2014.11.07
ヨーロッパの孫に聞かせる
日本と世界の歴史
第11話 中国の歴史
岡市敏治
中国は人類の生活を激変させる発明を、かつて歴史に登場したどの国よりも多く生み出した。その発明品には、紙、火薬、羅針盤、印刷技術などがある。
だが、最も驚異的なのは、その歴史の古さである。エジプトのナイル河畔やオリエントの肥沃な三日月地帯にも、中国と同じくらい古い時代に文明が出現したが、それらの文明はとっくの昔に崩壊するか、侵略してきた他の文化や帝国に吸収された。
しかし、中国文明は現在にいたるまで、4000年以上も途絶えることなく続いている。驚くべき生命力をもった中国の歴史を、これからたどろうと思うのだが、その前に中国の地理を概観しておこう。
第1章 南船北馬
君のMamaが高校3年のとき、予備校の大学入試模擬試験があった。(今から25年前のことだよ)結果はE評価で、「志望校のランクを下げなさい。」と通知がきた。これ以上ランクを下げたら行く大学がなくなるではないか。原因ははっきりしていた。世界史が35点!
「中国史を勉強していて、河北省とか山西省とか、湖南省とか省の名前がいっぱい出てきて、どこがどこだか分からなくなって、もういやになった。」と君のMamaはいうのだ。一大事である。
地名は地形と関係があるに違いないと僕は見当をつけた。そこで鳥になって中国大陸の空高く舞い上がってみたら次頁のようになってたんだ。(これをBird View、鳥瞰法という。)
中国一の名山は泰山(1524m)。その東に山東省、西に山西省がある。中国大陸を西から東に、黄河と長江という二つの大河が東シナ海に注いでいる。黄河の北が河北省で、南が河南省。長江の河口に江蘇省と浙江省。その西が江西省である。長江の中流域にはこれ又有名な洞庭湖がある。北が湖北省、南が湖南省だ。
その西の四川省には、サルウィン川、メコン川、長江、岷江の4つの大河が流れている。「雲南省は?」 それは四川省から南を見て、山にたなびく雲のかなたの土地のことなんだ。
――君のMamaはこれでふっ切れて、世界史大好き少女になり、翌年の入試で第1志望の大学に見事合格できたことはいうまでもないよ。
中国大陸には南船北馬といわれるように、中央部を流れる准河を境に南と北では地形も気候も全く対照的である。南はモンスーンの影響で夏雨が多く、温暖、湿潤である。川や湖が多く、人々は船によって往来する。稲作が盛んである。
一方、北はモンスーンが届かない。川や湖は少なく、えんえんと黄土大地が続く。馬が有効な交通手段となる。西にタクラマカン砂漠、北にゴビ砂漠がひかえていて、雨量は少なく、気温の年較差が大きい。稲作に適さず、粟、黍、コーリャン、麦など畑作農業がおこなわれている。
第2章 始皇帝と劉邦
中国の古代文明は、黄河のほとりの黄土大地で興ったことは、第9話で話した通りだ。
春秋戦国時代、孔子は社会秩序の安定と平和を願って懸命の努力をしたが、果たせずその志は弟子たちによって引き継がれていく。
孔子の時代から300年後の前221年、秦*の王・政が中国内部のすべての競争相手を打ち破り、天下を統一、始皇帝となった。彼は容赦なく、抜本的行政改革を断行した。農民は過酷に収奪された。全国は郡と県に分割され、その境界は現代まで続いている。北方からの遊牧民の侵入を防ぐため、万里の長城も建設した。
*秦:英語のchinaの語源は「秦」(シン、シナ、チナ)からきている。
首都の咸陽には、富豪12万戸を移住させると共に、1万人を収容できる大宮殿・阿房宮を建造し、郊外には70万人の囚人を動員して世界史上最大といわれる自らの陵墓(始皇帝陵)を築かせた。
1974年、陵の東1.5キロのトウモロコシ畑の下から発見された3つの地下壕からは、死後の皇帝を護る1500体の等身大の兵士、軍馬、戦車からなる素焼きの軍団(兵馬俑)が発見されて、世界中を驚かせた。しかも、発見されたのはごく一部で、全体では6000体にのぼると推測され、今も発掘が続いている。
(今から2200年前のことだが、驚くべき高度な文明世界だね。なにしろ、その頃の日本はまだ弥生時代で、人々は竪穴式住居に住んでいた。同時代のアルプス以北のヨーロッパ世界といえば、どこまでも深い森林が続き、君たちのご先祖のゲルマンやケルト民族が原始的な狩猟採集生活をしていた。)
始皇帝は、ひとりの全能な皇帝によって世界が統一されたことを天に知らせるために、山東省の聖なる山・泰山に登って石碑を建てさせた。その内の二基は今でも残っている。
