ヨーロッパの孫に聞かせる

日本と世界の歴史

第13話 『坂の上の雲』の時代(後篇)

岡市敏治

司馬遼太郎『坂の上の雲』は明治維新によってはじめて近代国家になった日本、初めて国民となった日本人の物語であり、その意味で、近代日本と日本人の青春期の物語である。

 僕はヨーロッパ人の君に、君のママの国のこの時代の青年たちが、いかにけなげに生き、戦い、死んでいったかという物語を是非聞いてもらいたいと思うのだ。

 

好古と真之

 維新後、日露戦争までという三十余年は、文化史的にも精神史のうえからでも、ながい日本の歴史の中で、実に特異な時代であった。

「これほど楽天的な時代はない。このながい物語はその日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である…」(司馬遼太郎)

 だが、近代的な国民国家として、この当時の日本ほどちっぽけで貧しい国はなかったろう。産業といえば、米と絹の農業のほかに、主要産業のないこの百姓国家の国民たちが、ヨーロッパの先進国と同じように産業革命をおこし、ヨーロッパと同レベルの海軍と陸軍を自前でもとうとした。財政がなりたつわけがない。

 

 とりわけ、伊予松山十五万石は明治維新で苦労した。幕府について負け組となり、土佐藩に占領され、新政府に15万両の賠償金を払わされた。

 松山藩の下級武士であった秋山家の家計は悲惨であったろう。秋山家の三男好古は維新のとき10歳であったが、近所の銭湯の風呂焚きをして家計を助けた。

好古17才のとき、風呂焚きをやめて、大阪にできた師範学校の検定試験を受験して、教員となる。

明治は能力主義の時代であった。明治日本というこの小さな国家は能力主義でなければ、衰滅するという危機感で支えられていた。

社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定の資格をとるための必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。

政府は満天下の青少年に向かって勉強をすすめ学問さえできれば国家が雇用するという。

アジアにあって、日本国だけが、勃然として産業革命による今世紀の主潮に乗ろうとしていた。日本にあっては、一国のあらゆる分野をあげて秀才たちにヨーロッパの学問・技術を習得させつつあった。好古はこの流れにしがみついて、なんとか潮の一つに乗っかったのである。

 好古は次いで、生活費と授業料が一文もいらないというただそれだけの理由で士官学校に入る。騎兵科をえらんだ。明治10年、ちょうど西南戦争真っ最中のころである。

 士官学校を卒業した好古は陸軍大学校に入り、騎兵の研究を行う。さらに本場フランスに留学し、フランス式騎兵を学んだ。帰国後、騎兵第一大隊中隊長に任じられ、日本の騎兵を一から育て上げる。

 日露戦争においては、とうてい勝ち目はないといわれたコサック騎兵集団と満州の野でたたかい、かろうじて壊滅を免れ、勝利の線上で戦いをもちこたえた。

“日本騎兵の父とされ、陸軍大将で退役した。最後の古武士といわれた風貌の好古の一生は、まことに質朴、豪胆、波乱に満ち満ちたものであった。

 

 好古の9歳下の弟真之は小さいころから手のつけられない腕白であったが、妙に文才があった。7,8才のころ雪の朝、真之は(かわや)ゆくのが面倒なあまり北窓をあけてそこから放尿した。歌をつくった。

       雪の日に 北の窓あけ シシすれば

           あまりの寒さに ちんこちぢまる

 この歌をあとで父の久敬翁はみて

―わしも立小便はするが、こういう歌は作れぬ、とひそかに感じたという。

 

 真之は長じて同郷の友人・子規を追って上京し、東京大学予備門に入学する。後、海軍兵学校に転じ、日本海海戦において、作戦参謀として奇跡の勝利を演出した。

「敵艦見ユトノ 警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 之ヲ撃滅セントス 

天気晴朗ナレドモ波高シ」

 真之は希代の作戦家であると共に、この日本海海戦電文の起草者、名文家としても歴史に名を残した。

 真之の子規に対する友情は終生変わることなく、軍艦をおりると根岸の子規庵を訪ね、病床の子規を慰めるのであった。


子規と漱石

  春や昔 十五万石の 城下かな

城下町松山を詠んだ、このあでやかな名句で知られる正岡子規は、5才のとき父を亡くし、母の実家大原家の後見のもと育てられた。幼少期から祖父の大原観山に漢学を学ぶ。16才のとき上京、真之と下宿をともにして、共に東京大学予備門に入学する。末は博士か大臣のつもりであったが、どうにも英語が不得意で、落第をくり返して予備門を去る。

