ヨーロッパの孫に聞かせる日本と世界の歴史

 

27話 森を出た人類のまちづくりの物語

―イースター島の悲劇から学ぶ―

 

岡市 敏治

 

 猿が木から下りて森を出た。直立二足歩行を始めて、人類が誕生したのは500万年前。その99.8%を人類は移動しながら狩猟採集生活をしていた。その直近0.2%の1万2千年前、人類は農業革命を起こし、都市国家を作った。文明を維持するために、森林を破壊した。それが何をもたらしたか、イースター島の悲劇から学ぼう。

 

1.ホモ・サピエンス アフリカに誕生

 

 1000万年前のアフリカで異変が起こる。類人猿が生息場所としていた熱帯雨林が乾燥化により縮小し始めたのだ。もともとアフリカでは熱帯の森林がその全土をおおい尽くすほどに広がっていた。サハラ砂漠も、熱帯の森林におおわれていた。その森林に類人猿は生息していたのだ。ところが、アフリカ北部は特に乾燥化がひどくなって、ついに砂漠となってしまった。森林で生活する類人猿にとっては、生息範囲が狭められ、とても窮屈な生活を送らねばならない。それでも、ゴリラとチンパンジーは森林にとどまって生活を続けた。

 狭くなった森林から、サバンナへと進出を決意した類人猿のグループがいた。樹上ではライオンなどの猛獣から身を守ることができるが、サバンナのような開けた大地では常に危険にさらされる。それにサバンナは森林ほど食べ物が豊富でないので、食べ物を探して開けた大地を歩き回らねばならず、二足歩行をするようになった。そして道具を使って身を守る工夫をした。700万年前のことである。このサバンナに進出した直立二足歩行の類人猿こそ、人類の祖先だった。

 500万年前、類人猿から進化した人類(アウストラロピテクス)はサバンナで捕食者を恐れて暮らしていた。石器を使って狩りをしたが、大きなエモノを狩ることはマレで主に植物を集め、昆虫を捕まえ、小動物を追い求め、肉食獣が残した死肉を食らって、あちこち歩き回りながら暮らしていた。

 20万年前、私たちの祖先であるホモ・サピエンスが登場する。サピエンスは、食物を探して移動しながら集団で暮らしていた。火を使ってエモノを焼いたり、あぶったりして調理した。やがて弓矢や針、ランプや舟を発明する。

 7万年前、物語をつくる言語能力を身につけたサピエンスは、未知を求めて世界各地へと拡散していった。Great journeyの始まりである。この時代の狩猟採集民は生きるための知識と技能の点で、人類史上最も優れていたかもしれない。

 なるほど、文明の時代に生きる私たちは、走るより早く車で移動でき、スーパーに行けば、多様な食材をたちどころに入手できる。工場に行って、標準化された作業で8時間働けば、文明生活を享受できる。しかし、3万年前のサピエンスより私たちが知的、身体的能力が高いとはとても言えないし、労働時間が恵まれているわけでもない。

「今日、アフリカのカラハリ砂漠のような最も過酷な生息環境で暮らす狩猟採集民でも、平均すると週に35~45時間しか働かない。狩りは3日に1日で、採集は毎日わずか3~6時間だ。通常、これで集団が食べていかれる。カラハリ砂漠よりも肥沃な地域に暮らしていた古代の狩猟採集民なら、食べ物と原材料を手に入れるためにかける時間は、いっそう短かった可能性が高い。」(ユバル・ノア・ハラリ)

 

2.農業革命は史上最大の詐欺

 

 地球は7万年前から氷河期(ヴュルム氷期)に入っていったが、2万年前を最寒冷期として、氷河期は終わりに向かった。人類の人口増加圧が高まり、マンモスなどの大型哺乳類は乱獲などで絶滅した。

図1:都市国家の成立過程

 人類史にはきわめて重要な転換点がある。1万2000年前にそれが起こった。農業革命である。食糧不足のなか、人類は慣れた狩猟採集から、やむにやまれず農耕という技術革新に着手した。1万2000年前のメソポタミアの「肥沃な三日月地帯」の遺跡からムギ、マメの化石が大量に出土したのだ。人類は農耕を開始し、定住を始めた。

