22話 ロシアの歴史

 

 

—ラスコーリニコフと大黒屋光太夫—

 

岡市敏治

 

 

  ドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『戦争と平和』は世界文学の至宝である。過酷な専制君主国家ロシアで「いかに生くべきか」を問うたインテリゲンチャの苦悩は、ロシア革命へと突き進む。

 

 帝政ロシアのあくなき東方侵略の先に鎖国日本があり、伊勢の漂流民大黒屋光太夫の酷寒ユーラシア大陸横断の大冒険を生んだ。

 

 

1.『罪と罰』はロシアを震撼させた

 

 

 帝政ロシア1865年のある夏の夕暮れ、どこの何者だかわからぬみすぼらしい服装をした一人の青年がペテルブルグの街をうろつきながら何のことやらわからぬことをつぶやく。「一体あれが俺にできるのだろうか。そもそもあれがまじめな話なのだろうか。」

 

 このみすぼらしい服装の青年こそ、ラスコーリニコフである。ラスコーリニコフは聡明な頭脳と優しい心を持ちながら、貧困と激しい疑惑によって何もかもめちゃくちゃにしてしまった憐れな肩書だけの大学生であって、それ以外の何者でもない。そして、この2日後には質屋の老婆の頭上にラスコーリニコフの斧が振り下ろされ、鮮血が床に飛び散る。読者はいやおうなく、この世にも奇怪な人殺しを行う青年インテリゲンチャの内部世界の住人となる。

 

 彼と共に犯罪心理の紆余曲折をたどったあげく、斧が振り上げられ、血が流れる様を読者は息を殺して眺め、吐息をつく。それはまるで着物の端を機械の車輪にはさまれて、その中へじりじりと巻き込まれていくのと同じであった。それがラスコーリニコフにとって、決行ということであった。まさに何もかもこの通りでなければならぬ。仮にあれが自分であったとしても他にどんなふうにできたであろう。

 

 ドストエフスキー(Dostoevskii182181)の『罪と罰』は18661月から雑誌「ロシア通報」に掲載され始めたが、ラスコーリニコフの殺人の場面が誌上に現れたのとほとんど時を同じくして、モスクワで同じ事件が現実に現れた。ある大学生がラスコーリニコフとほとんど同じ動機から、金貸業の男を殺して金品を強奪した。

 

 1866年という年はロシアのどこへ行っても『罪と罰』事件で話は持ちきりだった。ロシア中が『罪と罰』病にかかっていた。『罪と罰』という血なまぐさい事件がロシアに突発し、人々は何とも知れぬ新しい恐怖に捕らえられ、恐怖はたちまち伝染した。

 

 ドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフという新しいハムレットを描いた。それは『ハムレット』に劣らぬ成功を博したといえるだろう。『罪と罰』はいかに生くべきかを問うたある「猛り狂った良心」の記録である。ドストエフスキーはラスコーリニコフという青年によって、ロシアのインテリゲンチャの悲劇が語りたかった。ラスコーリニコフは苦行者である。

 

 19世紀ロシアの国民のほとんど9割が農村に住んでいた。そしてその過半が農奴であった。農奴制は西欧諸国では中世末から近代にかけて消滅したり廃止されたが、ロシアでは18世紀にさらに強化された。農奴は土地所有権を否定され、領主の私有財産権として扱われた。土地及び家族を切り離されて売買され、奴隷制と何ら変わらないものになっていた。

 

 ロシアは西欧のように複雑な社会でなく、皇帝(ツァ-リ)と農奴だけで、その中間にインテリゲンチャがいた。ツァ-リの君主権、国家権力は他国に比し、圧倒的に強力な専制君主制である。その専制君主制がロシアでは建国以来1000年間続いた。これは驚くべきロシアの特色である。

 

 ドストエフスキー             

 

ラスコーリニコフを演じるゲオルギー・タラトルキン

 

 

2.トルストイとドストエフスキーは怒れるロシアのインテリゲンチャ

  

 

 ツァーリの独裁していたロシアは、西欧のルネッサンスも宗教改革も経験しなかった。この大経験以後蓄積された西欧の教養がロシアに入ってきたのは19世紀半ばである。そして、これを受けとった役人にも軍人にもなりたくなかったインテリゲンチャは旧態依然たる独裁国家に暮らしていた。政治活動は無論のこと、政治思想の発表にも自由はなかった。あらゆる新思想が政府の監視下にあった。外来の新思想にかき立てられたインテリゲンチャの燃え上る思いは、もっぱら文学のうちに集中された。文学は彼らの憤懣(ふんまん)と絶望の産物であって、彼らには()みつく家はない。ロシアのよう国に居を構えるのは罪悪である。

