ヨーロッパの孫に聞かせる
日本と世界の歴史
第15話 アメリカ合衆国の歴史
岡市敏治
アメリカ合衆国は50州からなる連邦国家で、面積は963万㎢で世界3位(日本の約25倍)、人口も3.2億人で、中国、インドつぐ人口大国だ。
世界の通貨はアメリカのドルを基準にして価値が決められる。ドルが世界でただ一つの国際通貨であることから分かるように、アメリカは世界最大の経済大国であり、また最強の軍事大国・超大国でもある。
アメリカ大陸はアジア系の先住民・黄色人種(モンゴロイド)とヨーロッパからの移民である白人(コーカソイド)、それにアフリカから連れてこられた黒人(ニグロイド)という人類を代表する3人種がここで出会い、異質の文化が遭遇し合って新しい文明を作り出した。そしていまなお作りつつある壮大な実験場である。
アメリカは科学技術や生活・産業基盤、映画、音楽などの世界最高レベルの文明の発進地でもある。
とはいえ、アメリカ独立宣言(1776)からまだ240年しかたってない、とても若い国なのだ。その頃、日本は江戸時代、十代将軍家治の治世で、君たちのいるウィーンは、ハプスブルグ帝国マリア・テレジアの時代だった。
だが、アメリカが独立革命によって新しい共和国を樹立したことは、やがてフランス革命へと続き、世界中に自由の鐘が鳴り響くさきがけとなった。
それほどこの共和国は、それまでに世界になかった新しさを追求していた。立法、行政、司法という三権の分立などはその代表的な例で、いまなお民主政治の基本をなす形態として、世界のモデルになっている。それではこの不思議のクニの扉を少し開けてみることにしよう。
1.大航海時代 ―胡椒を求めて―
15世紀から16世紀にかけて、地球上はヨーロッパ中心の世界を生んだ大航海時代であった。ヨーロッパ人を世界の海にかりたてたもの、それは胡椒である。
ヨーロッパ人は僕らアジア人からみると「肉食動物」と思えるほど肉を食べるね。生肉を調理するうえで、塩とともに欠かせないのが胡椒などの香辛料(スパイス)であった。ところが、胡椒はヨーロッパからはるか離れたアジアのモルッカ諸島などでしかとれず、同じ目方の銀と同等にあつかわれるほど高価だった。
ヨーロッパ人にとって胡椒を産出するアジアは黄金郷であった。そのアジアには、ジパング(ニッポン)のように黄金に満ちている国もあると、ベネチアの商人マルコ・ポーロが『東方見聞録』で書いているではないか。
当時、世界の強国の一つであったポルトガルは、アフリカ西岸を南へ南へと迂回する航路探検を始め、1488年アフリカ最南端の喜望峰を発見、アジアに行き着く航路を拓いた。
ライバルのスペインはあせった。ここでコロンブスが登場する。コロンブスは同じイタリア出身の地理学者トスカネリの「地球球体説」を信じた。トスカネリの海図によれば、西へ大西洋航路をとれば、9000㎞でアジアに到達する。
(喜望峰経由の航路だと、アジアまで約2万㎞。トスカネリの海図には、当然ながら当時ヨーロッパにその存在を知られてなかった南北アメリカも、広大な太平洋も記されていない。トスカネリは地球の周囲を実際の7割程度の29,000㎞くらいだと信じていた。もしコロンブスが第14話に出てくるエラトステネスの地球周囲4万㎞を知っていたなら、航海にふみ切ることはなかったろう。だって1519~22年マゼラン艦隊世界周航の例にならえば、ジパングまで3万㎞もあるんだから。)
2.コロンブスのアメリカ到達
コロンブスはスペインのイザベラ女王の支援を得て、1492年サンタ・マリア号でスペイン・パロス港を出航する。2か月余の航海の後、バハマ諸島の一つの島にたどり着く。その島をコロンブスはサン・サルバドル(聖なる救世主)と名づけた。つづいて、キューバを見つけ、ジパングだと信じたが、黄金の宮殿はどこにも見当たらなかった。彼は島の住民をインディオ(インドの人)とよんだ。コロンブスはアメリカ大陸へその後3回航海をおこなったが、「新大陸」とは知らず、最後までインドの一部に到達したと信じていた。
アメリカ大陸(北)にはこのころ約100万人の先住民が住んでいた。氷河期後期の3万年前、ユーラシア大陸から氷橋となっていたベーリング海峡をわたって、移住してきたモンゴロイドである。彼らは部族的な社会を形成し、狩猟・採集やトーモロコシ栽培によって農耕文化が発達し、独自の文明を形成していた。
