第23話

ヨーロッパの孫に聞かせる

 

日本と世界の歴史

 

第23話 日本人はどこから来たの

 

 岡市敏治

 

 

 

ことばで物語をつくる言語能力を身につけたホモ・サピエンスは、6万年前アフリカを出発、地球上に拡散する。東南アジアで航海術をみがいたヒマラヤ南回りの一行と、シベリアで寒冷地適応した北回りのサピエンスが、38千年前ユーラシア大陸の東端で出会った。海を渡って日本列島に到達した南と北の勇者たちこそ、私たちの祖先である。

 

1.ホモ・サピエンスのGreat Journey

 

私たち人類の祖先は、6万年前生誕の地アフリカを出発した。ホモ・サピエンスの「Out of AfricaGreat Journeyの始まりだ。紅海の南端をわたってアラビア半島に入ったご先祖たちは西アジアに達し、ここで3方向に拡散する。

 

1DNAと考古学的証拠によるホモ・サピエンスのGreat Journey

 

 

I.     インドから東南アジアに移動した一行は、47000年前にオーストラリアに到達し、アボリジニの先祖となる。

 

II.    ヒマラヤの北側から48000年前シベリアに向かったホモ・サピエンスは、ベーリング海峡をわたって15000年前、南アメリカ南端のパタゴニアに到達した。

 

III.   4万年前、西アジアからヨーロッパ大陸に向かった君のパパのご先祖たちは、古くから住んでいたネアンデルタール人をその故郷から徐々に追い出しはじめる。

 

 

ⅠとⅡでは、海が行く手を阻む。どうして海を渡ったのだろう。今から2万年前までは地球は氷河期で、雨水は氷河となって陸上にとどまり、海水面は現在より100m低かった。ご先祖たちは島づたい、陸づたいにオーストラリアとアメリカ大陸に到達できたのだ。

 

 ところで、ポリネシア(南大平洋)の島々にも何千年前もの古代から人類が住みついている。島から島へ1000キロ以上離れているのもザラである。竹や木の古代(いかだ)で、どうして遠洋航海ができたのだろう。イースターにいたっては、最も近い有人島まで2000㎞で、文字通り絶海の孤島である。そこにはモアイの巨像が900体以上も突っ立ったり、転んだりしていた。これはインカ帝国の巨石文化が海を渡ってイースター島に伝えられたのではないか。ポリネシアの島々には、南アメリカ原産のサツマイモも栽培されていた。

 

 ノルウェーの若き人類学者ヘイエルダール(19142002)は海図を見て考え込んだ。フンボルト海流(図2)が南米ペルー沖からポリネシアまで流れている。ペルーのインディオたちは筏でこの海流に乗り、東から吹く貿易風に帆をはらませて、ポリネシアの島々へ、インカ帝国の巨石文化とサツマイモを伝えたのだ。

 

2:コンチキ号とフンボルト海流

 

 

 

そう確信したヘイエルダールはこれを論文にして発表した。しかし、南アメリカから太平洋を筏で漂流して、8000キロ先のポリネシアの島々に到達することなど全く荒唐無稽(こうとうむけい)の妄想であると学会はヘイエルダールの学説を黙殺した。それに、丸太(バルサ材)の筏は水を吸って航海半ばで沈んでしまう。沈まなくても丸太をゆわえている(つる)の紐は風浪にこすられて切れてしまい、筏は洋上でバラバラになってしまうだろうと航海の専門家は忠告した。

 

 しかし、ヘイエルダールに微塵(みじん)のとまどいや尻込みもなかった。古代インカの勇者たちは海図も羅針盤もなしに、星と太陽だけを頼りに西へ西へと太平洋を漂流し、南太平洋の島々に巨石文化を伝えたのだ。この勇者たちの歴史真実を証明するために、学者の良心にかけても古代航海を再現させてみせる。ヘイエルダールは固くそう決心した。

 