人類は種のほぼ全歴史を通じて狩猟採集民だった。農耕を始めてから現在に至る1万年余りは、人類が狩猟と採集をして過ごした500万年という膨大な時間と比べれば、ほんの一瞬に過ぎない。そして、そのほんの一瞬が地球の大地と海と大気に、過去500万年に起こった変動より大きな異変をもたらした。農業革命がその最初のtrigger(引き金)となった。

 人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量を増やしたが、よりよい食生活や長い休暇には結びつかなかった。むしろ人口爆発を引き起こして、神官や指揮官、スペシャリスト等のエリート層の増加につながった。余剰食糧のおかげで、神殿や宮殿が建った。貯蔵庫の食糧目指して遊牧民が襲ってくるので、城壁の建設と軍隊と指揮官と技術者等のスペシャリストが必要になった。人類史上初の都市国家の成立である。(図1)人類の9割以上を占める農耕民は飽食のエリート層を養うため、毎朝起きると、額に汗して畑を耕し、水桶を運んだ。

「農業革命は史上最大の詐欺だった。人々は小麦のそばに定住せざるをえなくなった。私たちが小麦を栽培したのでなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。」(ユバル・ノア・ハラリ)

 農業革命によって、人類は自然との親密な共生関係を捨て去った。人類は土地を耕し、麦や豆、イモ、トウモロコシの栽培を始めた。神殿や宮殿、船を作るために、森林に分け入って木を切りはじめた。自然・人間搾取さくしゅ系の文明が始まった。

 同じころ、野生動物(羊、ヤギ、牛、馬、ラクダ、トナカイ)を飼いならして、共に移動しながら、草原で生活していたのが遊牧民である。

 

3.メソポタミアとギリシャのミケーネ文明は森林破壊で滅びた

 

 人類が文字で綴った最古の物語は、農業革命が起こったメソポタミアで見つかった。5千年前の粘土板だ。粘土板に楔形くさびがた文字で書かれた叙事詩『ギルガメシュ物語』には、シュメールの都市国家ウルクの王ギルガメシュが、友人エンキムドウとともに、森の神フンババを殺害する物語が書かれていた。

 半神半獣のフンババは、レバノン杉の森を数千年の間守ってきた。嵐のようなうなり声をあげて襲いかかるフンババを、エンキムドウはその頭を切り落として殺害した。ギルガメシュ王は強力な青銅の手斧おのでレバノンスギの森の木を切り倒した。古代メソポタミアでは、神殿を建てるにも、交易の船を建造するにも、日常のパンを焼くにも木が必要だった。人類の輝かしい発展を約束したはずの都市文明の誕生は、実は大規模な森林の破壊の第一歩であった。

 

 君のママが大学院(大阪大学大学院国際公共政策研究科)に入学した春、僕は22歳の君のママとギリシャを旅した。アテネからデルフィまで海岸部を車で移動したが、終日橋を渡ることがなかった。川がないということは、山に木がないということだ。見渡す限り森林は見つからない。冬草の生えているところで、羊が草をはんでいたりするが、山々は乾燥した石灰岩のハゲ山である。

 しかし、そのギリシャにも古代には、うっそうとした森林があったことが、花粉分析[1]によって明らかになっている。今から3500年前、ギリシャのミケーネは、地中海の交易支配権を握って繁栄していた。ミケーネはペロポネソス半島の豊富な森林資源を背景に、ミケーネ式土器や青銅製品を輸出した。土器を焼き、青銅を製錬するには木材が必要である。それら製品をエジプトや南イタリアまで輸出するための船を作るにも良質な樹木が必要だった。新たな農耕地の開拓によっても、森林の伐採が急速に進んだ。経済の発展と人口の増加によって引き起こされた森林破壊は、ミケーネ周辺の森を消滅させた。

 ギリシャの年間降雨量は400mlで、日本の四分の一、雨は冬期に片寄っており、植物成長の夏に雨が降らないから、ギリシャに限らず、地中海地方では、いったん木を伐採すると、森は再生することなく、山は岩だらけのハゲ山になってしまう。(26年前、君のママが見たギリシャのハゲ山も、かつては大森林だった。)そして、森林が消失するとともに、ミケーネ文明も滅んだ。

 