しかし、当時世界最大規模の壮大な帝国も、始皇帝が東方巡幸の途中で病死すると、後継の皇帝が暗愚だったこともあって、わずか15年で滅亡した。
秦の滅亡後、各地の挙兵勢力のうち、農民出身の指導者・劉邦と楚の貴族出身の項羽が覇を競い合った。5年間の戦いで、最初は武勇に抜きんでた項羽が優勢であったが、度量が広く人材の登用に巧みな劉邦に次第に追いつめられていく。前202年、安徽省の城下で、劉邦軍に包囲された項羽は、周りの敵軍の間から故郷の楚の歌が湧き立つように流れてくるのを聞いて、命運が尽きたことを悟った。項羽は寵姫の虞美人の自決を見届け、包囲を破って楚に落ちのびたのち、自らの首をはねた。好漢、時に31才。
(これは「四面楚歌」の故事で日本の漢文の教科書に登場するので、たいていの日本人は知っているよ。)
項羽を破った高祖劉邦は、前202年に「漢」帝国を建国する。漢は、秦のような過酷な農民支配をやめ、無理な集権化も避けたために、前漢、後漢を合わせると四百数十年も続
いた。「漢字」「漢文」「漢民族」などという言葉は、漢帝国の文化が中国文化の土台になっていることを示している。
今から2200年以上も前の始皇帝や項羽、劉邦の事跡がこんなに詳しく分かるのは、この時代から100年後の武帝の時代に、偉大な歴史家・司馬遷が52万字からなる大著『史記』130巻を著したからである。
司馬遷は、10才で古典を読みこなすすぐれた才能の持ち主で、20才で全国を旅行して見聞を広め、歴史に残る名著を書き残す土台を固めた。
だが実は、彼は武帝に屈辱的な目にあわされている。前99年に勇敢な青年の李陵*が高名の将軍たちが職責を果たさないなかで、匈奴の大軍と臆さずに戦い、捕虜になるという事件が起こった。多くの朝廷人は匈奴の捕虜となった李陵を非難し、一族の処刑を求めたが、事実に忠実であろうとする司馬遷は勇敢な李陵をたたえて弁護した。それを怒った武帝は、48歳の司馬遷を宮刑に処し、去勢してしまった。この死以上の苦悩と屈辱を克服して、司馬遷は中国を代表する膨大な歴史書『史記』を完成させたのである。あくまでも事実に忠実であろうとする司馬遷の不屈の信念により、彼は「中国の歴史の父」と呼ばれる。
*李陵:中島敦の名著『李陵』(新潮文庫)を読もう。司馬遷のことも詳しく書かれているよ。
さらには、孔子の教え・儒教が公の政治理念として定着した。これは漢の時代から20世紀の現代まで続いた。これほど永つづきし、これほど多くの人間の生活を左右した文化的伝統はない。いったい何が中国をこれほど特別なものにし、今日まで存続させてきたのだろう。
その一つが米の恵みである。長江の流域は本流と700本におよぶ支流がたびたび氾濫を繰り返すおかげで、稲作に向く豊かな土壌ができていた。ここで紀元前3000年ごろから稲作が始まっていた。(これはナイル河の氾濫によるエジプト文明の誕生と同じだね。)
米は生産性と栄養価がきわめて高い食糧で、他のどの作物より多くの人口を支えることができた。
ところで、米のできない北方の黄河流域の黄土台地では、養蚕の技術が確立された。紀元前1000年以上前のことである。絹は素晴らしい素材だ。光沢があって、華やかで、天然繊維の中で最も強い。カイコが絹糸を吐くのは、その極細のロープでマユをつくり、自分の身を守るためだ。マユの中で幼虫がサナギになり、やがて羽化してマユから出てくる。黄河流域に住んでいた古代人は、桑の葉を食べるガの幼虫から絹糸をつくる方法をどうやって発見したのだろう。
この養蚕は中国に富と繁栄をもたらした。絹の交易は、陸の交易路を発達させた。中国と西アジア、地中海地方を結ぶ「オアシスの道」は、中央アジアに点在するオアシスの都市を経由し、ローマ帝国で珍重された中国の絹をローマまで運ぶ重要ルートであったため、シルクロード*と呼ばれるようになった。
絹と交換するために、大量の黄金がローマ帝国からシルクロードで中国に運ばれ、中国は非常に豊かになった。
*シルクロード:ドイツの地理学者リヒトホーフェンが名づけた。(1877)
――このように豊穣な稲作が人を養い、世界にここしかない絹が国を富ませ、中国文明は比類のない長命を保つことができたのだよ。
第4章 中国発祥の四大発明―紙、印刷技術、火薬、羅針盤―
