ヨーロッパの孫に聞かせる日本と世界の歴史
第24話 会社の世界史
-会社をつくってお金を儲ける-
岡市敏治
人類は何万年もの間、森やサバンナで動物を追っかけ狩りをして生活してきた。速く走れて、腕っ節が強くなければ生きていけない。文明社会の今は、早く走れなくてもアタマを使って会社をつくれば、波乱万丈、豊かな人生を送れる。会社をつくってどうやってお金を儲けるか、「会社の世界史」から学ぼう。
まず、ボクが作った会社をまな板にのせ、複式簿記を解体して「お金儲けの基礎」を解説する。さらに、中世イタリア冒険商人の時代から、移民の国アメリカで利益を極大化する巨大企業が出現するまでの「会計の歴史」を読み解く。これは誰にでもわかる「会社の儲け方入門書」だよ。
1.会社をつくる
人は誰でもお金を儲けて豊かな生活をしたいと願っている。それは国を問わず、時代がかわろうとも、ずっと昔からそうだった。どうすればお金を稼げるか。話は簡単だ。会社をつくればいい。リスクはあるが、リスクこそ人生だ。ボクは40歳を過ぎたとき、18年間務めたサラリーマンにおさらばして、自分の会社を立ち上げた。1回しかない人生だ。コンチキ号のヘイエルダール(第23話)に憧れていたボクは、まだ見ぬ世界へと冒険に乗り出すこととにした。1984年のことである。
それでどうなったか、複式簿記の決算書(図1)を使って説明しよう。(複式簿記の原理と仕訳については第4話『複式簿記は人類最高の発明』を復習してネ)
まず、どんな事業をするか。20世紀後半、コンピュータの小型化と高性能化が急速に進み、低価格パソコンが続々登場していた。これを使って情報サービス事業をやろうと決めた。親ゆずりの自社ビルがあったので、開業資金は1000万円で済んだ。その調達先はⅠ賃借対照表(BS:Balance Sheet)の右側(貸方)に出ている。自己資金は300万円であとの700万円は国民金融公庫から借りた。その1000万円を使って、左側(借方)の資産(パソコン、車等)をそろえた。残った300万円は運転資金とする。BSとは会社の資産一覧表のことだ。実体は借方(借りた方の財産目録)にあり、右の貸方(貸してくれた方)はその影で、調達先を現しているだけで、右側に現金があるわけでない。左と右の合計は必ず一致するのでバランスシート(BS)というんだ。
次いで舞台はⅡ損益計算書(PL:Profits and Loss statement)に移る。運転資金の300万円を使って、パートの従業員を雇い、パソコン教室を開き、NECから仕入れたパソコンを売った。当時パソコン教室は珍しかったので生徒は集まり、パソコンは売れた。1年後のⅡ売上高1200万円、仕入れや販売管理費を引いて120万円がのこった。これが1年間の利益である。この利益を受けてBSはⅢになった。純資産が利益分増えた。増えた120万円は左の借方の現金をその分だけ増やし、総額は1,120万円。このⅡとⅢを合体すると、Ⅳになる。これが試算表だ。
試算表の仕組みは図2を見てほしい。BSの(借方)(貸方)の表にPLを組み込んだことにより、全体像が見えてくるではないか。(貸方)の負債、純資産、収益は「お金の集め方」で、(借方)の資産と費用は「お金の使い方」なのだ。左と右の金額は必ず一致する。まことに簡潔にしてbeautifulな経営の全体像だ。いったい誰がこんなすごい表を考え出したのだろう。
ところでこの試算表は会社の1年間の業績(下半分)と1年後の資産の実態(上半分)を現したもので、この試算表を見るだけで経営の課題と方向が見えてくる。それをこれからものづくり会社「K社」を想定して説明しよう。
2.試算表で会計と経営がわかる
図3を見てほしい。K社はAで1000万円の資金(負債・純資産)を調達し、その資金でBの資産をそろえてスタートする。Bの現金で、C費用の人件費を払って人を雇う。さらに材料を買い、その他の経費を払ってBの建物、機械を使い、製品をつくる。その製品を売ってDの収益(売上げ)1200万円を得た。D収益からC費用を引いた差額(E)の120万円がこの1年間の利益で、K社の純資産は1年間の経営活動によって120万円増えた。この利益増分はBの現金増(E)となって会社は成長した。ⅡとⅢを合体したものがⅣ試算表だ。
