20話 近代ヨーロッパはどうして世界を支配できたの

岡市敏治

 

ユーラシア大陸の西突端にある広大ともいえない世界史辺境の地が、近代以降に歴史の重要な舞台となった。ヨーロッパがなぜ近代社会のモデルとなるような『国民国家』を創り出し、世界の富を支配し、文化をリードしたかは一つの謎である。その謎に迫る。

 

近代日本を代表する思想家和辻哲郎教授は、192738歳のときヨーロッパ留学のため横浜港を出港した。モンスーン風土のインド洋を渡り、砂漠風土のアラビア半島を見ながら紅海を経て地中海に入った。ころはちょうど「シチリアの春」も終わりに近づいた3月末であった。

 

1.和辻哲郎の地中海

「地中海」は、その名の示す通り「三大陸地に囲まれた海」として地球上唯一のものである。そして世界文化史上最も目覚ましい舞台の一つとなったのである。黒潮の流れる豊穣(ほうじょう)の海の日本沿海に比べ、地中海は「()せ海」であると和辻教授は看破する。黒潮の海には微生物から鯨に至るまで、無限に多種類の生物が生きている。しかるに地中海は死の海といってよいほど生物が少ない。海に囲まれたギリシャ人は魚ではなく獣肉を食う。

地中海は大西洋につながるジブラルタル海峡がきわめて狭く海水の流動が自由でないうえに地中海にそそぐ河水と雨水の量がきわめて少なく(大河といえばナイル川しかない)、海水の蒸発を補いえぬ程度なのである。ために潮の干満がきわめて少ない(平均0.3m程度)。

 地中海は食物を獲る畑ではなく、古来から交通路であった。地中海は航海に便なのである。島が多い。港湾が多い。霧などはなく遠望がきく。風はきわめて規則正しく吹く。フェニキア人やギリシャ人やローマ人にとって地中海は紀元前の昔から「交通路」であった。山は(へだ)てるが海は結びつける、ということが地中海についてのみは正しい。

 和辻教授はマルセーユで航海の旅を終えるが、マルセーユの海の小さい島々は、ちょうどアラビア半島南端のアデンの山のように、一本の樹もない赤裸の岩塊である。海岸の山々もそれに近い。和辻教授は地中海は「乾いた海」であると断定する。

南に広漠たるサハラの砂漠、東にはまたアラビアの砂漠を控えたこの海は、海水の蒸発ぐらいで空気を潤すことができない。大西洋からの湿気はピレネー、アルプス、アトラスなどの諸山脈にさえぎられてしまう。だから暑熱の季節、すなわち海水の蒸発のもっとも盛んな季節が、砂漠の乾燥した空気によって最もよく湿気の中和させられる季節であり、従ってこの地方の乾燥期になる。地中海とは、夏の太陽が()きつけている土地に雨を送るこのできない海なのである。

 ヨーロッパの夏は乾燥期である。とはいえ、砂漠地域のごとく乾いてはいない。だから冬は雨季である。アルプス山脈の南と北では太陽の力の強弱、晴天と曇天の多少という差はあるが、夏の乾燥はヨーロッパを通じての特性である。そうして南は文化史的にいって、まず初めにヨーロッパであった。まずは、南の地中海世界から考察をはじめ、ヨーロッパの謎に迫ることにしよう。

 

2.ギリシャの民主制

1994年君のママが大学院(大阪大学大学院国際公共政策研究科)に入学した春、僕は君のママと二人でギリシャを旅した。アテネからデルフィまで海岸部を車で移動したが、終日橋を渡ることはなかった。川がないのだ。石灰岩の岩山の冬草の生えているところで、羊が草を食んでいたりするが、山々は乾燥した禿()げた岩山である。せいぜいオリーブかブドウしか生育できない。日本から見れば不毛としかいいようのないギリシャで、今から2500年前、世界史上奇跡ともいえる文明が栄えた。ギリシャ人はアテネのような沿岸部に都市を作り、地中海交易によって繁栄した。この都市国家のことをポリスという。