紙は今ではどこにでもあるありふれた日用品だが、紙はいったいいつ発明されたのだろう。驚くべきことに、紙は13世紀までのヨーロッパにはなかった。それまで人々はパピルス*や羊の皮(羊皮紙)に字をかいていた。
本がヨーロッパで出版できるようになるのは、グーテンベルグの活版印刷による15世紀からだ。それまでは、修道院の修道士たちが一冊づつ筆写していた。
*パピルスpapyrus:ナイル河畔のカヤツリ草の茎を裂いて造った。Paperの語源。
紙は後漢の時代の105年、官吏の蔡倫がその製法を世界で初めて発明した。桑の木の樹皮をドロドロに溶かし、簾ですいて乾かした。この製法は7世紀には日本に伝わり、古事記や日本書紀は紙に書かれている。
唐の751年、中央アジア北部のタラス河畔で、イスラム軍と唐軍が会戦した。イスラム騎士団に捕われた捕虜の中に唐人紙すき工がいて、これによって、はじめて製紙法が西の世界にひろまった。イスラムからヨーロッパに製紙法が伝わったのは、十字軍遠征(12~13世紀)という戦争によってである。戦争は破壊だけでなく文明も伝達する。
紙の発明に匹敵する偉大な発明といわれる印刷術(活版印刷)も中国が発祥地である。印刷術は唐の時代の8世紀頃に発明されたとされている。
1907年、ハンガリー出身の考古学者オーレル・スタインは、タクラマカン砂漠の端のオアシス都市、敦煌の莫高窟ですごい発見をした。仏教の経典の一つ『金剛教』の巻物である。その巻物には、白い紙に木版印刷で文字を印刷したものを7枚、糊で貼ってあった。そこに西暦でいえば、868年に当たる年号が記されていた。これは世界最古の印刷書籍で、現在大英博物館に保存されている。この印刷術は、15世紀イスラム世界を経て、ヨーロッパに伝わり、グーテンベルグの改良につながった。
12世紀宋の時代、満州を拠点とする狩猟牧畜民の女真族が宋を襲ってきた。宋は南に追いやられ(南宋)、長江をはさんで女真族(金)と激しい戦いが繰り広げられた。ここで南宋は、初めて火器(大砲、火炎放射器)を使った。金は手も足も出なかったという。ちなみに、火薬は唐の時代(9世紀)に道士*たちによって、世界初の試作がなされている。
*道士:漢民族の民間信仰である道教を修めた人
羅針盤は船乗りにとって最も重要な道具であるが、これも宋の時代に羅針盤の原型が作られた。1044年に作成された宋の兵法書『武経総要』には、嵐の中の闇夜に部隊を導く磁石「指南魚」を作る方法が載っている。これらはイスラム経由で西方に伝播、十字軍期にヨーロッパに伝わった。羅針盤は季節風の発見、利用とあいまって、以後の大洋航海を大きく前進させ、“地理上の発見”を促進させた。
――ここまで見てきたように、ルネサンスの4大発明とされる①紙 ②印刷術 ③火薬 ④羅針盤 の発明はいずれも中国由来なのである。これらの技術の多くが宋(960~1276)の時代に、宮廷の官吏たちによって発明、実用化された。
とはいえ、どれほど独創的な技術を発達させたとしても、永遠につづく王朝は存在しない。宋は1276年に滅亡した。
科挙による卓越した官僚制度をもち、ルネサンス四大発明の元祖でもある技術先進大国中国が、どうして近代になってヨーロッパ列強(日本も含む)の植民地の標的にされてしまったのだろう。
第5章 アヘン戦争
絹、茶、陶磁器は、ヨーロッパではとても人気があったが、中国の社会は自給自足できており、海外との交易を必要としなかった。15世紀半ば以降、中国は、海外に艦隊を派遣することもなければ、遠くに植民地を作って交易するようなこともなかった。食料も贅沢品も、すべて国内でまかなえていたからだ。1793年にイギリスが貿易を求めたとき、英国王ジョージ三世に宛てて清朝皇帝が書いた返事にも、それがよく表れている。
「大海原のはるかかなたに住む王よ…わが国のならわしや道徳は、貴国のそれとは大きく異なっており、そなたの国では生まれ得なかったものである…そなたの国の産物など、余は必要としていない。よって、交易を目的として野蛮な外人を何度寄こそうとも、無駄なことである…」(Hinemann,1914)
中国のこのような姿勢(中華思想)は、ヨーロッパ諸国の極度に帝国主義的な行動を招いた。中国がヨーロッパの製品をほしがらないなら、ほしがるようにすればいいのだ。