ところで、B資産は動かざること山のごとしで、実はそのままではなにも生まない。このB資産を使って(つまり山を動かして)、Cで費用化することによって付加価値のある製品ができ、Dの収益となる。収益と費用の差(E)が利益となって、資産Bも増える。つまり、図3Ⅳを見てわかるように、お金はA→B→C→D→(E)→A→B→・・・と巡回することにより、会社は成長していく。お金は会社の血液だ。血液が止まれば人間は生きていけないように、お金が止まれば会社は倒産だよ。
下の絵(図4)でもう一度説明する。Aでお金を集めてくる。そのお金でBの森(資産)を買う。Bの現金(運転資金)で人を雇って森の木を伐り、鉄鉱石を買ってきて、Cで木を燃やして鉄製品を作る。Cは仮想工場だ。Cで出来た鉄製品をDで売って収益にかえる。収益Dと費用Cの差が(E)利益だ。お金はAから出発してB C D (E) A B・・・と回りまわって会社は成長していくのだ。
会社の目的はお金を儲けること。つまり(E)利益の極大化にある。どうすればよいか。試算表を見れば明らかだ。D(売上)とC(費用)の差を拡大することだ。
① 売り上げ拡大 D ↗
市場でライバル製品に対し、持続的競争優位を確立する。→ 販売管理、マーケティング戦略
② 費用(コスト)削減 C ↘
材料費、人件費等をいかに削減するか。コストで他社に勝つ。社員を経営に「参画」させ、動機づけてそれを実現する。→ 生産管理、労務管理
これに加えて、経営者が目指すべき究極の収益性指標がある。
③ ROI=利益/資本 ↗
ROIとはReturn on Investment デュポン公式(後述)ともいわれ、収益性を見る代表的な指標。投下資本(資産)の運用効率を測定する尺度となり、財務管理の目標となる概念。ROIは標準企業で5~6%。10%以上ならexcellent company。(E)の幅を広げ、Bの遊休資産を減らせ!
同じ利益120万円でも投資した資産が1000万円か500万円かで、資本効率に2倍の差が出る。後者の方が断然いい。だって資産が多いと管理費がいるし、在庫などは置いておくと陳腐化する。それに資産は主に負債でまかなわれるので、コスト(金利)がかかる。
ところで、分子の利益の拡大のための売り上げアップは、ライバル製品や市場の動向もあって自社の思惑通りにはいかない。それならROI分母の自社資産を圧縮することだ。つまり収益(売上)に寄与しない資産を見極めてカットしていくと、分母が小さくなってROIはアップする。特に過大となるのが商品や材料在庫、それに売掛債権(手形など)だ。在庫はあった方が工場も営業も便利なので、どんどん増えてしまう。(これらを遊休資産という。)それに先に述べたように資産は主に負債で調達するので金利がかかる。金利はC費用の金利コスト増となって、費用の水位をあげ、利益を減らす。
船が遠洋航海に出ると船底にカキ(牡蠣)ガラがいっぱいくっついてスピードが落ちる。そのまま放置すると船底も舷側もカキガラだらけになって船を沈める。ボクは経営コンサルタント(技術士、中小企業診断士)として、200社以上の会社を見てきたが、そんな事例(遊休資産を持ちすぎて破綻)はいっぱいあるよ。あとでカキガラだらけになった日産丸の危機と、救援にかけつけたゴーン船長の話をする。
無駄な資産を半減できれば、資本効率がアップしてROIは向上する。ROIの高い会社は優良企業として取引先は安心して取引を増やし、銀行は低い金利でお金を貸してくれる。以上を要約すると経営活動は下図のように流れ、勝つ条件とは下の3項目だ。
会社が儲かるとは、上の3つの実現に尽きるとは、試算表の幾何学的事実である。試算表をチェックすることにより、論理的な経営が可能になる。この試算表は複式簿記によって作られるとは先に述べたとおりだが、この「人類史上最高の発明」とも、ユークリッド幾何学以来の「絶対的な完全原理」ともいわれる複式簿記は、いつどこでどのようにして成立したのだろう。それを知るためには、世界史を600年ほど逆のぼらなければならない。
3.複式簿記は中世イタリアの発明(14~15世紀)