ヨーロッパとアメリカがここで初めて交わろうとしていた。それは新しい通商ルートが作られるばかりか、全人類の歴史のうえで異質の文化の遭遇というまったく新しい時代の創造まで意味していた。
先住民が今まで見たこともない皮膚の色の白い人間を知り、ヨーロッパ人が褐色のたくましい姿の先住民を知った以上、アメリカもヨーロッパもいままでのままではいられなくなった。そこから起こる大変動が、やがて人類の歴史そのものを変えていくのである。
3.メイフラワー誓約書 Mayflower Compact
1620年、102人のピューリタン(清教徒)たちが英国国内の宗教弾圧から逃れるべく、プリマス港からわずか180tのメイフラワー号に乗った。65日の航海の末、北アメリカに接岸した。そこをプリマスと名づけるのである。102人のピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)は上陸に先立ち、船上で『メイフラワー誓約書』(Mayflower Compact)を厳粛かつ相互に契約する。
「神と各自相互の前で、契約により結合して政治団体をつくり、之に基づき植民地一般の幸福のために、最も適当と認められる所により、随時、正義公平な法律・命令を発し、憲法を制定する。我らはすべて之らに対し、当然服従すべきことを誓約する。」
このメイフラワー号の誓約書はフランス啓蒙期の天才的な思想家ルソー(1712~78)の社会契約説をおもわせる。ルソーは書斎で思索し、紙の上に書いたのだが、このメイフラワー号のひとびとは、せっぱつまった現実のなかでこの思想を成立させ、定着させた。しかもルソーに150年先んじているのである。
かれらは誓約書をつくっただけでなく、全員が署名をすることによって、相互に契約するということをおこなった。かつ「正義公平な法」に対して服従をちかった。法が、主人になった。人はそれに対して服従をちかう。小さなアメリカがここでできあがった。
日本史でいえば、大坂夏の陣がおわって5年後のことである。江戸時代が始まろうとしていた。
4.代表なくして課税なし No taxation without represation
ピルグリム・ファーザーズの時代から150年たった1770年代、北アメリカ東部にマサチューセッツ、ニューヨーク、ヴァージニア等13のイギリス植民地ができていた。
イギリスは植民地のアメリカに対し、重商主義政策をとった。つまり植民地であるアメリカは、本国イギリスに対して「原料供給地および市場」として機能すればそれでよい。これが本国の発想だった。
羊毛品法、帽子法、砂糖法、さらには酒、茶、紙などに高率の関税をかけた。その結果、アメリカの土着産業は抑圧された。たとえば羊毛品法だとこうなる。
「おまえら(アメリカ人)は羊を飼っていいよ。だけど、セーターを作っちゃだめだ。セーターはこっち(イギリス)で作るから、イギリスのセーターを買えばいいんだ。」
1765年の印紙法では、アメリカで刊行される印刷物すべてにイギリス発行の切手(有料印紙)をはることを義務づけた。怒ったパトリック・ヘンリは「代表なくして課税なし」”No taxation without representation”と名言を吐いた。これはもとはといえば、イギリス本国における憲政の重要な理念の一つだ。アメリカはこれを逆手にとって、印紙法を撤廃させた。
1773年のボストン茶会事件によって、イギリス本国とアメリカの衝突は避けられない事態にまで進展した。1775年独立戦争の火蓋が切っておとされた。レキシントンとコンコードにおいて、イギリス軍と植民地の人たちは武力衝突する。
5.アメリカ独立宣言 Declaration of Independence
1776年アメリカは独立宣言を発布する。起草者は33才のトマス・ジェファーソン。
「われわれは次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人間は、生まれながらに平等であり、創造主によって、一定の犯すことのできない権利を与えられ、そのなかには生命、自由、そして幸福の追求(pursuit happiness)が含まれていること。」