25才のときから、東京根岸に住まうが、このとき体は肺結核にむしばまれており、何度か喀血をくり返し、子規は自らの短命を予覚する。

師・陸羯南の主宰する新聞「日本」の社員として、同紙に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句革新を志した。やがて脊椎カリエスが悪化し、27才から寝たきりになる。

 

「病床6尺、これが我が世界である。しかもこの6尺の病床が余には広すぎるのである。」身動きならぬ子規の天地は六畳の間と、それに南接する小庭でしかない。毎日の痛みは非常なもので背骨のいたるところに錐で穴をあけられるような激痛が走る。ところがこの病者の日常を叙した文章はどこかユーモラスで、のどかで駘蕩とした城下の春を想わせる。

 

根岸の子規の病床には、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪、夏目漱石などの学生、知識人が集まり、日本の俳壇の中心勢力となっていった。

子規は「写生」リアリズムを主張し、それを実作で示した。子規は花を見るのが大好きだった。

       瓶にさす 藤の花房 短ければ

             たたみの上に とどかざりけり

それだけである。根岸の家の小さな裏庭には鶏頭が咲いている。

        鶏頭の 十四五本も ありぬべし

 

五月雨を詠んだ次の二つの句を比べてみよう。

       五月雨を 集めて早し 最上川  (芭蕉)

       

五月雨や 大河を前に 家二軒  (蕪村)

 

芭蕉の句は古今有数の傑作とされてきたが、子規は「集めて」ということばが巧みすぎて、臭味がある、と切って捨てる。

それにくらべて、蕪村の句は絵画的実感があるうえに、刻々増水してゆく大河という自然の威力をひと筆のあわい墨絵の情景として「写生」している。断然蕪村が優れている。

子規は蕪村の「写生」リアリズム精神をかかげることによって、芭蕉を家祖として衰弱しきっている俳壇に新風をおこしていく。

病床についてからの7年、子規の文筆活動はすさまじい。その主題と論理はつねに明晰で、敵なき野を征って新国家をひらく如く、日本の俳句と和歌を革新する。その名は天下にひびいた。

 

夏目漱石は子規とは東京大学予備門の同級生で、終生共に畏敬する親友であった。

ちなみに、漱石と子規は1867年生まれで、明治の年度が彼らの年令と重なる。

(子規は明治35年、35才の直前に亡くなった。)

漱石はラフカディオ・ハーンの後任として東大で英文学を教えていたが、漢詩文をよくし、子規のもとで俳句を学んだ。漱石の最初の小説『吾輩は猫である』は子規が主宰した俳誌「ホトトギス」に発表された。漱石の松山中学赴任時代をユーモラスに描いた『坊っちゃん』も「ホトトギス」に掲載されて評判となる。

明治40年、漱石は東大を退職し、朝日新聞に入社して作家生活に入る。当時、話しことばと書きことばは別で、新聞記事はすべて文語調で書かれていた。それに対し、漱石は言文一致の小説『三四郎』 『それから』 『門』 『こころ』などを次々と朝日新聞に発表し、今につながる日本語文章語を確立した。

ここに漱石によって、日本近代文学が誕生するのである。

「国民文学」が成立するときには、まるで魔法のように、その歴史的な過程を一身に象徴する国民作家が現れる。日本では夏目漱石がそうである。」(水村美苗『日本語が亡びるとき』)

 

さて、ここまで見てきたように、明治の国家体制が新しく作られたとき、長いこと資源乏しく、貧しいがおだやかな生活に甘んじていた日本の若いエリートたちは、好古や真之のように、当時の花形である軍事方面に群を成して赴いた。

またその網の目にもれた少数のエリートは、日の目のあまり当らぬ世界で、独自の新しい文芸の花を開かせた。子規と漱石がそれである。日本を代表する精神は、軍事と文芸と―その両面に異様な光芒を放ったのがこの時代であったのである。

 