近代的な経済思想の生みの親であるアダム・スミス(1723~90)も共産主義のカール・マルクス(1818~83)も複式簿記は経済と資本主義の発展に欠かせないと考えていた。
「複式簿記の手順に従って会計が行われることにより、企業の収益が決定づけられる。複式簿記なしには近代的な資本主義は成り立たないし、近代国家も存在できない。」(ジェイコブ・ソール『帳簿の世界史』)
この偉大な複式簿記は中世イタリアで誕生した。ヨーロッパにとって当時最高の商材は東南アジアのモルッカ諸島に産する胡椒だった。
胡椒はイスラム商人によって東方から海路、陸路を経てエジプトのアレクサンドリアに到着する。ヴェネチア(ヴェニス)の商人たちは、親類縁者を仲間にして、元手になるカネを出し合う。そのカネで船を購入し、乗組員を雇い、織物やオリーブ油などの輸出品を仕入れイタリアを出帆、東地中海に乗り出す。航海は嵐や海賊の襲撃もあってリスクが大きかった。目的地のアレクサンドリアで輸出品を販売して胡椒を購入、ヴェネチアへとって返す。イタリアに着いて胡椒を売却、さらに船を売り払い、すべてをカネに換える。元手の出資者にカネを返した残りが利益だ。リスクも大きいかわりに莫大な儲けになった。これを当座企業という。(ここまでならPLだけで会計処理できた。)
ところで、こんなに儲かるのだから一回こっきりにしないで船は持ち船とし、腕のいい船長や乗組員も常雇いにしようという知恵者がでてきた。そして何回も何年も航海を繰り返す継続企業(Going Concern会社の誕生)となった。手持ち現金や在庫商品、船舶・備品などの資産を計上するためのBS、そのセットとしてのPL・試算表が幾世代も経て、商人たちの秘伝の帳簿として確立していく。それは中世イタリア14~15世紀のことで、この東方貿易で蓄えられたヴェネチアやフィレンツェ商人の財力がルネッサンスの花を咲かせた。そしてここから近代ヨーロッパがスタートするのである。
このイタリア商人の帳簿の秘伝を『スムマ(Summa)』[1]という著書にしたのが、イタリアの数学者ルカ・パチョーリ(1445~1517)である。『スムマ』が出版されたのは1494年で、コロンブスのアメリカ大陸到達2年後のことだ。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)の友人でもあったパチョーリは「複式簿記の祖」とも「近代会計学の父」ともいわれているよ。
4.オランダに世界初の株式会社(16~17世紀)
イスタンブールを根拠地とするオスマントルコ帝国は、16世紀東地中海の制海権を握った。そのためイタリア商人は胡椒の東方貿易が困難になり、イタリア商業の衰退が始まる。これを機に、地中海から大西洋世界へのパラダイムシフトが起こった。大航海時代の到来である。中世の終わりとともに没落したイタリアに代わり、新たに登場したオランダは、「株式会社」「複式簿記」「証券取引所」の3点セットでヨーロッパの主役に躍り出た。
1602年アムステルダムに東インド会社が設立される。これは史上初の株式会社で資本主義の歴史に永久に名を残すことになる。同社はジャワのバタヴィア(ジャカルタ)に拠点を設け、モルッカ諸島の胡椒の支配権を独占し、巨大な儲けを確保した。民間会社ながら軍隊を持ち、要塞を築き、ほぼ100年にわたり、世界各地の貿易拠点にリトル・オランダを出現させた。(その拠点の1つが鎖国ニッポンの長崎出島である。)
大船団を組む船をたくさん作らねばならず、また各地の貿易拠点を維持するために、巨額の資金を長期的に調達する必要があった。中世イタリアで会社組織はできていたが、出資者は家族や身近な仲間(Company)に限られていた。しかし、今回は世界を相手とする船団を作るので、見知らぬ人々(Stranger)からも出資を集めねばならない。一般投資家株主の登場である。そのため、これ又世界初の「証券取引所」を設立した。これによって、株主は会社の儲けを分配してもらう配当income gainのほか、株を売ってもうける売却益capital gainという儲け方を選べるようになった。