ポリスはコンパクトな城壁都市で、政治的に完全に自立、独立していて、ギリシャ半島だけでポリスは200を超えた。そのうち最も繁栄したポリスがアテネである。アテネの当時の人口は25万人(内10万人は奴隷)で、市民はペルシャ戦争で重装歩兵や三段櫂船の漕ぎ手として活躍、ポリスを守ったので、参政権をもち、民主主義が実現していた。この民主制のもとで、ピタゴラスやデモクリトスの自然科学、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの哲学、ソフォクレスの悲劇など、今に至る優れた文明が栄えたのである。

 しかし、卓越した指導者ペリクレスが亡くなると、民主主義はたちまち衆愚化する。ソクラテスは、ポピュリズムに毒された民衆裁判によって、国家反逆の罪で毒杯を仰ぎ刑死する。ポリス間の争いもあって、ギリシャは北のマケドニアに亡ぼされ、ヘレニズム時代[1]となる。ヘレニズム時代は、西方に興った古代ローマ帝国によって紀元前31年亡ぼされるまで300年間続いた。

 

3.ローマ帝国とキリスト教

ローマはアテネと同じように前6世紀ころ都市国家ポリスとして始まる。けれども、アテネと違ってローマはポリスだけでは終わらなかった。共和制[2]の都市国家ローマは、紀元前272年イタリア半島全体を統一する。ポエニ戦争でカルタゴを滅亡させ、紀元前31年、エジプトを破り、ついに地中海世界を統一、カエサルの後継者オクタヴィアヌスが初代皇帝となる。共和制ローマはここにローマ帝国となる。

広大な地中海世界を統治しようとすれば、共和制では無理で権力の集中が必要であった。西暦12世紀は「五賢帝の時代」といわれ、帝政ローマは全盛期を迎える。3世紀は「軍人皇帝時代」で、属州の地方軍人が勝手に皇帝を擁立し、皇帝どうしが相争う混乱した時代であった。そうなるのも皇帝が中国やイスラム世界のように天や唯一神から選ばれた者でないので権威がない。ディオクレティアヌス帝は「皇帝を神として崇めよ」と命令を出す。命令に服しないキリスト教徒に、303年皇帝は史上最大の弾圧を加えた。しかしキリスト教徒は屈しない。

313年、コンスタンティヌス帝は「ミラノ勅令」を発しキリスト教を公認、テオドシウス帝の392年にはキリスト教は国教となった。ローマ皇帝は国教である一神教のキリスト教から皇帝の戴冠をうける。今に続く政教分離が確立したのである。

さらにテオドシウス帝は395年、あまりに広大になりすぎたローマ帝国を2つの国に分割した。西が西ローマ帝国、東がコンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)である。4世紀に入ってヨーロッパではゲルマン人の民族移動が活発になる。そして、476年西ローマ帝国はゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされる。(一方、東ローマ帝国は1453年オスマン帝国によって滅亡するまで、さらに1000年間続く。)

 

4.中世封建社会から絶対主義王制へ

 西ローマ帝国の没落以後、ヨーロッパの主役が地中海のローマ人からアルプスを北に越えた西ヨーロッパのゲルマン人に移り、歴史も古代から中世に変わる。そして、文化史的にはローマ・カトリック教会の専制が支配した暗黒の時代となる。

 西ヨーロッパ世界の宗教の専制者となったローマ教皇であるが、西ローマ帝国という世俗権力の支えを失って、その面で東に対し劣勢となった。ところが、800年チャンスが訪れる。今の西ヨーロッパ全土に相当するフランク王国をまとめあげたカール大帝に、ローマ教皇レオ三世はローマのサン・ピエトロ寺院において、西ローマ皇帝の冠を授与した(カールの戴冠)。5世紀に滅びた西ローマ帝国が復活したのである。

 カールの西ローマ帝国は単純な古代帝国の復活ではなかった。むしろそれは古代以来の①ローマ古典文化、②キリスト教、③ゲルマン[3]的な要素の三者が融合したまったく新しい世界、すなわち現代に至るヨーロッパ世界の誕生を告げるものであった。カールの死後、フランク王国(西ローマ帝国)は3人の孫によって三分割され、今のフランス、ドイツ、イタリアの基礎ができあがった。