 1947年春、33歳のヘイエルダールをリーダーとする6人の冒険家が集まった。船乗り経験者は一人もいない。いずれもスカンジナビア半島出身の若者たちで、かつてのバイキングの末裔である。彼らは周到な準備のもと、インカ時代の遺物の筏を組み立ててペルーのカヤオ港に浮かべ、コンチキ号(図2)と命名した。コンチキとは1500年前、ペルーから西の海に姿を消してポリネシアに現れたという太陽神の名である。

 

 

 

2.コンチキ号の冒険

 

 

 

 6人の冒険家を乗せたコンチキ号は、1947428日ペルーのカヤオ港を出港する。沖に出て、フンボルト海流に乗って間もなく、猛烈な嵐に襲われる。次々に突進してくるめちゃくちゃな大波にコンチキ号は木の葉のように翻弄(ほんろう)され、筏の上に組み立てた竹小屋は何度も大波をかぶって寝袋は水浸しになった。3日間の嵐が去ると、海は一変しておだやかになり、危地を脱した。海流に乗ってゆっくり、ゆっくり、西へ西へと流される単調な日々が限りなく続いた。風が吹くと帆走した。筏の上には毎朝20匹以上のトビウオが飛び込んできて、食材には困らない。トビウオをエサにマグロやサメを釣り上げた。水も雨水で調達できた。ウミガメやイルカやクジラの群れもやってくる。全長15mのクジラザメが筏の下にもぐりこんだときは(きも)をつぶした。

 

 行けども行けども、島影も行き交う船も全くなく、空と大洋が果てしなくひろがっていた。コンチキ号は西へ西へと漂流する。バルサ材の筏は、沈みもせず、バラバラにもならず、ついに西の水平線上に緑の島影を望見、82日ポリネシア・トウアモトウ諸島のラロイア環礁に漂着する。出港から97日たっていた。航海した距離は約8000㎞。ヘイエルダールと5人の仲間たちは、巨大な意志と命がけの度胸で古代「人類大移動」の仮説を実証した。ヘイエルダールはその著『コンチキ号探検記』[1]に次のように述べている。

 

「コンチキ号の探検は、海洋の本来の姿にわたしの目を開かせてくれた。つまり、海とは隔てるものではなく、運び伝えるものなのである。初めて海に浮かぶ舟が作られて以来、海は主要な交易路であった。人類が未開の密林に道を切り開くずっと前から、海は人類にとって重要な大動脈だったのである。」

 

 

 

3.ホモ・サピエンス アフリカに誕生

 

 

 

 1000万年前のアフリカで異変が起こる。類人猿が生息場所としていた熱帯雨林が乾燥化により縮小し始めたのだ。もともとアフリカでは熱帯の森林がその全土をおおい尽くすほどに広がっていた。サハラ砂漠も、熱帯の森林におおわれていた。その森林に類人猿は生息していたのだった。ところが、アフリカ北部は特に乾燥化がひどくなって、ついに砂漠となってしまった。森林で生活する類人猿にとっては、生息範囲が狭められ、とても窮屈な生活を送らねばならない。それでも、ゴリラとチンパンジーは森林にとどまって生活を続けた。

 

 狭くなった森林から、サバンナへと進出を決意した類人猿のグループがいた。樹上ではライオンなどの猛獣から身を守ることができるが、サバンナのような開けた大地では常に危険にさらされる。それにサバンナは森林ほど食べ物が豊富でないので、食べ物を探して開けた大地を歩き回らねばならず、二足歩行をするようになった。そして道具を使って身を守る工夫をした。700万年前のことである。このサバンナに進出した直立二足歩行の類人猿こそ、人類の祖先だった。 

 



[1] 河出文庫版ヘイエルダール著『コンチキ号探検記』。これを要約した偕成社文庫『コンチキ号漂流記』900円。青少年向けに編集した後者の方が読みやすい。『コンチキ号探検記』は、「20世紀の名著」として世界中の人々に読まれている。

 

3:猿人からホモ・サピエンスへ