ヨーロッパの孫に聞かせる
日本と世界の歴史
第8話 現代の聖者
岡市敏治
(第8話は「人類の教師」後篇『孔子』について話すつもりだったところ、この稿を掲載しているHNAの理事長坂西俊一氏が急逝された。彼は現代の聖者である。今回は聖者の話をする。)
ヘルプネパールアソシエーション前理事長の坂西俊一君は神戸大学山岳部の6年後輩である。私は昭和61年から10年間、神戸大学山岳会の事務局長をしていたが、この間山岳会で3つの事件があった。
一つは昭和63年 冬の御岳での3年生リーダーの遭難。二つ目は平成3年、中国梅里雪山でのクーラカンリ隊員の遭難。残る一つが坂西君の山岳会脱退事件である。一会員の脱退がなぜ事件なのか。
それは彼の山岳会への貢献がきわめて大きかったからである。
彼は昭和50年代から60年代にかけての10年間、山岳会の事務局をほぼ一人で支えていた。私は昭和61年の3ヶ月間、チベットのクーラカンリに出かけていたが、その時日本の留守部隊をほとんど一人で取りしきってくれたのが坂西君である。
HNA理事長就任のあいさつをする坂西俊一
尺八を吹く中西俊一
カラコルム氷河のヒドンクレバス
実はクーラカンリ遠征の6年前、昭和55年にカラコルムのロロフォンド氷河で25歳の若い後輩右田卓君がヒドンクレバス(hidden crevasse)に落ちて遭難した。山岳会事務局を預かっていた坂西君はロロフォンド氷河に捜索隊を派遣することを主張した。しかしこの主張は手痛い反対にあったのである。
山岳会のさる実力者が「氷河は毎日動いている。一カ月もたてばクレバスは閉じてしまい、捜索なんか不可能だ。新しい未踏峰を探すとか、もっと前向きなことに金を使うべきだ。」と。
これは正論である。
しかし、右田君を冷たいクレバスの中にザイルにつながったまま放置しておくことは耐えがたいではないか。坂西君はその実力者の発言を許すことができなかった。
翌56年、坂西君はカラコルム追悼登山隊を組織し、ロロフォンド氷河で右田君が墜落、遭難したクレバスを見つけ出し、右田君をつないでいた赤いザイルを切って追悼した。そして近くの岩にレリーフを取りつけて帰ってきた。
ところで、この話はもう少し続く。カラコルムへの捜索隊に反対した実力者が平成になって山岳会の頂点に立つことが決定した。
彼は断じてこれを許せなかった。彼はそのような会の会員であることを潔しとしないとして、山岳会脱退を宣言、それ以来山岳会の会合には一切顔を出さなくなった。彼は見かけは武蔵坊弁慶か鐘馗さまのようないかつい風貌の持主であるが、実はまことに心やさしい絶対的正義の人だったのである。
ロマンと熱血の人
坂西俊一とはいかなる人物だったのだろう。彼の岳友・河本卓生氏の話(ACKUニュースNO.37)を聞いてみよう。
「坂西君とは山岳部時代に一緒に夏山の岩登りでザイルを結び、冬には腰まで没するラッセルに苦労を重ねた仲間だ。その彼が平成23年11月、氷ノ山の合歓の木山荘で、脳出血で倒れた。多くの山岳会員が山岳会を脱会してしまっている彼を見舞い、激励した。山の仲間は誠に心温かく、信義に厚い。私は秘かにその友情に深い感銘を受けた。
彼は考えるところがあって、山岳会を脱退したが、現役時代は山岳部のリーダーであり、カナダ遠征で活躍し、かつカラコルムで遭難した故右田君の捜索を、率先した熱血漢でもあって、山岳会功労者の一人とも云える。今はNPO法人のHNAの理事長として、
500人の会員を引っ張っている。
私と彼とはウマがあった。酒も一緒によく飲んだ。
彼は統率力、人望、識見、緻密さを併せ持つ親分肌の男だ。不幸にも愛妻にはガンで先立たれたが、一男二女を立派に育て上げた。上場会社にでも就職しておれば、社長・会長にも駆けあがった逸材である。」
地獄を二度見た男
さて、ここで中川勝八郎君に登場してもらわなければならない。彼は私の15年後輩である。
彼は富士山で遭難した緒方俊二君の告別式で号泣した。
「緒方さんの滑落を止められず無念だ。なぜ僕だけが生き残って、こんな目に何度も遭うのか…」
平成24年12月1日、中川は富士山7合目の氷壁で、緒方がスリップするのを至近で目撃した。とっさに止めようと体をぶつけ自身も滑落、かろうじて岩角に引っ掛かって助かる。緒方が飛んで消えた吉田大沢へ急ぎ下降した中川は、緒方の遺体の第一発見者となった。
この遭難の23年前の昭和55年8月6日、カラコルム・ロロフォンド氷河を登高中の右田卓の姿が唯一のパートナー中川勝八郎の眼前から忽然と消えた。ヒドンクレバスを踏み抜いた右田は18m下の奈落に墜落したのだ。中川は直ちにザイルを垂らしてクレバス内を下降、暗く狭いクレバスの割れ目に横たわる右田を発見した。右田は自力でよじ登ることができない。クレバスは非常に寒く、絶え間なく氷水が落下し、ずぶぬれとなった二人は時間と共に消耗していった。
やむなく中川はクレバス上に一人戻る。ザイルで吊り上げようと懸命に試みるが、18m下の奈落の右田はビクとも動かない。助けを求めようにも麓の村までは何日も氷河を上り下りしなければ到達できない。中川の焦燥はいかばかりだったろう。事故発生から4時間、ついに右田の反応がなくなった。
ロロフォンド氷河のレリーフ 在りし日の右田卓 ヒラフォンドン氷河に立つ
現代の聖者
右田を暗く冷たいクレバス内に残置せざるを得なくなったことによって、中川は生涯十字架を負うことになった。その重い十字架の片方を誰に頼まれたわけでもないのに、自ら進んでかついだ男がいる。坂西俊一である。坂西は山岳会の反対派を押し切って中川と共にロロフォンド氷河を訪れ、右田君を閉じ込めているクレバスを見つけ出し、遭難地点に慰霊の碑を設置した。
事後、8月6日の命日には坂西は中川を伴って必ず右田家を弔問した。それは卓君の父君が亡くなられるまでの20年間、1回たりとも欠かさず続いたという。卓君のお姉さんは「父も母も私も坂西さんのお蔭で25歳の弟の死を乗り越えることができました。弟、父、母、私にとりまして、坂西さんはこの世で一番の恩人であったのです。」と故人を偲んでおられる。
幼年期にカトリックの洗礼を受けた坂西は優しいだけの男ではなかった。
坂西俊一は尺八を吹く現代の聖者である。
(つづく)2013.12.1
尺八を吹く現代の聖者