当時の西ヨーロッパは大森林がつづいていたが、少しずつ切り開かれ、定着農耕が開始されていく。この農業生産の拠点を「荘園」という。近隣の荘園をいくつかまとめた権力者が「封建諸侯(領主)」でその下に騎士がいて、荘園の領民(農奴)を支配した。封建諸侯の上には王や皇帝がいてそれぞれが主従関係で結ばれていた。これを封建制(Feudalismという。このような封建制はヨーロッパ独自のもので、中世ヨーロッパはこの封建制のもとで農業生産が増大した。1112世紀の西ヨーロッパの荘園内部では中世農業革命と呼ばれる事態が起こった。①三()制、②水車の導入、③(ゆう)(りん)()3つの技術革新により、農業生産力が飛躍的に上昇した。余剰生産物の発生は定期市と都市の誕生へと発展、商人ギルドの成立へとすすむ。ここに市民(ブルジョアジー)が誕生する。このような豊富な農業生産力を背景に、11世紀から13世紀にかけて十字軍遠征が7回(10961270)行われたが、キリスト教の聖地エルサレムの回復はならず、失敗に帰した。

十字軍に参加した諸侯や騎士たちは、経済的に窮乏し没落していった。かわって西ヨーロッパ諸国では王権が強まり、16世紀から17世紀にかけ、フランス、イギリス、スペイン、ポルトガル、ハプスブルグ帝国[4]では、絶対主義王権[5]が確立した。

王権が権力を維持するために駆使した機構が、①官僚制と②常備軍である。そして、これを養うための経済政策が「重商主義[6]」であった。しかし、この絶対主義王権は18世紀に、実力を蓄えたブルジョアジーによって粉砕される。これを市民革命と呼ぶ。市民革命の最も典型的なものがフランス革命(17891815)である。

 

5.十字軍遠征

 時代が進みすぎたので話を「十字軍遠征」にもどす。十字軍は聖地奪回という点では失敗だったが、十字軍遠征によって当時世界の最高レベルであったイスラムの科学技術や文化がヨーロッパに伝わった。中国由来の紙、印刷技術、火薬、航海に必須の羅針盤やアラビア数字、インド数学、それにギリシャ文明である。

 スペイン南部のトレドでは、それらが次々とアラビア語からラテン語に翻訳された。十字軍はアリストテレスの哲学などのギリシャ文明をヨーロッパへ橋渡しするうえでも重要な役割を果たし、ヨーロッパへ強烈なインパクトを与えた。すなわちルネサンスの開花である。

 

6.ルネサンス

 ルネサンスは14世紀、まずイタリアで起こり、15世紀から16世紀にかけて西ヨーロッパに拡がった。肉食を主とするヨーロッパ人にとって、アジアの香辛料は必需品であった。十字軍遠征によって、香辛料取引などの地中海交易が盛んになり、東方貿易によるヴェネツィアやフィレンツエなどのイタリア諸都市の繁栄がルネサンスの引き金となった。レオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ、ミケランジェロの絵画や彫刻は今に至る傑作であり、文学ではダンテ、ペトラルカ、ボッカチオなどの天才を輩出した。

中世のヨーロッパの人々は、商工業や都市の発展と共にカトリック教会の厳格な教えやものの見方にとらわれない生き方を求めるようになった。こうした新しい動きは、きっかけとなったギリシャ・ローマの古典古代の自由な市民の生き方を再生させるという意味でルネサンス(文芸復興)と呼ばれた。しかし、ルネサンスは単なる復興ではなく、古典の上に新しい合理的な文化の創造をめざした。この風潮を人文主義(ヒューマニズム)といい、近代人のものの考え方、生き方の基本となっていく。

 

7.宗教改革

 このように社会や文化が大きく変化するなかで、世俗化し形骸化したローマ・カトリック教会に不満が集中するようになった。まず、ドイツのルターが教会の免罪符販売を告発して宗教改革の口火を切った(1517年)。ルターは一部の聖職者しか読めないラテン語で書かれた『聖書』をドイツ語に翻訳した。今、君たちが使っているドイツ語はこの時のルターの努力によって確立したのだよ。ドイツ語の『聖書』はグーテンベルグの活版印刷機によって印刷され、農民や一般市民にひろがり、宗教改革は大きな運動となっていった。