こう高らかにうたいあげた。さらにつづいて「この目的に合致しないような政府は人民がこれを廃止し、人民の安全と幸福を目的とする新しい政府を樹立する権利がある。」こう宣言した。これは「革命権」ではないか。イギリス本国が非道・不正義を行うなら、アメリカはそんな政府をぶっこわしてよい。それが常識である、とトマス・ペインはその著『コモンセンス』でいう。この本はアメリカで出版され、発売3か月で12万部を売り切った。当時のアメリカの識字人口を考えれば、本を読める限りの人はこの本を買って読んだのだ。「革命戦争」の気運が一気に盛り上がった。
ヨーロッパ諸国が当時みな専制君主の時代でありながら、この北米では、新しい共和制の国家を創造するという偉大な実験に乗り出したのだった。しかもこの実験は、やがて来たる19世紀の世界の主な潮流になるのである。アメリカ人は、単に植民地が独立したのだとは考えない。これこそ革命なのだ、「アメリカ革命」(American Revolution)なのだとアメリカ人は誇らしげに唱える。だからその革命を成就させるための戦争は、「革命戦争」(Revolutionary War)である。この「アメリカ革命 」が単発の事件として終わらず、その後の世界の流れを変える原動力になったことを考えれば、やはり「革命」と呼ぶにふさわしいだろう。この「革命」の影響を強く受けて、すぐにフランス革命が始まり、長らくスペインとポルトガルに縛られていた中南米各地に、独立運動が沸き起こっていくのである。
たしかに、アメリカの歴史は浅い。しかし、もし近代国家として、アメリカを考えるならば、それはイギリスについで古い国であり、世界でもっとも古い国であるといえよう。
アメリカ独立戦争は、軍司令官ワシントンの不屈の精神による指揮で、極度の戦況不利な数年を切り抜け、ヨークタウンの戦い(1781)でほぼ軍事的な決着がついた。
1783年の「パリ条約」でアメリカの独立が承認され、1789年ワシントンがアメリカ合衆国初代大統領に就任する。当時のアメリカの人口は約250万人だった。
6.フロンティアの拡大
19世紀を通じて、アメリカ人たちは、いつも心の奥にフロンティアをひそませていた。
森を切りひらき、丸太小屋を建てる。カウボーイが大群の家畜を追う。荒野に金をさがす冒険者たちの集落が生まれる……。
もともとアメリカに来た移民たちのほとんどが、信仰の自由や広い土地を求めてやってきたので、開拓者精神(Pioneer Spirit)をもっていた。
さらに本国から遠く離れたところに来ているので、やってきた者同士は深い友情で結ばれ、助け合い、生活の基盤である家族のきずなも固いものだった。夫婦はお互いを尊敬し、愛し合い、そして子供たちを守る。
君のママが君の年令のころ、アメリカの西部開拓時代を描いた『大草原の小さな家』というTVドラマ(実話)があって、何年も放映がつづいていた。君のママは主人公の少女ローラ・インガルスの大ファンで、欠かさず見ていたものだ。
そこには、今いったPioneer Spiritがあふれていた。とりわけ、ローラのお父さんが素晴らしい。ごつくて強くて、正義感にあふれ、家族のためには命を投げ出す勇気と優しさをもっていた。人間の理想だね。開拓者にはそういう「進取の精神」に満ち満ちた人たちが多かった。
開拓者同士助け合っていろんな話し合いをし、会議をもつ。保安官を雇う。それがのちのアメリカ議会政治の基礎になっていく。
19世紀アメリカは、フロンティア拡大(西漸運動)の時代であった。1802年ミシシッピー以西のルイジアナをフランスから、1819年にはフロリダをスペインから買収する。1845年にはテキサスを、1848年にはカリフォルニアをいずれもメキシコから併合する。
1867年にはアラスカをロシアから買収するといった具合に、アメリカは建国わずか60年にして、旧領13州の3倍の面積になった。