チェーホフ『三人姉妹』

この稿を書いているとき、チェーホフの『三人姉妹』という演劇をOMAと()に行った。もともと僕とOMAはチェーホフが大好きで『三人姉妹』とともにチェーホフ四大戯曲とされる『かもめ』 『ワーニャおじさん』 『桜の園』を何度も観劇していた。

しかし、今度ばかしはとりわけ胸をときめかせた。なにしろ、三人姉妹は、長女オーリガに余貴美子、次女マーシャに憧れの宮沢りえちゃん、三女イリーナに蒼井優という当代日本を代表する三美女が競演するのだから。僕はかぶりつきでかたずをのんでりえちゃんを見た。

チェーホフは漱石とほぼ同時代のロシアを代表する国民作家で、トルストイと親交があった。しかし、子規と同じ結核のため、子規と同じように短命であった。


『三人姉妹』がロシアで初演されたのは1901年(明治34年)である。舞台はモスクワを遠く離れた県庁のある地方の町。美しい三姉妹は将軍だった亡き父が残した大きな古い屋敷で暮らしている。

その屋敷に父の部下であった軍医や陸軍大尉や町に駐屯する軍人たちが、サロンのように頻繁に集い、姉妹たちのささやかな気晴らしのひとときとなっていた。モスクワから新しく砲兵隊長として赴任してきた陸軍中佐とマーシャとの恋が緊張感を高めていく。

駐屯する軍人たちがやがて1人減り、2人減り……とうとう町から軍人が1人もいなくなる。彼らはどこへ消えたのか。チェーホフはどことは明言していないが、軍人たちは新しく敷設されたシベリア鉄道によって満州に送られていったのだ。ロシア政府は日本との開戦に備えて満州に続々と兵力を集結させつつあった。

『三人姉妹』初演の翌明治35年、日本はイギリスと日英同盟を締結する。ロシアとの戦争は避けられないことが、誰の目にも明らかになった。

ロシアとの決戦は酷寒の満州の野で行われるであろう。日本帝国陸軍は青森と弘前の連隊に、同年1月厳寒の八甲田山で、雪中行軍を行うよう命令した。そして、猛吹雪の中、青森連隊210名中199名が遭難(凍死)するという山岳遭難史上未曽有の大惨事が発生するのであった。

 

19世紀後半から、20世紀初頭にかけて、世界は帝国主義の時代であったとは、幾度も述べてきた通りだ。西洋列強におくれてこの世界に乗り出したロシアは、極東進出を目指した。ロシアの極東進出の大いなる眼目は南下してついに海洋を見ることである。不凍港を得たかった。それには満州を得なければならない。とくに南満州の遼東半島が貴重であった。そこには旅順、大連といった天然の良港がある。さらにその東の朝鮮半島、これを得てはじめてロシアの南下政策は完成するであろう。

一方、日本は江戸時代からロシアの南下政策に神経をとがらせてきた。歴史的にロシアの南下策をおそれることおびただしい。さらに日本防衛の生命線としての朝鮮半島を重視した。

要するに、日露戦争の原因は満州と朝鮮である。満州をとったロシアがやがて朝鮮をとる。朝鮮半島が敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地を持たない島国の日本は自国の防衛が困難となるであろうことは、前編で述べた通りだ。日露戦争は日本側からすれば、祖国防衛戦争であった。

 

日露開戦―国民国家VS専制国家―

明治37年2月、日露間の戦争の火ぶたが切って落とされた。

戦いは、黒木軍(第一軍)の鴨緑江渡河作戦で始まり、遼東半島に上陸した奥軍(第二軍)が苦戦の末に金州、南山を占領。最初の主力決戦となった遼陽会戦で勝利(9月)、翌月の沙河会戦にも勝って年を越す。明けて明治38年1月、黒溝台会戦ではロシア軍の猛攻にさらされながらもからくも持ちこたえ、奉天まで撤退したロシア軍を追って最後の決戦に向かう。この間、旅順攻略を任された乃木軍(第三軍)は三次にわたって総攻撃を行うが、敵正面の攻略にこだわり、累々たる屍を残していずれも失敗。

 