株主にはきちんとした儲けの報告(会計:account)が必要である。オランダではすでにルカ・パチョーリの『スムマ』が翻訳出版されていて、多くの人が簿記を学んでいた。東インド会社の株主への決算報告は、今と同じ複式簿記の帳簿から作成されていた。オランダは当時人口100万人足らずの小国であったが、世界初の株式会社と証券取引所により17世紀世界商業の覇権を握った。
当時ニッポンは人口3000万人の極東アジアの農業国であったが、江戸時代鎖国220年間を通じて、オランダ東インド会社の長崎出島支店が、ヨーロッパ近代文明の唯一無二の灯台lighthouseでありつづけてくれたのである。
5.産業革命のイギリス 世界の覇権を握る(18~19世紀)
イギリスは17世紀にピューリタン革命と、つづく名誉革命によって絶対王政を倒し、安定した国民主権の政治基盤が確立した。18世紀にはジェームス・ワット(1736~1819)が蒸気機関を発明、イギリスは安価な綿織物の大量生産が可能となる。良質で安い製品を大量につくれるのは産業革命を起こしたイギリス以外になく、これらをヨーロッパやアジア、アフリカの植民地に売りさばき、イギリスは「世界の工場」となった。世界商業の覇権はオランダからイギリスに移り、イギリスにおいて資本主義が成立する。
イギリスの経済や社会の在り方に決定的な影響を与えたのは交通手段の革命であった。イギリス最大の工業都市マンチェスターと、港湾都市リバプールがスティーヴンソン(1781~1848)の開発した蒸気機関車でつながり、1830年に鉄道開通式が挙行された。
しかし、このリバプール・マンチェスター鉄道株式会社には大きな問題があった。まず蒸気機関車を何両も発注せねばならない。次にマンチェスター、リバプール間50㎞にレールを敷く、その敷地の購入から始まって、トンネルや陸橋、駅舎などの工事に莫大な初期投資がいる。これら固定資産Fixed Assetsをすべて揃えないと事業を始められない。
ところが、鉄道会社は東インド会社のように一航海で莫大な利益を生む胡椒のような商品を一切持たず、日々の運賃収入で長期間かけて資金を回収するしかない。そうすると少なくとも開業の数年間、会社は大赤字で株主への配当はおろか借入金の金利も払えない事態となる。これでは会社は倒産するであろう。どうしたものか。儲けを「平準化」し安定的に配当できる方法はないか。鉄道会社は必死で考えた。そこで考え出された答えが「減価償却」(図6)である。
機関車や線路などの莫大な初期投資を、支出した年に全額「費用」とするのでなく、何年かに分けて費用とする。このように費用を平準化させる会計処理が「減価償却」である。
この減価償却によって、巨額の設備投資をしても安定して利益を出し、配当できる見通しがついた。鉄道会社が案出した減価償却は「現金主義」から「発生主義」への移行という会計の歴史上画期的な出来事で、これによって近代会計がスタートする。
6.躍進するアメリカ チャップリンの『モダンタイムス』(19~20世紀)
19世紀後半、舞台はヨーロッパからアメリカ大陸に移る。1861年から65年にかけての南北戦争The Civil Warは奴隷制度をめぐって南軍と北軍が死力を尽くして戦い、戦死者は62万人という凄惨な内戦となり、イギリスに綿花を提供していた南部の荒廃はひときわ激しかった。戦後南部の大農場plantationは解体され、北部産業資本の導入によって国内の経済的一本化が完成すると、アメリカ経済は目覚ましく発展していく。アメリカは天然資源に恵まれ、フロンティアだった西部の国内市場が拡大したこともあって、19世紀末にはイギリスを抜いて世界一の工業国家になった。
アメリカ資本主義発展の特徴として、ロックフェラーのスタンダード石油会社やカーネギーのUSスチールのような独占資本trust[1]が早期に形成されたことがある。工業発展の原動力の1つは、移民による労働力の増加であった。建国当初(1776年)の人口が250万人程度だったのに対し、19世紀前半以降の100年間で、3000万人以上の人々がアメリカに移民としてやってきた。移民はヨーロッパ本土で食い詰めてやってくる人たちが多いので、職人気質の熟練工などはほとんどいない。