英国の商人が広東で中国の茶を買いつけ、代金の代わりに手形を渡し、中国の商人はこの手形を、ベンガル人が密輸するアヘンと交換する、というものだった。ベンガル(インド)のケシ畑で作られた何千トンものアヘンが、絹と茶と陶磁器と引き換えに、中国に密輸された。イギリスは、貴重な銀の代わりに、植民地で作ったアヘンを通貨としたのだ。こうして、中国が外国との貿易を必要としないという問題は、中国人を麻薬中毒にすることで解決されたのである。
この結末が1840~42年のアヘン戦争である。これはイギリスの中国に対する侵略戦争であり、100%イギリスに正義はない。
しかし、ヨーロッパの近代兵器を前にして、清朝はなす術もなく、完全屈服する。この勝利によりイギリスは香港島を植民地として獲得する。(学生たちのデモで今もめてるあの香港だよ。)このあと、太平天国の乱(1850~64)、アロー号事件(1856)、義和団の乱(1900)と混乱が続く。一連の混乱に乗じて、列強は続々と中国への侵略を開始、列強による中国の半植民地化が始まった。1911年の辛亥革命によって清朝はとどめをさされる。
秦、漢以来、2000年余つづいた中国の絶対主義君主制はここに終息するのである。
絶対主義君主制の限界
ヨーロッパにおいては、紙と印刷術はルターの宗教革命を後押しし、ルネサンスを加速させた。羅針盤と火薬は、大航海時代を到来させ、来るべき資本主義の市場を開拓した。四大発明は近代ヨーロッパ躍進の原動力となったのである。
それにひきかえ、四大発明の元祖、中国はどうなったのか。大変な可能性を秘めた四つの発明、すなわち紙と印刷術、火薬と羅針盤の発明も、中国においては、政府の管理統制のもとにおかれ、現存する社会秩序を強化する目的にだけ使われるという事態になった。例えば、印刷術は体制側の儒学者の数を増やした。だが、正統派(カトリシズム)に属さない革新的な思想(ルターのプロテスタンティズム)を出版によって広く世人に訴える(聖書の出版)といった、宗教改革期のヨーロッパに展開された劇的な光景はついに見られなかった。
同様に火薬も、地方軍閥の鎮圧を以前よりも容易にしただけで、つまりは、1911年までの長い間、かなり効果的に中国全土に中央の支配権を及ぼすことに役だっただけだった。
要するに、中国の文化と諸制度は、儒教と科挙による絶対君主制として、あまりに高い内的完成度と均衡を得てしまったので、19世紀になってようやく生じたような、外圧による徹底的な社会の崩壊(アヘン戦争から辛亥革命まで)を伴わない限り、何事であろうとも、中国の学問伝統の担い手たちには、表面的、一時的な印象以上のものを与えることができなかった。
中国における絶対君主制のもとでは、一握りの官僚、貴族のみが社会的に優位を占めつづけており、あとの大部分は貧窮した文盲の農民で、フランス革命のような革新の原動力となる市民階級はほとんど育たなかった。
中国では2000年このかた、いくつもの王朝が出来てはつぶれ、つぶれては出来たが、絶対主義君主制という政治社会の枠組みは、ずっと固定したままであったのである。
ここまで書いてきて、前回話した『江戸時代』が、中国と同じ儒教にもとづく絶対主義王政でありながら、幕末、明治維新へと近代化への最短コースを歩めた幸運を思わざるをえない。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧米帝国主義列強が、世界各地に植民地獲得競争を繰り広げる中でのこのような幸運は、世界中で日本にしか訪れなかった。
次回はそのつづきの『明治時代』だよ。 つづく (2014.11.15)
四面楚歌 項王の軍、垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重なり。夜漢軍の四面皆楚歌するを聞く。項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と。 項王則ち夜起きて、帳中に飲す。美人有り、名は虞*。常に幸せられて従う。駿馬有り、名は騅。常に之に騎す。是に於いて項王ち悲歌忼慨し、自ら詩を為りて曰く、 力は山を抜き 気は世を蓋う 時 利あらず 騅 逝かず 騅の逝かざる 奈何す可き 虞や虞や 若を奈何せんと。 歌うこと数闋、美人之に和す。項王涙数行下る。左右皆泣き。能く仰ぎ視るもの莫し。 (司馬遷『史記』項羽本紀) |
*虞:虞美人が自決し、その血に染まった土の上に、翌春、かれんな花が咲いた。
この花を「虞美人草」と名づけた。ヒナゲシの花である。
ちなみに、『史記』は千古の名分で、文学作品としても優れている。声に出して
読んでみよう。