 [1] 花粉は強い膜をもっていて、湖底など酸素の影響を受けない所に落下すると、何万年も腐らないで残る。ボーリングで堆積物を採取し、花粉の化石を調べることで、過去の森の状況を復元できる。

 

4.ヨーロッパの森は農地開発と教会のステンドグラスとワイン樽のために消滅した

 

 今から100年前、哲学者和辻哲郎教授(1889~1960)は、ヨーロッパ留学のために、「モンスーン風土」の日本を出航した。和辻教授を乗せた船は「砂漠風土」のアラビア半島を回って、地中海に入る。日本を出発して40日、マルセーユから上陸した和辻は、君たちの住んでいるドイツに長く滞在した。

 ヨーロッパには森がない。どこまで行っても牧草地が広がっていた。なるほど公園のような森はある。その森には、ブナが整然と生えていた。広大な牧草地と端正な疎林、それは雄大で美しい光景だが、なにかしら不自然さを和辻は直感した。

 ヨーロッパにはかつて全土にわたってブナやナラの大森林があったことが、花粉分析によってわかっている。その大森林が12世紀以降少しずつ切り開かれ、定着農耕が開始されていく。農業生産の拠点を「荘園」(図2)という。荘園は広大なヨーロッパの森林の各所に点在していた。その荘園をいくつかまとめて、「封建諸侯(領主)」が誕生する。各地の領主をまとめ上げたのが王で、ここにヨーロッパ封建社会が誕生した。

 荘園には必ず教会が建設された。教会の高い尖塔を飾ったステンドグラスの製造のために、大量の燃料が必要だった。荘園ではワインづくりが盛んだ。そのワインの樽にも木材がいる。大航海時代となって、外洋航海の帆船のマストと造船のために、これまた大量の木材が必要だった。かくして、ヨーロッパ中の森林は、中世末期(16世紀)には伐採し尽くされた。

 フランクフルトの年間降雨量は600㎜で、日本の三分の一強だ。その雨も冬雨が主で、植物が生育する肝心の夏場にほとんど雨が降らないので、森林を伐採したあとには、牧草しか生えない。和辻が見た整然としたドイツのブナの森は、19世紀以降に植林されたものだった。和辻はヨーロッパを「牧場風土」と規定したが、和辻の直感は正しかった。

 森林を破壊し尽くしたヨーロッパ文明は、メソポタミアやギリシャのように滅びなかった。なぜか。大航海時代になって、ヨーロッパはアメリカ大陸を植民地にした。そのアメリカ大陸には、手つかずの森がいっぱい残っていた。大西洋の向こうから、ふんだんに木材を入手できたので、ヨーロッパは少しも困らなかったのである。

 

5.イースター島の悲劇

 

 もしヨーロッパが木材を他の地域から輸入できなかったとしたら、ヨーロッパ文明はどうなっていたろう。この問いは、地球の未来を知るために重要である。

南米チリから4000㎞離れた南太平洋上にあるイースター島は、面積120㎢の小さな火山島である。(鹿児島県徳之島の半分くらいの大きさだ。)最も近い有人島まで2000キロも離れていて文字通り絶海の孤島だ。この島にモアイという巨大な石像があることはよく知られている。大きいものになると、高さ20m、重さ90t、全部で1000体以上もある。それが島の海岸部に突っ立ったり、倒れたりしている。(図3)

図3:イースター島のモアイ像

 

 ノルウェーの文化人類学者ヘイエルダールが、その巨石文化は南米のインカ帝国から伝えられたとする仮説をたて、筏いかだのコンチキ号で、ペルーからタヒチ島まで8000キロの大航海(漂流)を試みたことは、第23話で話した通りだ。 

 1774年にクック船長がこの島を訪れたとき、モアイ像の多くが倒されていた。巨大なモアイを倒すのは、たやすいことではない。いったいイースター島になにがあったのだろう。この巨大なモアイ像を作ったポリネシア系の人々がイースター島にやってきたのは5世紀のことである。8世紀ごろからモアイが盛んにつくられるようになる。しかし、17世紀にこのモアイの文明は忽然と崩壊する。その背景には、森林の消失があった。島の人々の生活を支えたのは、豊かな土壌を背景とした農業と漁業だった。ところが、繁栄を極めたモアイの文明は、島の人口が1万人に達した17世紀ごろ突然崩壊した。人口の増加が小さな島の森林を壊滅させた。(図4)