そこでカーネギーのUSスチールでは、「素人でも大量生産できる工場」を目指した。製造作業をいくつもの工程に分け、機械と作業者を順番に配置して「分業」とし、作業は可能な限り「標準化」して単純作業とした。USスチールでは分業化した工程と単純化された作業で大量生産が可能になった。しかし、これはチャップリンの映画『モダンタイムス』に描かれたような人間性疎外をもたらすことになったのである。急激な工業化の進展と大量生産工場の登場によって、アメリカは慢性的な人手不足に陥っていた。工場は集団的な怠業(職場ぐるみで怠けること)で職場のモラルと生産性は低下した。
ペンシルバニアの鉄鋼会社の技師長であったフレデリック・テイラー(1856~1915)は怠業の原因を仕事の結果を測定する合理的な尺度がないためと考えた。そこで作業の詳細な分析によって時間内に終えるべき「課業」taskを設定し、そのtaskを達成した者には高い賃金を与える「差別的賃金制度」を採用した。工場の怠業はおさまり、生産性は向上した。それまで労働者管理や賃金は成り行き任せであったが、テイラーによって初めて経営にscienceが持ち込まれた。「科学的管理法」の登場である。これは工場経営にとって画期的なことで、「第二の産業革命」ともいわれた。
1924年から27年にかけてウエスタン・エレクトリック社のホーソン工場で、ハーバード大学教授のメイヨーとレスリバーガーは、どのような要因が生産性を向上させるかについて、「照明実験[2]」をおこなった。その結果、生産性の向上に寄与する要因は、金銭的刺激や照明などの作業条件でなく、人間の感情的側面によって生ずる対人関係にあることを明らかにした。これは予測(仮説)を全くくつがえすもので、産業界と学会に衝撃を与えた。テイラーの科学的管理法が「経済人モデル」であるのに対して、メイヨーらは「感情人モデル」のパラダイムを呈示した。経営に感情を持った「人間」としての労働者が登場したのである。
この2つのモデルは戦後日本の産業界に持ち込まれた。人間関係論、行動科学理論として盛んに論議研究され、Moral Survey、職務分析、人事考課、提案制度、目標管理など「参画」をキーワードとして、今も経営・人事管理の柱となっている。会社経営は「財務管理」に加えて「人事・労務管理」が重要な要素となってきた。
7.デュポン公式とカルロス・ゴーン
デュポン社はアメリカ最大の総合化学メーカーである。創業者のデュポン(Dupont)はもとはフランスの貴族でフランス革命で、ルイ16世につづいて危うくギロチンにかけられるところを変装してアメリカに逃亡した。火薬の製造で財をなし、ナイロンで知られるように総合化学メーカーに成長した。デュポン社では製品群ごとに多くの事業部ができたが、各事業を評価するのに売上や利益だけでは不十分である。利益を出すために会社は「投資」しているのだから、その「投資」に見合った利益という視点が重要ではないか、とデュポンは気付いた。そこで生まれたのが次の『デュポン公式』である。
[1] トラスト(trust):企業合同。市場を独占するために同種の企業を合同して作る強力な企業形態。
[2] 照明実験:作業場の照明を明るくした場合と暗くしたときの生産性を比較観察したが、結果に差異はなかった。
「資本」とは「投資の大きさ」つまり「資産」のこと。投資した資産に対してどれだけ利益があるか―これを示すものがROI(Return on Investment)。(ROIについては「2.試算表で会計と経営がわかる」を参照)ROIを利益率×回転率に分解したものがデュポン公式だ。これを見ればROIは利益率と回転率の掛け算によって計算されることが分かる。ROIが低いとしたら、その原因は〔利益率〕と〔回転率〕のどちらかだ。それとも両方が問題か、デュポン公式によって、問題解決に向けた分析を進めることができるようになった。
売り上げや利益が前年より増えただけで喜んでいては持続的競争優位を確立する経営にはならない。ROIや損益分岐点分析[1]の登場によって、決算書のスタンスは株主への「義務の会計」から自社のための「管理会計」managerial accountingとなり、デュポン公式は経営改善のための重要な公式として単なる会計を超え、経営の「常識」となっていったのである。
