ヨーロッパの孫に聞かせる

日本と世界の歴史

 

第16話 極限状況下のリーダーシップ

岡市敏治

 

神戸大学チベット学術登山隊が当時世界第二の未踏峰であったクーラカンリ(7554m)の初登頂に成功して今年でちょうど30年になる。クーラカンリはチベット高原にそびえる巨大な独立峯、ブータンとの国境に位置し、軍事的な理由でここ10年来この地域への入山が中国政府によって禁じられている。

 クーラカンリは我らの青春と人生を賭けた山であり、私を含め参加した隊員たちのその後の人生に大きなインパクトを与えた。天帝の峰クーラカンリは、私たちにとってはるかに仰ぐ秀麗な道程標であり、永遠の神話となった。

 2016年クーラカンリへの30年振りの再訪はかなわぬか。今、神戸大学山岳会と北京及びチベット登山協会との間で交渉が続いている。45歳で登山隊長としてクーラカンリ遠征に参加した私は今年75歳、この期を逃してクーラカンリとの再会はないだろう。

 クーラカンリ初登頂30周年の今回は、登山や探検の事例研究を通じて『極限状況下のリーダーシップ』について話をすることにしよう。

 

1.    史上最強のリーダー シャクルトン

 登山や探検において、リーダーシップの如何が登頂の成否のみならず、隊員の生死にかかわってくる。優れたリーダーとはどのような行動をとるのだろう。私はクーラカンリ遠征(1986年)から帰って猛勉強して中小企業診断士と技術士の国家資格を取得、以来経営コンサルタントをしている。企業経営もつまるところ人で、人という経営資源をいかに有効活用できるか、企業の生産性と優勝劣敗は経営者のリーダーシップにかかっているといっても過言ではない。コンサルタントとして、経営者を指導するという商売柄、リーダーシップ論は避けて通れない。

優れたリーダーとは目的を達成するために一定の行動スタイルをとるのではないか。そこで過去の探検史を繙きながら理想のリーダーシップスタイルについて考えてみることにする。まずは史上最強のリーダー南極大陸横断を目指したシャクルトンの話をしよう。

アーネスト・シャクルトンは1914年、今から約100年前に人類初の南極大陸横断2800㎞に挑んだ探検家だ。そのときシャクルトン40歳、そして見事に失敗した。だいいち南極大陸に上陸することすら叶わなかった。にもかかわらずシャクルトンは史上最強のリーダーであるといわれる。なぜか? それを論理的に解明するのが今回のメインテーマだ。

さて、1914年といえば、第一次世界大戦前夜、ところはイギリス。当時のイギリスの新聞に次のような広告がのった。

「求ム男子。至難ノ旅。僅カナ報酬。極寒。暗黒ノ長イ日々。絶エザル危険。生還ノ保障ナシ。成功ノ暁ニハ名誉ト称賛。」 これは大英帝国南極横断隊の隊員募集広告である。志願者5000名が殺到した。5000名とはすごいね。この時代イギリスは大英帝国として世界中に輝いていた。イギリス栄光の時代である。

隊長のシャクルトンと選抜された船乗り、科学者、冒険家27名の隊員たちがエンデュアランス号に乗り組んでサウスジョージア島を出港したのは191412月のことであった。出発してわずか3日目には流氷が現れた。南半球ではまだ夏の真最中だというのに。翌1月には目標とする上陸地点まであと1日と迫りながら流氷で身動きが取れなくなる。

エンデュアランス号の大漂流が始まる。漂流9ヶ月後には、流氷による圧迫で船体部を破損、ついに船を捨てざるを得なくなった。文明世界から何千マイルも離れた南極大陸沖の不安定な流氷の上に彼らは取り残されたのである。文明世界に生還できる可能性は極めて少なかったが、シャクルトンは隊員たちの前では決して弱音をはかなかった。自信に満ち溢れ、自分たちが帰る船もなく、流氷に身を任せ、なすすべもないという現実をまるで忘れているかのように振舞った。

 

シャクルトンがテントの設営や食料品や道具類の管理について、細かな指示を与えるのを聞いていると、隊員たちは助かる見込みがほとんどないということも忘れた。シャクルトンは自信たっぷりに計画を語り、隊員たちも熱心に計画に耳を傾けた。今、一番大切なのはアザラシやペンギンの狩りをすること、健康を保つこと、道具をきちんと整備すること、そして隊員同士が仲良くすることだった。