 ルターに少し遅れてスイスのジュネーブでカルヴァンが「救いはあらかじめ神によって定められている」とする『予定説』を唱え宗教改革をすすめた。このカルヴァンの教えはライン川を下ってオランダに伝えられ、海を渡ってイギリスでピューリタンとなる。プロテスタント(抗議者)と呼ばれる彼らの思想が近代社会を生み出していく。

 

8.大航海時代

 イスラム国であるオスマン帝国は1453年に20万人の陸軍と400隻の軍艦で東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルを陥落させた。そして、東地中海の制海権を握ったのである。イタリア商人は香辛料を主とする東方貿易が困難になり、イタリア商業の衰退が始まる。これはイベリア半島のスペインとポルトガルにとってはチャンス到来であった。ここから地中海世界から大西洋世界へのパラダイムシフトが起こる。

 イベリア半島では、レコンキスタ[7]によって15世紀末にはイスラム勢力を半島から駆逐していた。スペインとポルトガルでは国王のもとに強力な主権国家(絶対主義国家)が成立した。ポルトガルは太西洋のアフリカ西海岸を南へ南へと迂回する航海探検を始め、1488年、バルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰に達した。そして1498年、ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰をまわって南インドのカリカットに到着、ヨーロッパとアジアを直結するインド航路を開いた。

 スペイン王室の支援を受けたコロンブスは大西洋を西へ西へと進み、1492年アメリカ大陸に到達した。16世紀始めにはスペイン王の命を受けたマゼラン一行が南アメリカ南端(マゼラン海峡)を通って、太平洋を渡りフィリピン諸島に到達、さらにインド洋から喜望峰をまわりスペインに帰着した。史上初の世界周航であり、地球球形説が実証された。地理上の発見の時代となり、大航海時代の到来によって、ヨーロッパの世界制覇の歴史がスタートする。

 

9.コペルニクスからニュートン「科学革命」

 1543年、ポルトガル人が日本の種子島に漂着し、鉄砲が伝わって日本史は急転回、日本の近代がスタートするが、この年は世界史上でも特別な年であった。コペルニクスが「地動説」を発表したのだ。地球は太陽の周りを回っているという彼の主張は、ヨーロッパの科学に革命を引き起こした。これはヨーロッパのキリスト教世界にとって文字通り天も地もひっくりかえるような出来事だった。

 コペルニクスの「地動説」が転機となって、ルネサンスの合理主義精神は17世紀ヨーロッパに近代科学を誕生させた。ルネサンス期の最大の成果の一つは、明快で簡潔な一貫した科学的方法が発展したことだ。科学的方法でとくに重要なのは、観察と推論(仮説)と実験で、それによって宇宙に関する理論を厳密に調べることができるようになった。この科学的方法を駆使するガリレイやケプラー、ニュートンによって、ヨーロッパに近代科学が誕生する。これはキリスト教出現以来の画期的な出来事で、17世紀はヨーロッパ「科学革命」スタートの世紀となった。

 

10.ヨーロッパには雑草がない

 どうしてヨーロッパにおいてのみ、華々しい「科学革命」が起こったのだろう。和辻教授はマルセーユに上陸後、フランスからドイツへと旅する。そして、「ヨーロッパには雑草がない」ことを実見する。ヨーロッパはどこに行っても、夏でもやわらかい冬草の緑草に覆われ「牧場」的なのだ。

 東アジアのように梅雨から夏にかけて猛烈な暑熱と湿気に襲われるということがない。ヨーロッパの夏は乾期で、したがって雑草は芽生えることができない。夏の農業労働の大半を占める草刈りの労苦がない。湿気が少ないから麦畑に畦を作る必要もない。つまりヨーロッパでは自然が人間に対して「従順」なのである。

 加えて、風が一般にきわめて弱い。砂地に茂る松の木も、牧場の間に立つ落葉樹もそろってまっすぐ直立している。ゴッホの糸杉の絵を思い出してほしい。糸杉はひたすら天を目指してシンメトリーである。人工的と思えるほど合理的である。和辻教授はヨーロッパ風土を次のように規定する。

「自然が従順であることはかくして自然が合理的であることに連絡してくる。人は自然の中から容易に規則を見いだすことができる。そしてこの規則に従って自然に臨むと、自然はますます従順になる。このことが人間をしてさらに自然の中に規則を探求せしめるのである。かく見ればヨーロッパの自然科学がまさしく牧場的風土の産物であることも容易に理解せられるであろう。」