この「常識」を使ってすごいことをした人物がいる。昨年末スパイ映画まがいの国外逃亡を企て、これを極秘に敢行してレバノンに亡命、世界中をアッといわせた刑事被告人・日産自動車元社長のカルロス・ゴーン容疑者だ。
日産は今から20年前の2000年3月期に6000億円もの赤字が見込まれ、銀行からも見放されて倒産の危機に瀕していた。その日産に1999年4月、提携先のフランス国ルノーからカルロス・ゴーン(当時44歳)が社長として送り込まれた。日産の決算書を一瞥して、どこに大鉈をふるうべきか、ゴーンはすぐに見抜いた。巨艦日産丸は船底も舷側も船内までもがカキガラでいっぱいだった。ゴーンは「Revival Plan」を打ち出す。
まずはBSリバイバル。売掛債権と在庫を1兆円圧縮。次いで、本社と村山・京都等5工場を閉鎖・売却、売却益で有利子負債も半減させた。PLリバイバルでは、工場閉鎖で余剰となった2万1千人を人員整理して、人件費を大幅ダウン、負債半減で金利も600億円減り、計1兆円のコストダウンを実現した。
2001年3月期の決算では、なんと当期純利益3300億円で、前年の△6800億円の大赤字から一転して利益1兆円増の奇跡の急回復。ROIも△10%から5%へとわずか1年で業界1位のトヨタ並みになった。ここから20年にわたるゴーン神話が始まった。
ゴーンの打った手は奇手でも手品でもない。デュポン公式にもとづき、遊休資産を大幅カットして各資産の〔回転率〕を上げ、あわせて大量首切りで人件費を圧縮〔利益率〕を急回復させたのだ。ゴーンはフランス革命時、祖国フランスから逃亡したDupontのことをよく知っていたに違いない。
しかしながら、デュポン公式の「実行」には決死の覚悟がいった。ゴーンの別名は「コストカッター」。ゴーンは今まで日本人が誰もなしえなかった仕入れ先と販売ディーラーを大幅カット、本社と主要5工場の閉鎖・売却、加えて2万1千人首切りという起死回生のrestructuringを不退転の決意で断行した。巨艦日産丸はすんでのところで沈没から免れた。カルロス・ゴーンが、稀代の剛腕プロ経営者であったことはまぎれもない。
8. 会社をつくって億万長者になった青年
さて、冒頭の会社をつくったときに話をもどす。1984年4月24日ボクが会社をつくったその日、手伝いに来て設立パーティの司会をしてくれたのが、父方の親類の増田宗昭という青年だった。彼も同時期、ボクの会社から車で10分ほどの枚方駅前にレンタルビデオ1号店を開店し、実家の屋号をとって「蔦屋」とした。やがてCD、DVDレンタルや書籍にも進出、「カルチャーをコンビニ方式で顧客へ」とするコンセプトで全国展開に乗り出した。37年たってTSUTAYAは5000店を超えた。
先日、親類の法事で増田社長に会ったので「売上げは?」と聞いたら、「3600億円で、利益は200億円。」と聞いてない儲けまで答えてくれた。売上げも利益もボクがつくった会社の5000倍だ。書店の数では、ジュンク堂、紀伊国屋書店を抜いて日本一だという。彼は一代で億万長者になった。「会社はつまりは利回りですわ」と増田社長はいう。彼の会社にはなんと3000億円の負債がある。銀行で借りている金利より、いかに高い利回りの事業にするか。これしか生き残れる道はない。その道をひたすら走りつづけて、彼は大業を成した。
「会社をつくってお金を儲けること、それは顧客のニーズをしっかり見極めて、それを金利を上回る利回りの事業に育てることです。」とボクより10歳若い億万長者はこともなげに宣った。正論だ。ちょっと負けたなと思ったが、会社にもいろいろある。ちなみに彼の会社の名前は CCC カルチャー・コンビニエンス・クラブ。
次回は『化学の世界史』だよ。
(つづく)2020.3.26
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※なお、本稿は未定稿につき、不適切な説明などあればご教示ください。
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