乃木軍の攻め方は、ひたすら人海戦術の正攻法であった。鉄条網のむこうに機関銃をそなえた敵の塹壕(ざんごう)がある。さらにそのむこうに砲台がある。わが突撃隊は銃剣をきらめかせて丘を這い登り、敵の塹壕に突入しようとする。だが敵の機関銃掃射によってほとんど瞬時に山麓で消滅した。日本軍はこの突撃を延々と繰り返し、丘は日本軍兵士の死体で埋め尽くされた。5日間の第一次総攻撃による死傷者は15,800人という巨大なものであり、しかも敵にあたえた損害は軽微で小塁ひとつ抜けなかった。

旅順攻略による最終的な死傷者は六万人余。もはや戦争というものではなかった。乃木司令部の無策、無能による災害といっていいだろう。

 

庶民が「国家」というものに参加したのは明治からである。日本人というのは明治以前には「国民」であったことはなく、国家という概念をほとんどもつことなくすごしてきた。村落か藩の住民であったが、維新によってはじめてヨーロッパの概念における「国家」「国民」となった。

近代国家になったということが、庶民の生活にじかに突きささってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵の憲法のもとに明治以前は戦争に駆り出されることのなかった庶民が兵士になった。近代国家というものは、国民にかならずしも福祉のみを与えるものではなく、戦場で死を強制するものであった。

が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛でなかったのではないか。


旅順二〇三高地における日本軍兵士の驚嘆すべき勇敢さはどうであろう。兵士たちにとって、この戦争はロシアの侵略主義から自らの国を守る祖国防衛戦争であった。日本軍兵士の信じられないほどの強さ、しぶとさはここにあった。

 

一方、ロシアは日本のように憲法をもたず、専制皇帝(ニコライ二世)は中世そのままの帝政をもち、国内にいかなる合法的な批判機関ももたなかった。独裁皇帝とその側近で構成されたおそるべき専制国家であった。

専制国家にあっては、官僚たちは専制者である皇帝の機嫌をとっているだけでよかった。この国は当時の日本がすでに国民国家を成立させていたのに、まだ中世の王朝のままの状態であったのだ。士官は王朝の構成者であったが、兵隊や水兵は単に民衆にすぎなかった。

「民衆が政治を行い、国家の安危を共同で分担するという制度ができないかぎり、近代にあっては他国と近代戦をやるというのは不可能であるかもしれない。」と司馬さんはいう。

日本の戦争準備は、旅順攻略はともかく、陸戦にせよ、海戦にせよ、ロシアとはかけはなれて計画的であった。立憲国家である日本は、国会をもち責任内閣をもつという点で、国家運営の原理は理性が主要素になっている。ならざるをえない体制をもっていた。

 

ロジェストウエンスキー航海

旅順攻防が日露双方にとってかくも熾烈を極めたのには理由がある。ロシア側の対日戦の基礎はこうである。旅順攻防が日露間で激しさを増してきた明治3710月、ロシアは北海に浮かぶバルチック艦隊を日本に向かって回航させることを決定する。

ロシア海軍は旅順湾に待機する旅順艦隊に、極東へ回航してくるバルチック艦隊を加え、日本海軍の倍以上の勢力をもって東郷艦隊を沈め、それによって海上権を奪い、満州の日本軍を孤立させることを狙ったのである。

このため東郷艦隊は旅順港外にあって、旅順艦隊をおびき出そうとするが、ロシア側は方針として挑発に乗ってこない。港口閉塞作戦も失敗した。結局は内陸の方から攻めて、旅順艦隊をいぶしだし、そのことごとくを沈める以外に方法はない。

さらにはそれをバルチック艦隊が極東に回航してくるまでにやってしまわねば、東郷艦隊は日本に倍する2セットのロシア艦隊と闘わねばならず、日本は絶体絶命の窮地に立たされるであろう。

「このままでは国が滅びる。」 

満州軍総司令官大山巌は、総参謀長児玉源太郎を旅順に派遣、乃木に代わって指揮を()らせ、二〇三高地を陥落させた。二〇三高地からの巨砲攻撃によって、旅順艦隊はことごとく旅順湾に沈んだのである。(明治381月)

32万のロシア軍、25万の日本軍がぶつかった奉天会戦は、大包囲を目指す日本軍が大きな犠牲を出しながらひたすら前進。敵将クロパトキンの優柔不断にも助けられて大勝(38年3月)し、ロシア軍は北へ算を乱して撤退した。クロパトキンは総司令官を解任された。