        図-1 南極大陸とエンデュアランス号の航海

隊員たちが不満を持たず、明るく、けんかもせずに過ごすことが何よりも大切だということは、皆よくわかっていた。たった一人でも怒りや不満を抱く者が現れると、隊全体に恐ろしい危険をもたらすことになる。箱の中の一個の腐ったリンゴが、たちまち箱全体を腐らせてしまうように、悪い感情はあっという間に全体に広がってしまうからだ。

不安定な氷盤上の漂流を6ヶ月続けた後、彼らは残された3隻の小さな救命ボートで脱出をはかる。高さ30mの波が時速80㎞で迫りくるウェッデル海の荒海へと。

やっと漂着したエレファント島も「地獄の島」だった。氷の山以外なにもない。しかし、シャクルトンはあきらめなかった。たとえどんな絶望的な状況下であっても隊員をまとめ、生きて帰るという希望を与え続けた。そして出発地のサウスジョージア島を目指し、隊員5人と冬の南極海1280㎞の航海へと、一隻の救命ボート「ジェイムズ・ケアード号」で乗り出したのである。

荒れ狂う海との17日間の格闘の末、命からがらたどり着いたシャクルトンたちは、地図もなしにサウスジョージア島の2000m級の氷河の山を越えて、島の反対側の人の住む捕鯨基地にたどり着くのだ。そして出発から2年後、シャクルトンはエレファント島から全隊員を故郷に連れ帰った。27人一人も欠けることなく奇跡の生還を果たした。

シャクルトンは南極大陸横断という当初の目的をまったく遂げることはできなかった。(南極大陸横断が成功するのはこの50年後、エベレスト初登頂者ヒラリー卿によってである。)

にもかかわらず、シャクルトンは史上最強のリーダーといわれている。なぜこのような奇跡が可能だったのだろう。だが、結論をいそぐまい。シャクルトンのリーダーシップ行動には、何か普遍的な原理があるに違いない。それをこれから解明していこう。

 

1.    行動科学としてのモチベーションとリーダーシップ

リーダーシップを構造化すると図-2のようになる。

リーダーシップとは「ある状況の中で行使されるもので、コミュニケーションの手段を通じて特定の目標に向けられた対人間の影響力」と定義できる。

リーダーと部下をつなぐコミュニケーションスキルで最も重要なのは動機づけ(モチベーション)である。企業経営も最大のソフトな経営資源とされる人のモチベーションに大きく左右されるので、この分野の研究は熱心に行われてきた。モチベーションを高めるにはどうしたらよいか。それを研究する学問が行動科学である。

私は東京の産能大学の委嘱(いしょく)講師となって行動科学理論を学んだ。そのハーツバーグ理論によると、人が動機づけられるのは、仕事が責任あるもので、達成感のあるものであること。達成すればそれを承認し、昇進に結びつくこと。仕事そのものが単純なものでなく、ひとまとまりのものであること。

そのような仕事の仕組みを作れば、人は自己実現の欲求を満足させ、参画型の自発的な人間となり、職場(チーム)の生産性も向上するというものである。この理論を応用して組み立てたリーダーシップモデルが図-3のマネジアル・グリッド理論である。

マネジメントとは、仕事(タスク)と人間とのマトリックスと考え、X軸を「業績に対する関心」、Y軸を「人間に対する関心」として理論を構築する。するとリーダーシップは次の5つのスタイルに分けることができる。

 

l  1-1型(放任型) 業績、人間関係にともに関心が薄く、消極的な態度となる。無関心型。

l  1-9型(親和型) 人とうまくやっていこうと心を砕き、自主性を重んじる。業績への関心は

              薄い。仲良し型。

l  9-1型(強権型) 専制的なリーダーシップをとり、メンバーの意見はあまり聞かない。

              業績中心型。

l  5-5型(中庸型) 仕事にも業績にもほどほどの関心を示す。妥協型。

l  9-9型(統合型) 業績に対する強い欲求と共に、メンバーに参画の機会を与え、自主性を

              重んじる。業績はそんな部下によって達成される。

 