 

ここで敬愛する思想家小林秀雄に登場してもらおう。

 

 ロシアの19世紀文学は、一と口に言えば、本質的に革命文学である。例えば、トルストイに人道主義を読んだり、ドストエフスキイにキリスト教主義を読んだりしているのは、私達の呑気(のんき)な文化環境がさせた業で、二人を裸にしてみれば、無政府主義的革命家の顔が現れるのです。文士になるとは文士という自由職業に従事する事ではなかった。そのような暇は誰にもなかった。ロシアの近代思想史とは即ちロシア近代文学史に他ならないが、それは又ロシアのインテリゲンチャの歴史に他ならない。

 

ロシアのインテリゲンチャと言いますが、インテリゲンチャ(intelligentsiia)という言葉はロシア語なのです。苛烈な専制の愚劣と無言な国民の圧力との間に挟まれて、如何に生くべきかを問う、この極めて困難な問いの吐け口を、一と筋に詩や小説や文芸批評の中に求めたロシアにしか見られない人々を、ロシア語でインテリゲンチャと呼ぶのです。ロシアの19世紀文学ほど、恐ろしく真面目な文学は、世界中にありません。文学は書かれたというより、むしろインテリゲンチャによって文字通り生きられた。人間如何に生くべきかという文学の中心動機だけが生きられた、と言った方がよい。ゴーゴリとかトルストイとかいう大作家を遂に断食で死なせたり、のたれ死をさせたりしたのも、それが為だ。(小林秀雄『ソヴェットの旅』)

 

 

3.ラスコーリコフの斧は爆弾となって皇帝を倒す

 

 

 ロシアのインテリゲンチャに最も強く作用した外来思想はソシアリズム(社会主義)であった。『罪と罰』を書いていたときのドストエフスキーは43歳であるが、その15年前の28歳のドストエフスキーは、社会主義を研究するペトラシェフスキー事件に連座して死刑判決を受けた。彼はまぎれもなく過激派であった。刑の執行直前に、刑場に皇帝の赦免状が届いて、銃殺直前のドストエフスキーは、シベリア流刑(10年)に減刑されるという劇的体験をした。文学という仮面をかぶるのに苦心したロシアのインテリゲンチャの言葉には、銃殺とシベリア流刑とが賭けられていたのである。

 

 ラスコーリニコフが持っていたのは、言葉ではなく斧であった。この狂った魂はうえている。全体か無かに賭けている。彼の斧はやがてテロリストの爆弾となってアレクサンドル2世(AleksandrⅡ:在位185581)の前で炸裂する。アレクサンドル2世暗殺執行委員会の地下運動は執拗につづけられ、1881年ついに7回目の加害が成功する。ドストエフスキーが死んで間もないころである[1]次はアレクサンドル3世の暗殺計画だ。レーニンの兄はアレクサンドル3世暗殺の陰謀で、19歳で処刑された(1887)。1917年のロシア革命で、レーニンが兄の(かたき)を討ったのは、誰れも知るところである。

 

 

 4.大平原国家ロシアの悪夢

 

 

 ウクライナのキエフ(Kiev)にロシア人の国家ができたのは、9世紀である。(9世紀といえば日本では貴族文化が栄えた平安時代だよ。)このキエフ国家は、ロシア国民のなかから生まれた国ではない。海賊を稼業としていたスカンジナヴィアの隊商たち(ヴァイキング。実質は軍隊)によって()てられた。彼らは海から川を逆のぼって内陸に入り、先住していたロシア農民を支配して国をつくった。風俗も言語もまるで違う国家権力を代弁する少数の一団と、国民となったロシア農民とはその教養を全く異にしていたということが、ロシアの歴史の最大の悩みとなった。そしてこの事情はラスコーリニコフの時代まで続くのである。

 

ここで第20話の「ユーラシア模式図」を思い出してほしい。

 

ユーラシア模式図

 

  ユーラシア大陸中央部の乾燥地帯は悪魔の巣窟。

  この地域から遊牧民が暴風雨のように文明社会に襲いかかった。

 