 

11.アメリカ『独立宣言』とフランス革命

 コロンブスがアメリカに到達してから128年後の1620年、イギリスのピューリタン102名が北アメリカ東海岸のプリマスに到着する。そしてみんなで「メイフラワー誓約書」を交わす。アメリカ建国のときである。その150年後の18世紀、アメリカは東海岸に13の州をもつイギリスの植民地になっていた。イギリスは植民地のアメリカに対し、重商主義政策をとり、砂糖や茶、紙などに高額の関税をかけた。1776年アメリカは『独立宣言』を発布する。

「われわれは次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人間は、生まれながらに平等であり、創造主によって、一定の犯すことのできない権利を与えられ、そのなかには生命、自由、そして幸福の追求(pursuit happiness)が含まれていること。」こう高らかにうたいあげた。さらにつづいて「この目的に合致しないような政府は人民がこれを廃止し、人民の安全と幸福を目的とする新しい政府を樹立する権利がある。」

これはカルヴァンの教えから生まれた「自然権[8]の思想であり、イギリス生まれのジョン・ロックの「革命権[9]」そのものである。アメリカ『独立宣言』はヨーロッパ産なのだ。

この13年後の1789年「自由」「平等」の『フランス人権宣言』を発して、フランス革命が勃発する。革命の理念は『アメリカ独立宣言』とルソーの『人民主権論[10]』である。この革命を収束させたナポレオンによって大陸支配のナポレオン戦争(18061815)が始まる。ナポレオン軍は連戦連勝である。フランスは革命によって国民主権の「国民国家[11]」となっていた。

国民国家とは「国を守るために国民が兵隊になる」(徴兵制)ということだ。ナポレオンの軍隊は国民皆兵による世界史上最初の軍隊であった。国民国家こそが近代社会の国家モデルである。1861年にイタリアで、1871年にはドイツでそれぞれ国民国家が成立する。フランス社会を根源から変革したフランス革命は、同時に全ヨーロッパに及び近代社会成立の転換点となった。同時期の1868年日本も明治維新で近代国家として国民国家の仲間入りを果たすのである。

 

12.産業革命

 18世紀後半から19世紀にかけて、フランス革命とその後のナポレオン戦争でヨーロッパ大陸が動乱状態のとき、海を隔てたイギリスでは産業革命が始まっていた。イギリスはいち早く17世紀にピューリタン革命と名誉革命による市民革命を経て、安定した国民主権の政治基盤が確立していた。

 ジェームス・ワットが蒸気機関を発明したことにより、イギリスは安価な綿織物の大量生産が可能になった。良質で安い製品を大量につくれるのは産業革命を起こしたイギリス以外になく、それらをヨーロッパに売りさばき、イギリスは“世界の工場”となった。ここにイギリスにおいて資本主義[12]が成立する。

 人類は有史以前から久しく人力による器具によって生活してきたが、動力エネルギーで運転する機械文明がイギリス人の手で最初に作り出されたことが彼らに世界史における指導権を不動のものとした。

 アメリカの「独立宣言」、フランスの「人権宣言」は近代社会の根本理念だが、産業革命という経済的裏付けがあってこそ自由や権利は現実となる。近代化は市民革命と産業革命を経て実現されていく。産業革命は世界を変えた。

 

13.帝国主義

 イギリスに起こった産業革命は、ナポレオン戦争が終わった19世紀、ヨーロッパ各国に伝播し、ヨーロッパ産業国家群を中心に、ついに戦国時代を現出した。かれらは世界の未開国(アジア、アフリカ、オセアニア)に向かって植民地と市場を獲得しなければ、国家が立ちゆかなくなった。帝国主義[13]時代の到来である。

 世界に先駆けて近代化を果たしたヨーロッパは、その政治的、軍事的、経済的優位性を背景に、海外への植民地進出を行い、20世紀初頭には世界の陸地の40%以上、世界人口の30%以上をその支配下においた。ユーラシア大陸の西突端にあり、中世までは世界史辺境の地でしかなかった西ヨーロッパが、近代500年においてどうして輝ける星となれたのか。