この理論が産業界のリーダーシップ研修で最も普遍的に使われる。どのリーダーシップスタイルが高い生産性をあげられるのだろう。結論を先にいうと、それは9-9型(統合型)である。探検や登山の事例で検証してみよう。

 

3.スコットとアムンセン

 人類初の南極点到達は、シャクルトン隊の3年前の1911年に、アムンセン隊によってなされている。20世紀の初めの南極を舞台に、極点一番乗りを目指して熾烈(しれつ)な争いをくりひろげたノルウェーのアムンセン隊とイギリスのスコット隊の話はよく知られている。アムンセンがゆうゆうと極点一番乗りを果たしたのに対し、敗れたスコット隊はその帰途、スコット隊長以下5名全隊員死亡という悲劇に見舞われた。

 両隊の成否を分けたもの、それは両隊長のリーダーシップの差にあった。スコットは海軍の将校であったからイギリス海軍式の階級制度を取り入れた運営をしていたものと思われる。隊員に対してひたすら従順であることを要求し、命令を忠実に実行することを求めた。隊員は命令に従わなかったらいけないという恐怖感に似た気持ちに常に脅かされ、やらされているという気持ちから、いやいや仕事をすることになって、精神的にも肉体的にも次第に疲労していく。スコット隊がようやくにして到達した南極点には、すでにノルウェーの国旗がひるがえっていた。「極点・・・・・神よ、ここは恐ろしい土地だ。」とスコットは日記に記す。希望と栄光の土地が一転して絶望の土地となった。冬将軍が迫る帰途に悲惨な遭難が待っていた。

 一方、アムンセンは隊員の自主性を尊重するチームワークで運営した。どうすれば隊員の一人ひとりが自主的に楽しんで仕事をやれるようになるのかを考え、それには先ず隊員自らに考えさせる事から始めたのである。考えることによって仕事は自分のものとなり、意欲を持って仕事をするようになる。

全ての隊員が自主的に仕事をやるようになれば、隊長がいちいち命令しなくても隊は動く。全員が参画精神を持って一つの目的に向かったとき、スポーツにおけるチームワークのような素晴らしい力を発揮することができる。アムンセンはチームリーダーとして、こうした人間の心理をよくつかみ、それを隊の運営に()かしたのである。

 スコットとアムンセンのリーダー行動を、マネジアル・グリッド理論に当てはめてみよう。スコットが9-1型の強権型であるのは明白であろう。それに対してアムンセンは、隊員の自主性と参画を重んじたことから1-9型を満たす。一方、極点一番乗りに対する決意は固く、目的達成のためには大好きな犬ゾリの犬をも食料にする非情さと合理性を持っていた(9-1型)。つまりアムンセンは1-9と9-1を統合した9-9型であったのだ。9-1型に対する9-9型、統合型の勝利である。

 

4.クーラカンリへの道

 スコットとアムンセンのリーダー行動に着目して、リーダーシップスタイルを考察したが、次にチームメンバーに視点を移してみよう。どのような状況のときに、チームは活性化するのだろう。私は電力会社(九州電力)や旧建設省(広島)の係長研修をいずれも産能大学講師として10年以上やってきた。その中に、チーム活動ゲームというのがある。5名5班のチームがゲームで点数を競い合いながら、チーム活性化の要因を探るのである。

 体験学習から導き出されたチーム活性化の普遍的な要因は次の6つである。


(1) 明確な目標がある。

(2) 目標達成の見通しづけ(方針の確立)

(3) 目標と方針をメンバーが共有

(4) 全員参画(自主決定)

(5) 役割分担(権限移譲と責任感)

(6) 切迫感(厳しい納期。ライバルの存在)


6つの活性化要因を図式化すると図-4のようになる。

体験学習から導き出した「チーム活性化」の経験則を今度は私が登山隊長として実体験

した「クーラカンリ初登頂」から検証してみよう。

クーラカンリはチベット高原の奥、ブータンとの国境にあり、当時いかなる外国の探検家や研究者も同地に足を踏み入れたことがない学術調査の宝庫であった。そこで登山隊(13名、内5名は学生、5名はヒマラヤ経験者)に加え、学術隊(農学部助教授ら7名)を同行させることになった。報道隊(朝日新聞、テレビ朝日4名)を加えると25名。さらに日中親善隊だったので、中国の科学者や協力隊員、通訳を入れると総勢45名となった。これは単独大学としては、戦後最大規模の学術登山隊である。