ロシアの東側には巨大な乾燥地帯(ユーラシア中央部)があるだろう。ここはオアシスの点在する砂漠かステップで、その(ふち)に森林ステップとサバンナがある。ここは悪魔の巣窟なのだ。紀元前の昔から匈奴(きょうど)やフン族、モンゴル族などの強悍なアジア系遊牧民族が東からウラル山脈を越えて次から次にロシア平原にやってきては、わずかな農業社会の文化があると、それを荒らし続けた。人類は農耕をすることで食の安定を得、定住するということで文明を築いてきた。ところが、遊牧民はそういう定住文明に対する同情なき破壊者であり、略奪者であった。

 

 ロシア国家の成立が遅かったのもこの事情によるし、できた国家も極端な独裁者体制で、西ヨーロッパのような封建制度は成立せず、したがってブルジョアジー(市民階級)も育たず、農奴制のまま専制君主国家が1000年間つづいた。広大な国土をもったロシアは、まことに(つら)い国なのである。

 

 

5.259年間続いた「タタールのくびき」

 

 

12世紀末、モンゴル高原で黒い竜巻のような勢いが発生した。周りの遊牧民族を斬り従え、その勢力は西方へと伸び、イスラム圏を火のように焼きつくした。チンギス汗の世界制覇が始まった。西征はチンギス汗の孫バトウに受け継がれる。

 

 当時ロシアの平原には都市が出来上がりつつあった。その代表的な都市であるモスクワは、バトウ率いるモンゴル遊牧民族によって破壊しつくされ、キエフも瓦礫(がれき)の山となった。モンゴル軍はロシア平原に居すわってキプチャック(Kipchak)汗国(12431502年)を建国する。

 

 以後ロシアにおいて「タタール[2]のくびき」といわれる暴力支配の時代が続く。わずか1万人足らずのモンゴル騎馬民族が、259年にわたって広大なロシア平原を支配したのである。その支配は徹底した収奪であり、ロシア農民は半死半生になった。収奪を可能とする実質はすべて軍事力であった。

 

 このころ西欧では「人間の発見」ともいうべきルネサンス(Renaissance)が進行していた。近代ヨーロッパを誕生させたルネサンスの200年間、ロシアは「タタールのくびき」によって文明世界から遮断され続けていた。しかし、15世紀後半になってモンゴルの軍事力にかげりが見えてきた。それは弓矢の騎馬軍の迫力を無にしてしまう小銃(火器)のためであった。134世紀までユーラシア大陸のおそるべき花形であった遊牧民族は、この火器の登場によって世界史から退場させられるのである。

 

 

6.ピョートル大帝と女帝エカチェリーナ

  

 

      ピョートル大帝            

 

      エカチェリーナ2世       

 

  キプチャック汗国にとってかわったのが、商業の中心地モスクワ(Moskva)のモスクワ大公国である。モスクワ大公のイヴァン4世(IvanⅣ:在位153384)はツァーリ(Czar:皇帝)の称号を用い、専制政治の基礎を固めた。

 

 彼は貴族たちから“雷帝”とおそれられた。雷帝はコサック[3]の首長イエルマークが占領したシベリアの一部を公式に接収してアジアへも進出し始めた。しかし、支配者がモンゴル人からロシア人にかわっても、国民の大半を占める農奴を私有し、収奪するという国家体制は「タタールのくびき」の時代とさして変わらなかった。

 

 17世紀末に即位したピョートル1世(PёtrⅠ大帝:在位16821725)はみずから西欧諸国の視察におもむき、これを模範とする国制改革によって国力をおおいに充実させ、ロシアを北方の強国にした。大帝はスウェーデンと北方戦争を戦い、これを打ち負かしてバルト海東岸に進出した。そしてバルト海に面するネヴァ川の河口に「西欧の窓」となる都市ペテルブルグ(Petersburg)を建設して首都をモスクワから移した。(1712

 

 18世紀後半になると、女帝エカチュリーナ2[4]EkaterinaⅡ:在位176296)が即位する。典型的な啓蒙専制君主で、フランス文化に憧れて首都ペテルブルグにエルミタージュ(冬宮)を建設し、膨大な美術品を収集した。

 

しかし、ルイ16世を処刑したフランス革命(1789~)が始まると、改革主義者(インテリゲンチャ)を残酷に弾圧するようになった。東方政策では、シベリアから東方のベーリング海峡を越えてアラスカにまで進出し、日本に対しては外交使節ラクスマン(Laksman)を送るのである。ピョートル1世の遺業は、女帝エカチェリーナによってほぼ完成され、ロシアは名実ともにヨーロッパの強国となった。