この領土拡大をアメリカはマニフェスト・デスティニィ(明白な天命)という表現を使って正当化した。アメリカがこのように膨張をつづけ、デモクラシーを広めていくのは、神から与えられた天命だというのである。しかしそこには、「インディアン」と彼らが名づけた先住民が1万年以上前から住み、バッファローと共生していた。そこは彼らの天地であった。
彼らは必要以上にバッファローを殺さず、その肉は乾燥させて保存食とし、毛皮は衣服やテントとして活用した。腱や骨まで生活用品として丁寧に使っていた。
ところが西部へ乗り込んできた白人たちは、まるでスポーツを楽しむかのようにバッファローを撃ち殺した。先住民は生活資源を奪われ、食料源を失って白人の開拓村を襲うことになるのだった。
7.駅馬車
1829年にフロンティア(西部)出身初の大統領が誕生した。ジャクソン大統領である。ジャクソンの時代に、「インディアン強制移住法」が施行され、先住民たる「インディアン」は住みなれた土地を追い立てられ、政府の定めた居留地(Resavation)への移住を強制された。居留地はミシシッピー以西の荒涼とした僻地に設定してあった。この強制移住は「涙の旅路」といわれ、多くの先住民が移動の途中で倒れた。このように、アメリカのフロンティアの拡大は、先住民の追放・虐殺を伴うものだったのだ。
フロンティアの拡大(西部開拓)で拡大された領土をつなぐ手段は、とりあえず馬しかなかった。駅馬車である。ジョン・フォード監督の名画『駅馬車』は何度見たことか。
アリゾナ州からニューメキシコに行く駅馬車に7人の乗客が乗り込んだ。乗客の一人・復讐の意気に燃える脱獄囚を、若き日のジョン・ウェインが演じていた。
町を追われたあばずれ女、飲んだくれの医者、身重の軍人夫人、賭博師……。それに馭者と護衛の保安官。さまざまな人生を乗せて駅馬車はアリゾナの荒野を行く。
目的地も間近という時、突如インディアンの襲撃にあう。砂塵を巻きあげて疾駆する駅馬車、その駅馬車に疾風の如く追いすがって、おそいかかるインディアン騎兵。倒しても倒しても、インディアンは次から次へと追いかけ追いつき、併走してくる。乗客たちは死を覚悟する…。
『駅馬車』のこの迫真の追っかけを超えるシーンは、今後も出ないだろう。雄大で詩情あふれる西部の荒野を背景に、ジョン・フォードは美しくも躍動感ある映画史上屈指の名画を作り上げた。
私たちは長い間、先住民は白人の西部開拓を妨害する野蛮な未開人というイメージをハリウッド映画を通じて与えられてきた。
インディアンは白人を捕虜にすると頭の皮をはぐという。インディアンはなんて野蛮で残酷な人種だろうと、西部劇を見るたびに思ったものだ。今は思う。歴史を知らないということは罪悪だと。話が逆なのだ。
8.南北戦争 The Civil War
さて、これから19世紀アメリカ史を語る上で最も重要な出来事 ”the War between the States”について話をしよう。つまり南北戦争だ。
この戦争による南北双方の戦死者は62万人、第二次世界大戦のアメリカ人戦死者32万人を大巾に上まわり、史上最悪の戦死者を出すという内戦であった。戦争は1861年に始まり、65年まで続いた。この間大きな戦争だけでも50回、小さな戦闘は数え切れない。両軍ともに、それぞれの大義を掲げ、死力を尽くして戦ったのである。若い移民の国で、どうしてこのような凄惨な内戦が起こったのか。
19世紀半ば、合衆国の西部への発展がすすむと共に、南部と北部の対立が激化していく。もともと南部地域には、黒人奴隷を使用する大農場(プランテーション)が発展していた。とくにイギリス産業革命によって綿花の需要が増大し、18世紀末のイギリス本国の綿繰り機の発明以来、アメリカの綿花栽培が急速に増加した。そのため南部は奴隷制の存続と自由貿易、州の自治を強く要求した。
これに反し、自国の産業革命が進み資本主義の発展した北部は、イギリスに対抗するため保護関税政策と連邦主義を主張し、また人道的にも奴隷制に反対した。北部の自由州と南部の奴隷州とは、西部開拓の結果、あたらしい州がうまれると、その州に奴隷制を認めるかどうかで激しく争った。奴隷制反対をとなえる共和党が結成されるにおよんで、奴隷制をめぐる南北の対立は決定的になった。