これだけの隊がチベットで3ヶ月間、登山と学術調査をする。費用を試算すると1億円。とても一山岳会の手におえる金額ではなかった。幸い神戸大学の正式事業に認定され、新野幸次郎学長を会長とする学内後援会が結成された。私は登山隊長に加え、隊全体を総括する事務局長も兼任することになった。重い責任がずっしりとのしかかってきた。

1985年夏から総隊長の平井一正教授と共に募金活動のため企業行脚(あんぎゃ)を始めた。ひときわ暑い夏であった。その年の末には、当初は天文学的数字と思えた1億円募金を集め切ることができた。幸運にも企業業績のよい好況期と重なったのである。

募金活動と併行して、隊員強化合宿を行った。7月剣岳岩登り合宿、11月富士山アイゼン合宿、12月八ヶ岳氷雪クライミング、年が明けた2月には名古屋大学低圧実験室での低酸素下訓練……加えて毎週六甲台の大学グランドで、心肺能力を高めるための12分走トレーニング。(ラグビー部員も一緒に走っていた。少し頭の髪のうすい青年ラガーが懸命に走っていた。当時医学部大学院1年生、後のノーベル賞山中伸弥教授であったろう。)

本業の仕事や学業に加えての合宿トレーニングや数多(あまた)の遠征準備は、まるで戦場を駆け巡るようなエネルギーを要求される。すでに出国の期日は決められている。すべての業務はそれから逆算してそれぞれの期日までに完成されなければならない。隊員たちは死にものぐるいで働いた。“明確な目標”これこそは平凡な男たちをも鉄人にする。 

 

5.極地法による登山

 1986年3月4日、日本を出国、3月15日チベット高原クーラカンリの北麓(標高4500m)にベースキャンプ(BC)を設営した。午後になると決まって強風が吹いた。大地も川もガチガチに凍結し、周辺はまだ厳冬期のさなかにあった。

クーラカンリ初登頂に挑む登山方法は、高所登山の伝統的な登り方である極地法を基本戦術と決めていた。小数精鋭による速攻登山が考えられないわけでもなかったが、クーラカンリが全く未知な登山対象であることを考えると、極地法はやはり最も安全かつ確実な登山方法であろう。それに、若い学生隊員を育て、次代に引き継ぐことも大学登山隊の大きな使命である。極地法(polar method)とは、文字通り南極探検のやり方で、スコット隊やアムンセン隊のように、極点(登山では頂上)に向かって前進キャンプを3つ、4つ…と順次伸ばして、最終キャンプ(AC)からアタックをかける。復路(下山)はそのキャンプを逆にたどってBCに到達するというやり方である。(クーラカンリ極地法登山の実際については、第6話『人はなぜ山に登るのか』を読み直してほしい。

http://www.cosmo-katano.com

極地法登山の問題点は、全員が頂上に立てないということだ。最後のACに到達した数人だけにその権利がある。外れた隊員はどうなるのか。1年間の苦しいトレーニングに耐え、長期休暇で職場とけんかし、場合によっては退職してまでヒマラヤにやってきたのは、あの頂上に立つ、人類で最初の一人になりたいからだ。これは究極の自己実現だ。

 しかし、限られた人間しか頂上に立つことができない。何人登れるかは、天候に恵まれることが前提だが、ACに何kgの食料と装備を荷揚げできるかにかかっている。私たちはAC70kgの食料、資材を運び上げ、幸運にも6人の隊員を登頂させることができたが、そのために「大本営」と名づけたBCには6tの食料、資材を用意し、ABCAdvanced Base Camp 5300m)に3t、C1には1t運び上げた。来る日も、来る日も苦しい荷上げなのだ。

「一人が登ったら全員が登ったことになる。」これが合言葉だが、世界の登山史に名が残るのは初登頂者のみである。全員が達成感を味わえない。荷上げだけで任務終了の隊員の方が多い。そこにチームワークづくりの難しさがある。登頂メンバーをめぐって殴り合いのけんかになったという話も聞く。世界的探検家の植村直己は心優しい人で、それがいやで単独行になったと自身語っている。