 人口の増加と森林の崩壊によって、土壌浸食が加速し、土地がやせて、バナナやイモの収穫量が激減した。カヌーを作る木もなくなり、漁をすることができない。カヌーがないから、2000キロも離れた別の島へ脱出することもかなわなくなった。

 島の人々は食糧危機に直面する。食糧をめぐる部族間の抗争で、部族の祖先神であるモアイは次々に倒されていった。食糧危機に端を発した戦争に勝者はいなかった。最後には、人々は共食い(カニバリズム)を始めた。1万人いた島民は111人になった。

「孤立状態にあったがゆえに、資源の過剰開発によってみずから破滅した社会として、イースター島は最も明確な事例である。」(ジャレド・ダイアモンド)

イースター島の文明が、小さな島の森を食いつぶして崩壊したように、広大な宇宙空間で唯一生命をはぐくむ緑の惑星地球、その地球の森林を台無しにしたとき、人類は地球からいったいどこへ、escape(脱出)するというのか。

 

6.一神教のユーラシアは自然・人間搾取系の文明

   

 地球上の生物の中で、植物だけが太陽エネルギーを直接利用して、有機物(炭水化物C6H12O6=根、茎、葉、果実)を作ることができる。人間と動物は、有機物(植物)を食べる。植物を食べて育った動物を食べる。植物は4億年という長い年月かけて、陸地を緑化してきた。植物は水を土の中にとどめ、陸地からの水の蒸発を増やしている。森林は地球を支える。土を作り、動物を養い、気象をさえ左右する。

 

 森林のおかげで、人類は文明を立ち上げることができた。その文明が森林を消失させようとしている。植物は太陽エネルギーを使って、CO2を吸収することが出来る地球上唯一の生物だ。木は成長と共に、幹や葉や果実として、空気中のCO2を固定する。

        6CO2+6H2O→C6H2O6+6O2 (光合成)

 

 森林の減少は、地球温暖化の危機にも直接つながっているのだ。人類と森林、文明と地球環境を調和させる持続可能な文明(sustainable civilization)は可能であろうか。それを地球レベルで図5(前ページ)にまとめた。

前話で使ったユーラシア模式図で説明を試みてみよう。ユーラシア大陸は閉鎖された巨大な島だ。①中国、②インド、④地中海・イスラムで、5000年前古代都市文明が栄えた。その頃、③ロシア、⑤西ヨーロッパは未開の大森林地帯だったが、徐々に開発が進む。

 ①~⑤は農耕の民である。農民は森林を切り開いて農地とした。都市国家が成立すると、乾燥地帯(悪魔の巣窟)から遊牧民が襲ってくる。

 長安、バグダッド、モスクワ、ウィーン、パリ…。すべての都市が城壁で囲まれた。この城壁のレンガを焼くために、大量の燃料が必要だった。建築材、造船、冶金やきんのためにも森林が破壊されていった。

ユーラシアは一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の世界である。一神教は過酷な砂漠で生まれた唯我独尊の宗教で、他教を厳しく排除、殲滅せんめつする。ユーラシア文明は自然を相対化する自然・人間搾取系の文明である。自然は征服の対象となった。

 こうしてユーラシア大陸から森が消えていく。森の消滅とともに、諸文明も消えていった。その中で、⑤西ヨーロッパ文明だけが残った。産業革命を起こした西ヨーロッパは、工業製品を輸出して、植民地化した南北アメリカ大陸やアフリカから、望むだけ木材を輸入できた。

 

7.多神教の日本列島は自然・人間循環系の文明

 

 ⑥日本列島は、ユーラシア大陸から程よく離れた太平洋の孤島である。縄文時代の1万年間、平和を維持した森の民である。700年前の遊牧民の襲撃も撃退した(蒙古襲来)。日本の縄文文化は、温帯の落葉広葉樹の森の成育に適した湿潤温暖の海洋風土のもと、森の文化として出発した。

 古代メソポタミアやエジプト文明華やかだった5000年前、日本列島では今年、世界文化遺産に登録された「三内丸山遺跡」に象徴される縄文文明が栄えていた。三内丸山遺跡は、当時の世界中の集落の中で、世界的な大都市といっていいくらい、人口密度の高い集落だった。武器はなく、城壁で囲まれた形跡もない。

