地を耕し、麦や豆、イモ、トウモロコシの栽培を始めた。神殿や宮殿、船を作るために、森林に分け入って木を切りはじめた。自然・人間搾取さくしゅ系の文明が始まった。
同じころ、野生動物(羊、ヤギ、牛、馬、ラクダ、トナカイ)を飼いならして、共に移動しながら、草原で生活していたのが遊牧民である。
3.メソポタミアとギリシャのミケーネ文明は森林破壊で滅びた
人類が文字で綴った最古の物語は、農業革命が起こったメソポタミアで見つかった。5千年前の粘土板だ。粘土板に楔形くさびがた文字で書かれた叙事詩『ギルガメシュ物語』には、シュメールの都市国家ウルクの王ギルガメシュが、友人エンキムドウとともに、森の神フンババを殺害する物語が書かれていた。
半神半獣のフンババは、レバノン杉の森を数千年の間守ってきた。嵐のようなうなり声をあげて襲いかかるフンババを、エンキムドウはその頭を切り落として殺害した。ギルガメシュ王は強力な青銅の手斧おのでレバノンスギの森の木を切り倒した。古代メソポタミアでは、神殿を建てるにも、交易の船を建造するにも、日常のパンを焼くにも木が必要だった。人類の輝かしい発展を約束したはずの都市文明の誕生は、実は大規模な森林の破壊の第一歩であった。
君のママが大学院(大阪大学大学院国際公共政策研究科)に入学した春、僕は22歳の君のママとギリシャを旅した。アテネからデルフィまで海岸部を車で移動したが、終日橋を渡ることがなかった。川がないということは、山に木がないということだ。見渡す限り森林は見つからない。冬草の生えているところで、羊が草をはんでいたりするが、山々は乾燥した石灰岩のハゲ山である。
しかし、そのギリシャにも古代には、うっそうとした森林があったことが、花粉分析[1]によって明らかになっている。今から3500年前、ギリシャのミケーネは、地中海の交易支配権を握って繁栄していた。ミケーネはペロポネソス半島の豊富な森林資源を背景に、ミケーネ式土器や青銅製品を輸出した。土器を焼き、青銅を製錬するには木材が必要である。それら製品をエジプトや南イタリアまで輸出するための船を作るにも良質な樹木が必要だった。新たな農耕地の開拓によっても、森林の伐採が急速に進んだ。経済の発展と人口の増加によって引き起こされた森林破壊は、ミケーネ周辺の森を消滅させた。
ギリシャの年間降雨量は400mlで、日本の四分の一、雨は冬期に片寄っており、植物成長の夏に雨が降らないから、ギリシャに限らず、地中海地方では、いったん木を伐採すると、森は再生することなく、山は岩だらけのハゲ山になってしまう。(26年前、君のママが見たギリシャのハゲ山も、かつては大森林だった。)そして、森林が消失するとともに、ミケーネ文明も滅んだ。
[1] 花粉は強い膜をもっていて、湖底など酸素の影響を受けない所に落下すると、何万年も腐らないで残る。ボーリングで堆積物を採取し、花粉の化石を調べることで、過去の森の状況を復元できる。
4.ヨーロッパの森は農地開発と教会のステンドグラスとワイン樽のために消滅した
今から100年前、哲学者和辻哲郎教授(1889~1960)は、ヨーロッパ留学のために、「モンスーン風土」の日本を出航した。和辻教授を乗せた船は「砂漠風土」のアラビア半島を回って、地中海に入る。日本を出発して40日、マルセーユから上陸した和辻は、君たちの住んでいるドイツに長く滞在した。
ヨーロッパには森がない。どこまで行っても牧草地が広がっていた。なるほど公園のような森はある。その森には、ブナが整然と生えていた。広大な牧草地と端正な疎林、それは雄大で美しい光景だが、なにかしら不自然さを和辻は直感した。
ヨーロッパにはかつて全土にわたってブナやナラの大森林があったことが、花粉分析によってわかっている。その大森林が12世紀以降少しずつ切り開かれ、定着農耕が開始されていく。農業生産の拠点を「荘園」(図2)という。荘園は広大なヨーロッパの森林の各所に点在していた。その荘園をいくつかまとめて、「封建諸侯(領主)」が誕生する。各地の領主をまとめ上げたのが王で、ここにヨーロッパ封建社会が誕生した。