 ところで、全員が頂上に登れないという問題にどう対処すればよいのか、いかにして隊員のモチベーションを維持するのか。クーラカンリから帰国して間もなくのこと、東宮御所から連絡が入り、皇太子(なる)(ひと)親王(浩宮殿下)に神戸のホテルオークラ貴賓室で、クーラカンリ登山のご進講をしたことがある。殿下は人も知る登山愛好家で日本山岳会会員である。殿下の質問は次の一点であった。

「初登頂アタック隊員の選定はどのようにしたのか?」「選定の基準はなにか?」

 これは未踏峯登山の究極の難問である。その回答は平凡だが、「公平性」と「納得性」ということにつきる。4人のアタック隊員がACから頂上へ向け出発する。しかし、残る4つのキャンプのすべての隊員が必死でサポートしなければ、登頂隊員は仮に登頂できても、無事に下山できないかもしれない。登頂メンバー以外の隊員の一致団結したサポートがあって彼らは初登頂を完結できるのだ。

 だから公平性を欠いた情実がからんだ隊員選定が行われれば、隊はうまく機能しない。体力も技術も同レベルの隊員2人から1人を選ばねばならないとしたら、その場合の選定基準は今までのチームへの貢献度ということになるだろう。これは企業の人事考課と同じだ。登頂メンバーからもれた隊員は涙したが、しかしこれはなんとか乗り切った。

 

6.チーム活性化によるリーダーシップ

 極地法登山のもう一つの難問は、コミュニケーションのむずかしさだ。図-2を見てほしい。リーダーはチームメンバーとコミュニケーションを通じてリーダーシップをとる。コミュニケーションはリーダーシップの(かなめ)だ。ところが、隊員は5つのキャンプに分散していて、登山活動がスタートすると、常時全隊員が一堂に会するというのはまずない。私たちの場合、登山の終盤、アタック隊員を発表するとき、全員がC1に集結した。そのときだけだ。ならばコミュニケーションはどうするのか。

この時代は、1人1台の携帯電話などという便利なものはなかった。1日3回(8時、12時、20時)の各キャンプ間の無線通信がすべてだった。さてどうするか。これは現地でジタバタしても、もう遅い。ヒマラヤに来るまでの準備期間の1年間に、どういうチームづくりをしたかで勝負が決まる。

図-6「クーラカンリチーム活性化の実際」の表を見てほしい。1年間のトレーニングや遠征準備作業による地道なチームづくりによって、極限状況下のヒマラヤの困難なコミュニケーションに対応できたのだ。これは図-4の「チームの活性化」のグラフを見れば分かるように、結果的に9-9型、統合型リーダーシップになっているだろう。私のようなヒマラヤ経験のない非力な隊長でも、チーム活性化の要因を満たす仕組みを準備すれば、優れたリーダーシップとして機能する。シャクルトンやアムンセンのような英雄的なリーダーでなくても、強力なリーダーシップは可能なのだ。

 

私たちの隊には誰一人としてスーパーマンはいなかった。これはチームワークの勝利、9-9型、統合型リーダーシップの勝利であった。未踏峯世界第二のヒマラヤジャイアントを単独大学隊で、しかも1回のチャレンジで、無事故で落とした。登った者、登れなかった者、全隊員が感動と達成感を味わった。私たちのクーラカンリ初登頂の完璧な成功はリーダーシップ理論の正しさを実証している。リーダーシップ統合型9-9理論には、普遍性があるのだ。

7.さようなら クーラカンリ!

 1986年4月21日、初登頂アタックの夜が明けた。前日の吹雪はうそのようにやみ、青空が見える。冷え込み厳しく零下30度をわる。第1次アタック隊の4名はAC7250m)から頂稜へむけて急峻な斜面に取付いた。氷の上に昨日降ったが厚くのっていて非常に悪い。頂上稜線もナイフリッジ状で慎重に進む。1615分、遂にクーラカンリの頂上に立つ!初登頂なる!! 頂上は狭く1人立つのがやっとであった。もはやさえぎるものはなにもなかった。360度の大パノラマが眼前に広がった・・・・・

初登頂から7日後の4月28(それはチェルノブイリ原発事故の2日後のことだった。)、私たち登山隊員13名、報道隊員2名、中国協力隊員5名の総勢20名は、クーラカンリ山麓のBC「大本営」(標高4500m)に全員無事下山した。