 この間、バルチック艦隊はその遠征航海を続けつつある。東郷艦隊とほぼ同規模の艦船をもつこれだけの大艦隊がヨーロッパの北海からアフリカ南部喜望峰を廻って、極東の海まで1万8千海里、それこそ万里波濤を蹴って遠征するという、その事そのものがすでに英雄詩的であった。

45隻というこの艦隊の長さは10キロにも及んだ。この大艦隊の遠征が成功すれば、ピラミッドの造営も万里の長城もアレキサンダー大王の遠征も光を失ってしまうに違いない。

「ロジェストウエンスキー航海」という呼称で後世の語り草となったロシア艦隊の壮挙と苦難は記録的であった。

同艦隊の苦難の一つは、日本の同盟国イギリスが各寄港地で石炭の積み込み作業を妨害することであった。このためこの作業を外洋に浮かびながらしなければならない。兵士も士官も炭塵まみれ、汗まみれになって、石炭積みをくる日もくる日もおこなった。とりわけ、熱帯の真夏のマダガスカル島(ノシベ)での暑熱と湿気は人も艦をも著しく消耗させていった。

かれらは文字どおり懸軍万里、大艦隊の長征としては記録的な航海をつづけている。この航海のはてには、艦も人も疲れはてるにちがいなかった。

 

日本海海戦

日本海海戦は明治38年5月27日対馬海域で火ぶたを切った。この海戦は近代艦隊がたがいに全滅を賭してたたかう決戦である。

海を渡って満州の野に闘う陸軍にとって、海軍が海上権を保持することによってのみ、満州での陸戦の結果が評価されるのである。

もし東郷がこの海戦でロジェットウエンスキー提督にやぶれるとすれば、満州における日本陸軍の戦勝はついに名誉ののみのむなしいものになってしまうであろう。満州において奉天会戦まで善戦しつつも、しかし結果においては戦力を衰耗させつつある日本陸軍が一挙に孤軍の運命におちいり、半年を経ずして全滅するであろう。皇国の興廃は将にこの一戦にあった。

旗艦三笠から指揮をとる連合艦隊司令長官東郷平八郎はわが艦隊のすべての砲火を敵のロジェストウエンスキー提督が座乗する旗艦スワロフに集中させた。各艦から猛烈な砲撃が行われた。この火と煙の嵐は旗艦スワロフのみに殺到した。


世界史上空前の大会戦であった。戦いの最中、天も動き海も荒れた。敵味方の砲弾が飛びかい、それが空気を切り裂き、瞬時瞬時真空をつくることによって、異様な音が天に交錯した。落下弾は海をたぎらせ、駆けまわる各艦が狂ったように閃光を吐いた。天も地も晦冥(かいめい)した。

 

ロシア艦隊は東郷艦隊を振り切って対馬海峡を抜け、ウラジオストックを目指そうとするが、真之が考えた七段構えの戦法についに全滅、司令長官ロジェットウエンスキーは捕虜となり、海戦は終わった。

「わが方の損害は水雷艇三隻」

という、信じがたいほどの軽微さで、無傷というにちかかった。

世界の海軍がその世界での唯一最大の模範としてきたトラファルガー海戦でさえ、戦勝軍である英国海軍はその乗員の一割を失い、司令長官のネルソンは旗艦ヴィクトリーの艦上で戦死した。ところがこの日本海海戦にあってはロシア艦隊の主力艦のことごとくは撃沈、自沈、捕獲されるという当事者たちでさえ信じがたい奇跡が成立したのである。

いったいこれを勝利というような規定のあいまいな言葉で表現できるだろうか。相手が消滅してしまったのである。極東の海上権を制覇すべくロシア帝国の国力をあげて押しよせてきた大艦隊が、27日の日本海の煙霧とともに蒸発したように消えた。

英国の海軍研究家H.W.ウィルソンはいう。

「なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利というものをみたことがない」

 

人類が戦争というものを体験して以来、この戦ほど完璧な勝利を完璧なかたちで生みあげたものはなく、その後もなかった。(完)

 

次回は『ニュートンはどうして引力を発見したの』だよ。以前から君に質問をうけていたが、やっと準備ができた。次回は物理学の話だ。        (つづく)2015.7.1