1860年、北部の利害を代表する共和党のリンカンが大統領に当選すると、南部諸州は連邦から分離し、翌61年アメリカ連合国をつくって、ここに空前の大内乱である南北戦争がはじまった。人口や経済力では北部が圧倒的にまさっていたにもかかわらず、戦局ははじめ、名将リー将軍の指揮下で善戦した南軍が有利であった。しかし、1863年、リンカンは南部反乱地域の奴隷解放宣言により内外世論の支持を集めた。そして同年のゲティスバーグの戦いに勝利をえて北軍が優勢となり、南部の首都リッチモンドが陥落して南軍は降伏し、合衆国は再統一された。
9.風と共に去りぬ Gone with the Wind
この南北戦争を描いたマーガレット・ミッチェルの長編小説が『風と共に去りぬ』(Gone with the Wind)で、1939年に映画化され、映画史上空前の大ヒット作となった。
この小説は南北戦争に負けて没落した南部の立場から描いたもので、戦争前の南部大地主のぜいたくをきわめた生活や気位の高さなどを良き時代として回顧し、それが戦争で失われたことを残念無念と嘆いている。
若く美しいヒロインのスカーレット・オハラは、ジョージア州タラの大農場主の娘。このスカーレットをビビアン・リーが熱っぽく、しかも気位の高さを失わないで、演じていた。理想の恋人アシュレイに失恋し、怒り狂うスカーレットは、あてつけから愛していない男と結婚するが、夫は間もなく戦争で戦死してしまう。戦火の中で、逞しい野性的な男レッド・バトラーが登場し、スカーレットをしばしば助ける。演ずるクラーク・ゲーブルの磊落豪放なスケールの大きさはどうだろう。南北戦争という巨大な「風」は、南部の伝統も文化もことごとく吹きとばした。
戦火でタラは廃墟となりスカーレットは多くを失う。しかし彼女は父の死後、彼女が大黒柱となって立派に再建しなければならない農場があった。恋も愛も投げ捨てて、いまこそスカーレットは、父親ゆずりの大農場主としての誇りと意地に生きぬこうと決心する。金持ちでありつづけること。落魄の哀傷などという気分は決して認めないこと。ぜったいに誰からも支配されたくないということ。これらの感情はアメリカ的精神の主要な柱であり、それを女性の立場から強烈に謳いあげたところに、この作品の格別の魅力があった。
10.人種のるつぼ
南北戦争によって敗北した南部の荒廃は激しかったが、北部からの資本導入などを契機に工業化が進行する。プランテーションは解体・分割され、産業構造が変化し、「新しい南部」(The New South)となる。
ともあれ、北部産業資本が南部を支配するというかたちで、アメリカの分裂は回避された。こうして国内の経済的一本化が完成すると、アメリカ経済は目覚ましく発展していく。アメリカ資本主義発展の特徴として、早期に独占資本(トラスト)が形成されたことがあげられる。代表的な独占体として、ロックフェラーのスタンダード石油会社とカーネギーのUSスチールをあげることができる。アメリカは天然資源にめぐまれ、また西部の国内市場が拡大(農民が西部大平原に進出し、やがて世界一の小麦の生産量をほこるにいたる)したこともあって、19世紀末には英・独をしのぐ世界一の工業国家になった。
工業発展の原動力の一つは移民による労働力の増加である。建国当初の人口が250万人程度だったのに対し、19世紀前半以降の100年間で3000万人以上の人々がアメリカに移民としてやってきた。当初は西ヨーロッパのアングロ・サクソン系(WASP)が主流だったが、南北戦争以降には南・東ヨーロッパからの移民が増加した。
1870年代の大陸横断鉄道建設に際しては、中国系の移民が西海岸にやってきた。ヨーロッパ系の移民とは風俗・習慣も全く異なり、ヨーロッパ系の人々としばしば摩擦をおこし、大きな社会問題となっていく。つづいて日系移民もやってくる。
アメリカはヨーロッパ系移民を中心に先住民、アフリカ系黒人それにアジア系、中南米ラテン系などの移民が加わって、「人種のるつぼ」と化していくのである。
アメリカは多民族国家、人種差別という世界が今までに経験したことのない難題を抱えて20世紀に入っていくのだが、現代アメリカ史についてはまたの機会に話すことにしよう。
次回は『地球の歴史』だよ。(つづく)
2016.4.1