 

       ネヴァ川

        

      エルミタージュ美術館

 

 

7.漂流民 大黒屋光太夫

 

 

 ロシアの総面積は1700万㎢で世界第1位、日本の45倍もある。人口は14千万人で人口密度は低い。ロシア人を主体にタタール人、ウクライナ人、ウズベク人など典型的な多民族国家である。最北端に広がる地域は、北極圏に属し永久凍土地帯となる。したがって自然環境は厳しい。ロシアは次の地図を見てわかるようにウラル山脈を境に西がヨーロッパ(ユーロ)、東がアジアでユーロ+アジア、つまりユーラシア大陸そのものの巨大国土である。

 

 今までウラル山脈の西側のヨーロッパロシア(欧露)の歴史について述べてきたのだが、東側のはるか広大なシベリアの歴史はどうなっているのだろう。

 

ロシア地域の自然  

 今から230年前のエカチェリーナ2世の時代にこのユーラシア大陸の東の端から西の端までの8000キロを横断した日本人がいる。シベリアの東の涯のオホーツクからシベリアを横断、ウラル山脈を越えてユーラシアの西の外れのペテルブルグに到達、女帝エカチェリーナ2世に謁見したのである。その日本人の名は大黒屋光大夫。当時の日本は江戸時代、第11代将軍徳川家斉の治世で、国禁として厳格な鎖国管制下にあった。そのような時代にどうしてこのような大旅行が可能だったのだろうか。

 

大黒屋光大夫とはなにものか。大黒屋光大夫は江戸末期の伊勢の商人である。光大夫を船頭とする神昌丸は、1782年伊勢白子浦から紀州藩米と木綿を積んで江戸へ向けて船出した。途中暴風にあって船は難破し、北へ北へと流された。8か月の漂流ののち、アリユーシャン列島の一小島に漂着する。列島はロシア帝国の支配下にあった。

 

 ここから光大夫以下17名の船乗りたちの、10年間にわたるロシアでの数奇な運命が始まる。彼らはロシアの地方役人に伴われて、カムチャッカ半島にわたり、山脈を越えてオホーツク海に出、シベリア東端のオホーツクに着く、オホーツクからヤクーツクまでは馬と徒歩。ヤクーツクはレナ河畔にあり、一帯は永久凍土地帯である。零下70度を記録したこともあり、ロシアでも最も寒く、北半球の極寒の地といわれる。そのヤクーツクからイルクーツクまでは厳冬期のタイガの中を馬(そり)で行く。零下4050度の世界で、仲間の一人庄蔵が凍傷で片足を失う。酷寒の苛酷な自然環境の中でここまでに、すでに11人の仲間が命を落としていた。

 

 シベリア総督府のあるバイカル湖畔のイルクーツクからは、光大夫一人が帝都ペテルブルグに向かう。ペテルブルグ大学キリル・ラクスマン教授の奔走のおかげで、光大夫はエカチェリーナ女帝に3度拝謁を許され、帰国を裁可された。キリルの息子アダム・ラクスマン(Adam Laksman17661803)を使節として、オホーツクでロシア側が新たに建造した船で、光大夫らは根室まで送り届けられた。1792年のことで、漂流から10年がたっていた。生きて日本に帰還できたのは光大夫と一番若かった磯吉の2人だけである。

 
 

8.シベリア開発に賭ける帝政ロシア

 

 

 この当時ヨーロッパはフランス革命の最中で騒然としていたが、そんな中でロシア帝国は国交もない異国の一介の漂流民を、なぜかくも丁重に日本に送り返してくれたのだろう。

 

 それを知るためにはロシアのシベリア開発史をひもとかなければならない。シベリアには巨大な凍土、湿原、草原(ステップ)森林(タイガ)がひろがる。欧露から見たその印象は寒く、暗く、しかも(はて)しがなかった。

 

 その大部分は国家組織を持たない先住民が部族単位で居住し、そこに毛皮を求めたロシア人が流入した。16世紀、その先兵となったのが、コサックの首長イエルマークであることは先に述べた。毛皮商人の後を追ってロシアの微税人、兵士、商人、農民が入植した。その先を行く探検家たちは、その東端にカムチャッカ半島を発見し、ベーリング海の青い海を見る。この陰うつなシベリアにも、ついに東方に出口があることを知った。

 

 シベリアは黒豹(くろてん)の宝庫であった。これをヨーロッパの市場に出せば、飛び上がるほどの高値で売れた。シベリアをかけ回っている黒豹は帝国の外貨獲得源で、これによってペテルブルグの繁栄をまかなうことができたのである。