 縄文人たちは、春は山菜や貝、夏は魚介類、秋は木の実、冬はイノシシやシカ、カモシカと季節に応じた生業を循環的に繰り返していた。(図6)

図6:縄文カレンダー

 むやみに幼獣を殺したり、必要以上に自然から収穫することも避けていた可能性が高い。木にも石にも山や川、そこいらを駈け回るウサギや鹿にも神が宿る多神教の世界で、共生と循環をベースとする平和の民であった。

 三内丸山遺跡と同じ青森県で、世界最古級の縄文土器が発掘された。16,500年前のものだ。これで煮炊きをしていた。縄文人たちが森の中に家を作り、土器を使って定住革命をやったということは、おそらく世界で最初に家族を成立させた証あかしだろう。

 日本列島では、遊動的な狩猟採集社会に比べれば、ずっと密度の高い定住社会を、世界に先がけて始めていた。その頃、世界中に散らばった人類は、食物を求めて移動しながら、狩猟採集生活を送っていたのだ。(ユーラシアの人類が定住を始めるのは、農業革命の起こった1万2千年前以降である。)

 日本列島の雑木林は、伐採しても、モンスーン風土(夏場の高温多湿)のお陰で、20年もすれば再生する。日本列島には定住できるだけの豊かで再生可能な森と、豊穣な海があった。三内丸山遺跡では1500年間も定住生活が続いていたのである。

「日本文明の背景には、いつも森があった。メソポタミア文明や地中海の諸文明が、その背景となる森が消滅していくとともに、衰退していったのとは対照的であった。森の文化は永続性が高い。そして、その森の文化を支えているのは、自然―人間循環系の再生の循環システムを持つ地域構造であった。そうした再生の循環システムを持つ地域社会は、日本の山村のなかに、縄文時代以来、1万年以上にわたって、連綿と受け継がれてきた。」(安田喜憲『世界史の中の縄文文化』)

 今まで見てきたように、日本列島人は縄文以来、豊かな森の中で、知恵ある生活を平和に送り、自己完成度の高い固有文化を形成していた。日本列島は「ユーラシアに対峙たいじした独立の一文明圏」(サミュエル・ハンチントン)であったのである。そして、この文明こそ世界が生き延びる方向を示唆している。人類の原点は森にある。森から出て人類は文明を築いたが、人類は再び原点に立ち返り、森と共生すべき局面に立ち至っている。

 

8.SDGsで持続可能な地球へ

 

 中国武漢に端を発したコロナウィルスは、2021年のグローバル化した世界に、またたく間に蔓延した。14世紀のペストでは、ヨーロッパ人口の三分の一、3000万人が命を落としたが、流行はユーラシア大陸に限定されていた。今回の新型コロナウィルスは、変異を重ねながら、700年前の馬車でなく、ジェット機に乗って超音速で地球規模に拡散した。

 感染者の致死率は2%なので、世界人口78億の2%、1億5600万人が亡くなる可能性がある。それでも、地球上には76億4400万人が生き残る。ヒトという種が生き延びるのに十分な人口である。

 人類文明に対する真の脅威は、コロナ禍ではなく、①「地球規模の不平等」、②「温暖化による気候変動」、③「森林消失などの資源枯渇」だ。これら3つの脅威は、コロナのように直ちに死に至るわけではないので、気づきにくいが、事態は確実に悪化の方向をたどっている。この3つの課題は相互に関係している。どうすれば世界はこれらの脅威に立ち向かうことができるのだろう。

 そこに登場したのがSDGsである。SDGsとは何か。2015年の国連総会で、加盟193ヵ国すべてが賛同した「持続可能な開発目標」Sustainable Development Goalsのことである。目標は17ある。そしてそれらを2030年までに達成するのだ。SDGsには私たちがこの先も、ずっとこの地球上に住み続け、人類が繁栄していくために、日本と世界がやらなければいけないことが詰まっている。つまり、SDGsとは「未来の地球のかたち」なのだ。先にあげた人類文明に対する3つの脅威に対しては、次の目標を掲げている。