「どの顔もどの顔も、ヒゲボウボウ、メガネザルのような日焼け、咳が止まらなかったり、顔がむくんだり、下痢であったり、それぞれなにほどかの故障をかかえていたが、ともかく全員揃って生還できた。誰一人としてスーパーマンはいなかったが、それぞれがピラミッドの礎石となって、黙々と人間の限界に挑んだ。これはまさにチームワークの勝利であった。

仰ぎ見るクーラカンリは、なにごともなかったように天空にそびえている。北壁が真白だ。あの雪を寄せつけなかった北壁が今、まるで花嫁衣裳をまとった乙女のように、純白の姿を夕日に輝かせている。アーべントロートが山々を美しく染め抜いていく。なんという美しさだろう。山が、クーラカンリが私たちにサヨナラをいっているのだ。純白に盛装して、お別れをいっているのだ。さようなら、クーラカンリ!」(「1986.4.28 登山隊長日記」より)

 

8.シャクルトン勝利の方程式

 いよいよ冒頭のシャクルトンにもどるべき時が来た。リーダーシップとは、目標を達成する(1-9型)だけではなく、困難な目標に向かって部下を鼓舞し、手段や自信を与え、挑戦させつづける(9-1型)ことだ。

 文明世界から何千マイルも離れた南極海の流氷の上で、帰るべき船もなく、いかにして生還の道を切り開くのか。リーダーは不屈の精神をもたなければならない。ちなみに、彼らの乗ってきた船エンデュアランス号のenduranceとは「不屈の精神」という意味だ。シャクルトンは大きな危険と途方もない重圧の中で、隊員をまとめ、志気を保ち、全員の安全が確保されるまで脱出計画を練り直した。感情の面では、相手の立場に立ち、親身になった。(1-9型) 理性の面では、大変な重圧の中でも論理的に考えた。(9-1型)

 隊員たちの生死は、希望を失わず、気持ちを前向きに持ちつづけることができるかどうかにかかっていた。いかに隊員の信頼を勝ち取り、忠誠心を養うか。シャクルトンは全身全霊で隊員にぶつかり、肉体的、精神的苦痛から隊員を守った。遭難によって、不安や怒り、絶望といった人間の究極の感情を扱わねばならなかったが、シャクルトンにはたった一つの財産があった。仲間の存在だ。

ここでは仲間こそすべてだ。自分ひとりでは絶体絶命、一人では絶対にここから脱出できない。このことは27人の隊員にとっても事情はまったく同じなのだ。27人が一致団結し、目的をひとつにしてそれぞれの役割を懸命にはたして、そして初めて生還の道が切り開けるのだ。ほかの人間がいるのは数千マイル先だ。こうした状況、重圧の中で隊はバラバラになるか、結束するかのどちらかだ。シャクルトンが偉いのは、常に結束する方向に持っていった点である。

 シャクルトンは個々の隊員と親しく話し合い、心を開かせる(たぐい)まれな能力で、最終的には全員からゆるぎない忠誠心を勝ち取った。その態度はいつも変わらず、親しみやすく、面倒見がよく、朗らかだった。シャクルトンは精神的にも肉体的にも隊を統率し、そして各人が隊にとってかけがえのない存在だと思えるようにした。

 このような隊員の信頼と忠誠心を勝ち取るためのシャクルトンの不断の努力(1-9型) そして、27名全員で生還するというリーダーとしての不退転の意志(9-1型) シャクルトンの勝利は9-9型、統合型リーダーシップにあった。

 そして、シャクルトンのために、もう一つ加えるとするならば、それは知性だ。シャクルトンは16歳で家を飛び出し、船乗りとして自立していた。ために大学も出ていないが、大変な読書家であった。27名の隊員の中には、ケンブリッジ大卒の優秀な科学者もいたが、彼らも等しくシャクルトンを敬愛した。シャクルトンのやり方が色あせないのは、その根底に普遍的な知性があるからだろう。「探検とは知的情熱の肉体的表現である。」 これはチェリー・ガラードという同時代の極地探検家の残したことばである。ガラードの脳裏にシャクルトンのことが思い浮かばなかったはずはないであろう。(完)

 

 次回は『地球46億年の物語』だよ。             (つづく)2016.6.20