 

 黒豹がとりつくされるころ、カムチャッカ半島の海獣(ラッコ)がこれにとってかわった。しかし、これらをシベリア経由でヨーロッパまで送るというのは、大変な費用と時間のむだだった。これを東アジアの文明世界で売れないだろうか。シベリアはたしかに外貨獲得の宝庫であったが、食糧不足による飢えと野菜不足による壊血病に耐えず悩まされていた。(そり)による物資移送ではとても間に合わなかった。とくに食糧を大量にシベリアに運ばねばならない。欧露からそれを運びつづけなければ、広大なシベリアはもとの森と湖と湿原と凍土の大陸にもどってしまうであろう。そこへ日本の漂流民が南からカムチャッカ半島に漂着してくる。カムチャッカ半島とそれにつながる千島列島の先にある農業国家日本こそ、この難題を解決してくれるのではないか。ところが、その日本は1635年から世界に国を閉ざして鎖国中である。どうしてその扉をこじ開けるのか。ことは簡単ではない。

 

 

9.おろしや国酔夢譚

 

 

 光大夫らに先立つこと86年前の1697年に、カムチャッカ半島に漂着したのは大坂出身の伝兵衛である。伝兵衛は首都ペテルブルグに連れて行かれ、ピョートル大帝に拝謁する(1702年のことで、この年に日本では赤穂浪士の討入りがあった。)。大帝はイルクーツクに日本語学校を創設し、伝兵衛を初代教官に任命した。以来イルクーツクは日本語教育の拠点となる。

 

1792年、光太夫らを日本に送り届けた使節ラクスマンは、鎖国日本の扉を開けることはかなわなかった。その栄誉はこの62年後のアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官ペリーにゆずらなければならないが、シベリアの東の涯に不凍港と市場を得たいとするロシア帝国の政治的野望はその後も絶えることなく、それは日露戦争となり、択捉(えとろふ)国後(くなしり)などの北方領土問題となって、今日に至っている。

 

 ところで、ラクスマン使節と共に日本に帰国したのは光太夫と磯吉の2人であるが、片足を凍傷で亡くした庄蔵とロシア婦人と結婚した新蔵はイルクーツクに残り、ピョートル大帝が創設した日本語学校の教師となって、その生涯をロシアの地で終えた。

 

 光太夫らは根室から江戸に送られ、将軍徳川家斉に謁見している。光太夫らの10年間のロシア帝国での見聞は『北槎聞略』として桂川甫周によって江戸幕府の記録に残され、重要なロシア研究の書となった。それをもとに、井上靖が小説『おろしや国酔夢[5]』を書いて昭和のベストセラーとなる。

 

今、日本の東京歌舞伎座では、光大夫を主人公とする新作歌舞伎『月光(つきあかり)()針路(ざす)日本(ふるさと) 風雲児たち』が上演されている。光太夫が松本幸四郎、庄蔵と女帝エカチェリーナに市川猿之助、磯吉は市川染五郎で、当代歌舞伎界を代表する人気役者が演じている。君たちが日本へ里帰りしたなら、ぜひとも東京へ歌舞伎見物に行こうではないか。次回は『日本人はどこから来たか』だよ。

 

2019.7.1(つづく)

 

 

 

 



[1] ドストエフスキーの葬儀:葬儀はペテルブルグのアレクサンドル=ネフスキー聖堂で行われた。参列者数万人を越える盛儀であった。

[2] タタール(Tatars):中国語で韃靼(だったん)と記す。モンゴル系部族を指す呼称。

[3] コサック(Cossaks):14世紀以降ロシアの東南辺境への流亡者が、牧畜・漁業・狩猟・交易・略奪などを生業としつつ、宮廷の保護下で1617世紀に辺境防備の、自由な戦士団を形成した。騎馬に長じ、ロシアのシベリア進出の先頭に立った。

[4] ドストエフスキー死去の年の1881年に暗殺されたアレクサンドル2世(先出)は、エカチェリーナの曾孫(ひまご)にあたる。

[5] 井上靖(19071991):近代日本を代表する小説家。古い時代の中国を描いた『敦煌』『楼蘭』『風濤(ふうとう)』それに鑑真和上を描いた『天平の甍(いらか)』はいずれも名作で、美しく格調高い日本語だ。『おろしや国酔夢譚』は文春文庫で定価720円。