人類文明に対する3つの脅威

SDGsが掲げる目標

① 地球規模の不平等

② 温暖化による気候変動

③ 森林消失などの資源枯渇

目標1:あらゆる場所で、あらゆる形態の貧困を終わらせる

目標13:気候変動に立ち向かう

目標15:持続可能な森林管理を行い、砂漠化を食い止める

 

9.SDGsで現代のまちづくり

 

 現代のまちづくりについては、次の目標があがっている。

  • 目標11:災害に強い持続可能でresilientな参加型まちづくり 

 地球の構成員である僕たちも行動を起こそう。この目標をかかげて、君のママの生まれ故郷茄子作で現代のまちづくりに挑もうではないか。茄子作はニッポンのパワースポットだ。(図7)

 

 茄子作(なすづくり)は枚方市の南部に位置し、今から580年前の室町時代に創建された春日神社を中心とする歴史と伝統を持った由緒ある地域である。この一帯は交野ケ原かたのがはらといわれ、平安貴族の遊猟地として和歌にも詠まれた景勝の地である。生駒山系から流れ出て、この地を淀川へと北流する天の川は、七夕伝説発祥の地としても有名だ。(図8)この地区の南の縁ふちを東西に縦貫する第二京阪国道が2010年に開通して、僻遠の地であったこの地域の交通利便性は劇的に改善された。

図8:天の川銀河伝説(岡市裕子絵)

 

 奈良・平安時代の大昔からほぼ1000年もの間、淀川が京都・大坂をつなぐ文明の通路であり、枚方はその中継地として栄えた。しかし、これからは道幅80mもある第二京阪国道が枚方40万都市を日本列島国土軸へとつなぐ主要幹線となる。北から南へ、淀川から第二京阪国道へとパラダイムシフトが起こった。今回、私たちがまちづくりに取り組もうとして いる茄子作地区25haは、枚方市が高速道路と面でつながる唯一のまちづくり区域である。

 ここで私たちのご先祖たちは、1700年以上前の弥生時代から稲作農業を行ってきた。しかし日本人はお米をあまり食べなくなり、営農者も高齢化、後継者難でこのところ放棄田が増えてきた。第二京阪国道のインターがすぐそばにあり、車が増えて沿道沿いに飲食店が建ちだした。このままでは奥の田んぼは袋小路となって、ますます荒廃が進むだろう。

 土地区画整理法による計画的まちづくりを進めたい行政の支援もあって、2020年ここにまちづくり準備組織が立ち上がった。リーダーである理事長は君のオパ(おじいちゃん)だ。 

 当地区には、田畑だけでなく、換地が必要となるかもしれない居宅20軒と工場が1社ある。この方々が強い不安を持たれるのは当然である。SDGsの理念は、持続可能な開発のために「だれ一人取り残さない」 No one will be left behindである。私たちは住民参画型まちづくりで、地域社会と環境に調和した、未来世代に誇れるまちづくりを目指す。まちびらきは7年後の2028年だ。

 

 アフリカで人類が誕生したところから始めたこの物語も、そろそろおしまいだ。新型コロナの感染拡大は、2021年11月現在、日本では急速に収束に向かっている。が、第6波の懸念もある。ヨーロッパはどうだろうか。コロナ禍が収束したとしても、世界はさまざまな問題に直面している。先にあげた①地球規模の不平等、②地球温暖化、③森林等の資源枯渇だ。これらは喫緊の世界的危機といっていいだろう。この苦境はこれまで世界が体験したことのない史上初めての地球的規模でのカタストロフィーCatastrophe、グローバルな崩壊だ。

ところで、人類の長い歴史の中で、今回のコロナ・パンデミックは、どんな意味をもっているのだろう。感染症がこれほどの世界的な脅威となったのは数世紀ぶりのことで、無論80年の僕の人生で初めてのことだ。ここで、再び世界の賢人ユバル・ノア・ハラリに登場してもらおう。

「もしこの感染症の大流行が、人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウィルスにとって最大の勝利となるだろう。対照的にこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウィルスに対する勝利だけでなく、他のグローバルな危機への勝利ともなるだろう。危機はみな好機でもある。ナショナリズムに基づく各国孤立主義がもたらす深刻な危機に、人類が気づく上で、現在の大流行が助けになることを、私たちは願わずにはいられない。」

 

 次回は『アフリカとインドの歴史』だよ。                             

                                                  2021.12.1