ギリシャから古代ローマ帝国、中世ヨーロッパ封建社会、ルネサンス…と歴史をたどってきたのだが、それにしてもなぜヨーロッパのみこのような歴史的発展が可能だったのかという疑問が残る。最後にその疑問を解こう。

 

14.文明の生態史観

 第2話『不思議の国ニッポン』で君のママの国ニッポンがどうしてアジア、アフリカの中で唯一ヨーロッパの植民地とならず高度の産業国家となれたのか、その謎を解こうとした。その話を思い出してほしい。日本の著名な文化人類学者梅棹忠夫氏はその著『文明の生態史観』で、その謎に迫ろうとした。

ユーラシア大陸の遠く離れたその両端の西ヨーロッパと日本で、しかもこの2地域のみで、どうして高度の資本主義社会が発達したのか。次の「ユーラシア模式図」を見てほしい。

  ユーラシア模式図

 

 

ユーラシア大陸中央部の乾燥地帯は悪魔の巣窟。この地域から遊牧民が暴風雨のように文明社会に襲いかかった。

ユーラシア大陸を横長の楕円形で表すと、西ヨーロッパと日本は東西の両端、そのはしっこに位置し、それぞれが遠く隔たっている。にもかかわらず、この2つの地域は高度に発達した資本主義体制で、その歴史モデルは驚くほど類似している。この体制はいずれも、革命(フラン革命他と明治維新)を経てブルジョアジーが実権を握った。革命前はどの国も絶対君主制(ブルボン王朝他と徳川幕府)でこれ自体は封建制に根付いたもので、封建制度がブルジョアジーを産み育てた。(日本では元寇をやっつけた鎌倉時代から封建制が始まる。)

 

 西ヨーロッパと日本の歴史進化は封建制から絶対君主制、市民革命、資本主義、そして高度文明社会へと順次進んできたが、そのような歴史進化を見せた国は、アジア、中東、アフリカのどこにもない。なぜか。

 

 

 

15.ユーラシア中央部は悪魔の巣窟

 

 もう一度ユーラシア模式図を見てみよう。ユーラシア大陸を北東から南西に横切る巨大な乾燥地帯(ユーラシア中央部)があるだろう。これはオアシスの点在する砂漠かステップで、その縁に森林ステップとサバンナがある。ここは実は悪魔の巣窟なのだ。2600年前の昔から、スキタイ、匈奴、フン、モンゴル、イスラム(アラビア、トルコ系民族)といった遊牧民がこの地域に現れ、暴風雨のように文明社会に襲いかかり、文明はしばしば、立ち直ることの困難な打撃をこうむってきた。

 

 しかるに、遠く離れた西ヨーロッパと日本に、同じような歴史の進化の平行現象がみられるのは、両地域が遊牧民の巣窟である乾燥地帯から遠いという主に地理的要因だと梅棹氏は指摘する。それは、「西ヨーロッパと日本が乾燥地帯の暴力の源泉から遠く離れた地域だった」から。つまり、2つの地域は(かいこ)がさなぎ(封建制)、(まゆ)(絶対君主制)やがて蝶(資本主義体制)となるような、内部からの力による歴史進化が可能な、恵まれた温室のような地域だったというわけだ。

 

 1529年と1683年、何十万というオスマントルコ軍(トルコ民族は遊牧民)が君たちの生まれた故郷ウィーンを包囲した。13世紀にはモンゴルの大軍が世界制覇を目指してユーラシア大陸を西へ西へと蹂躙(じゅうりん)し、ロシアは260年間もその占領下におかれた。これを「タタールのくびき」というが、西ヨーロッパまでは届かなかった。西ヨーロッパは乾燥地帯のモンゴル高原からあまりに遠すぎたのだ。

 

 日本も1274年と1281年にモンゴル軍に元船4400隻と14万の大軍で攻められた(元寇(げんこう))。しかし折からの台風(神風)もあって元船はことごとく海の藻屑(もくず)となった。モンゴル軍は朝鮮海峡200キロを馬でなく未経験の船で渡らねばならなかったからだ。

 

 それにひきかえ、乾燥地帯の縁辺部にあたるⅠ中国世界、Ⅱインド世界、Ⅲロシア世界、Ⅳ地中海世界はどうだろう。ここは黄河文明、インダス文明、メソポタミア、エジプトの4大古代文明の発祥地だが、古代もそれ以降もおおむね独裁者体制で、封建制度は成立せず、したがってブルジョアジーも存在せず、専制君主制がずっと続いた。

 

 なぜか、この4つの地域はいずれも乾燥地帯に隣接し、そこから繰り出す遊牧民の破壊と征服支配の歴史なのだ。一時は立派な社会を作ることができても、その内部矛盾がたまって新しい革命的展開に至るまで成熟することができない。建設と破壊の繰り返しで、西ヨーロッパや日本のように、さなぎから蝶になるような自成的な歴史進化が不可能な不幸な地域だったというわけだ。

 

 つまり、西ヨーロッパが近代になって世界を支配できたのは、なにも白人種ゲルマンが民族として黒人や黄色人種より人種的に優秀だったわけではない。西ヨーロッパが地政学的に恵まれた地域だったのだ。日本も朝鮮のような半島国家であったならば、地続きの中国やモンゴルに制圧され、惨めな歴史をたどったに違いない。ホモ・サピエンスとして人種間に優劣はない。                           2018.7.1

 

 (完)

 

 

 


 

[1] ヘレニズム時代:アレクサンダー大王が、ペルシャ帝国を倒し(紀元前330年)、ギリシャからオリエント・インド西部にまたがる世界帝国を樹立してから、古代ローマ帝国がエジプトを破る(紀元前31年)までの300年間をいう。世界的、普遍的性格をもった新しいギリシャ風文化=ヘレニズム文化が生まれた。

 

[2]共和制(Republic):君主制の反対概念。国家主権が一人だけではなく、合議制の最高機関で政治を行う。

 

[3] ゲルマン(German):ドイツ人、アングロサクソン(イギリス人)、オランダ人、デンマーク人などのインド・ヨーロッパ語族の総称。

 

[4] ハプスブルグ帝国(Habsburg Monarchy):オーストリアを中心にボヘミア、ハンガリー、北イタリアを含むハプスブルグ家支配下の諸領邦の総称。962年から1918年まで1000年近く続いたヨーロッパの名門。

 

[5] 絶対主義王政(Absolutism):近代初期のヨーロッパに現れた王権の強い政治体制。官僚制と常備軍によって中央集権化を進めた。日本の徳川幕府もこれに相当する。

 

[6] 重商主義(Mercantilism)1618世紀の西ヨーロッパ諸国(絶対主義王政)で官僚、軍隊、宮廷の費用をまかなうため王権がとった保護貿易主義。

 

[7] レコンキスタ(Reconquista):スペイン語で「国土回復運動」の意。711年の侵略以降イスラムの支配下におかれたイベリア半島をキリスト教徒の手に奪回する征服戦争。

 

[8] 自然権:生命、自由、平等、財産などは民族を問わず全人類が生まれながら神によって保障された権利であるとする思想。カルヴァンの教えから生まれた。

 

[9] ジョン・ロックの革命権:王が人民から委ねられた主権を悪用して人民を迫害する場合には、人民はこの王を倒して別な王を選ぶことができる。イギリスのピューリタン革命、名誉革命の体験が元にある。

 

[10] ルソーの『人民主権論』:土地私有を基礎とする階級制度を打破し、王を倒して人民主権を実現せよ、とする思想。

 

[11] 国民国家(Nation State):アメリカの独立やフランス革命によって生まれた国民によって構成される国家のこと。近代国家を国民統合を重点においてとらえた概念。

 

[12] 資本主義(Capitalism):世俗の職業に従事することが神から与えられたこの地上における使命であるとするカルヴァンの教え(プロテスタンティズム)の禁欲的職業倫理は、ドイツの思想家マックル・ウェーバーによって資本主義の精神と結び付けて説明され、資本主義が躍進するベースとなった。

[13] 帝国主義(Imperialism)19世紀以降、ヨーロッパ列強の間で顕著になった植民政策。市場、資源、労働力をもつアジア・アフリカ等の地域が列強の植民地、従属国となった。帝国主義は膨張主義で、第一次世界大戦は帝国主義戦争であった。

第20話 近代ヨーロッパはどうして世界を支配できたの.pdf
PDFファイル 653.7 KB